来日オーケストラ&指揮者特集!2023春夏 
柴田克彦の音楽日記をイッキ見

高関健率いる東京シティ・フィルを、ぜひ聴いて欲しい! その1


柴田克彦 / 更新日:2022年1月14日


東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第九特別演奏会 2021年12月28日 東京文化会館 



 ここ3年ほど東京シティ・フィルの定期演奏会のプログラム解説とチラシ裏の紹介文を担当している。ゆえに手前味噌的な気配が漂い、闇雲な賞賛は憚られるのだが、それでもあえて言いたい。「今このオーケストラはもっともっと光を当てられるべきだ」。強くそう思うほどいい演奏を続けている。最大の要因はむろん2015年から常任指揮者を務める高関健の手腕と尽力にある。

 2021年12月のベートーヴェン「第九」が良い例だ。それは隅々まで細かな配慮がなされた精緻な演奏。ヴィブラート(チェロ等の一部を除いてほとんどノン・ヴィブラートだったと思う)や音の切り方など、ピリオド奏法が取り入れられてはいるのだが、ありがちな「ピリオド奏法の応用」にとどまらず、フレージングやアーティキュレーションやダイナミクスなどあらゆる面に高関の研究の成果が反映された、「今こうしたベートーヴェンを、こうした『第九』を演奏したい」との意志が極めて明確な表現だった。引き締まったテンポと響きの中で、楽譜に書かれた様々な動きが自在に浮き彫りにされていき、ダイナミクスが細かく変化する。特にいつも勢いで押し切られる終楽章最終場面での強弱や表情の細かさには恐れ入った。合唱はオーケストラ付きのアマチュアなので、新国立劇場合唱団や東京オペラシンガーズ等に比べると当然小さくて弱いが、そこも逆手にとったかのように(オーケストラの1パートのように扱い、と言うべきか)、普段消されがちな管弦楽の動きが強調されるから、随所で新鮮な感触が生まれる。しかもこれら全てが音楽の自然な流れに沿って遂行されていくので、楽曲と演奏が与える感銘も申し分ない。慣例的なタメや強弱に溢れた「ジャパニーズ年末第九」とは完全に異なる、しかしメトロノーム指定に即した「せかせか第九」でもないこの唯一無二の演奏は、筆者がこれまで聴いた「年末第九」の中でも出色、いや一番とさえ言えるほどだった。 

 高関とてこの表現は単発の客演ではまず不可能であろうし、手兵のシティ・フィルであっても、コンビを組んで7年の積み重ねあってこそ可能だったであろう。(おそらく)高関が「今ならやりたいことができる」と考え、メンバーも真摯にそれに応える。これはシェフと楽団の在り方として1つの理想形であり、当コンビの現在の充実ぶりの良き証でもある。本公演を聴いて両者の今後がますます楽しみになった。 

ベートーヴェンの7番はやはり名曲だった(?)


柴田克彦 / 更新日:2021年11月8日


オーケストラ・アンサンブル金沢 第447回定期公演 <フィルハーモニー・シリーズ> 2021年10月21日 石川県立音楽堂コンサートホール



 久々に泊まりがけで遠征した。マルク・ミンコフスキ指揮/オーケストラ・アンサンブル金沢のベートーヴェン全交響曲演奏会の4回目(第4番&第7番)を聴くためだ。7月に行われた初回公演の第1番と第3番の弾力感と愉悦感に魅了され、他の曲もぜひ体験したいと思ったのだが、この時は6日間に3公演が行われる集中的なスケジュール。1週間に2度の金沢往復は時間&金銭的(東京-金沢間の新幹線はことのほか高い……)に厳しいので諦めたところ、第5番が凄かったとの声を耳にし、「ならば無理してでも行けば良かった」と後悔した。それゆえ、演奏の方向的に最も合っていそうな第4番&第7番は絶対に逃したくなかったのだ。前回は14:00開演ゆえに日帰りしたが、今回は19:00開演なのでホテルもとって万全の態勢。計算上は21:01発の最終新幹線に間に合いそうだったが、聴きながらハラハラしたくはないし、せっかくの遠出だから翌日はプチな金沢観光でもしようと、意気込み十分で乗り込んだ。

 結論から言うと、行って良かった。交響曲第4番の序奏から、細かなニュアンスと抑揚の大きさにまず驚かされる。主部はミンコフスキならではの推進力抜群の進行。しかもダイナミクスの語彙がえらく豊富だ。第2楽章はことのほか豊かに歌われる。だがリズムや拍節感が明確ゆえに引き締まった優美さが漂う。躍動的な第3楽章を経た第4楽章は、細かな動きが明瞭で前進性が漲っている。

 後半の第7番。ここもニュアンスと響きが豊かな第1楽章の序奏にまず感服させられる。主部も第4番以上に活気が横溢。リズムが常に明確なので曲の特質がはっきりと伝わる。第2楽章は今回最も驚いた場面。ミンコフスキはもとよりピリオド楽器勢全般の傾向から、速めのインテンポでの表現を予想したのだが、あにはからんや遅めのテンポでたっぷりと歌われる。これは意外。その中で弱音の緊張感が物凄く、各フレーズが自在に伸縮するので聴き応え十分だ。第3楽章も溌剌とした主部に続くトリオがまたしても遅めのテンポでじっくりと歌われる。タメやルバートも大胆で、まるで往年の巨匠のようだ。第4楽章は予想通りの超快速テンポ(これまで聴いた中で最速かもしれない)で運ばれ、超絶的な推進力がもたらされる。第1楽章もそうだったが、終盤のバッソ・オスティナートをことのほか強調していた点も印象的だった。

 正直なところアンサンブルの精度は今ひとつで、中でも4番は管楽器の事故が気になった。もう1日公演があれば(この公演が1回というのはもったいない)、かなり良くなったのではないかと思わせる演奏とも言えようか。だが音楽自体の新鮮さはそうした技術面を超越していた。7番は特にそう。実はこの曲、個人的にはチャイコフスキーの交響曲第5番と並ぶ“辟易曲”で、“ステレオ・タイプの興奮させ演奏”というか“高揚感の強要”というか、「どうだい、エキサイティングだろ!」と言わんばかりの演奏パターンに鼻白むことしきりだった。しかもただでさえ人気曲だった7番は、「のだめ~」以来グンと演奏回数が増え、編成少なくして盛り上がるのでコロナ禍ではさらに聴く機会が多くなった。その度に「ブラボーが禁止されていて良かった」と安堵する状態が続いていたのだが、この日はそれを全く感じることなく、ブラボーがないのが残念にさえ思えた。

 チャイコフスキーは、自身5番に関して「あの中には何か嫌なものがあります。大げさに飾った色彩があります」とフォン・メック夫人への手紙に記している。そうした一種の“あざとさ”が、ベートーヴェンの7番にもあるのではないか? 聞き始めた頃は2曲とも両者の交響曲の中で一番好きだったが、いつしか鼻につく……。ベートーヴェンの交響曲中、5番は何回聴いてもそう感じないので、これは曲が持つ特定の性格なのだろう(もしくはパーソナルな好みの問題か)。何はともあれ、ミンコフスキ/OEKの7番はその“あざとさ”をまるで感じさせなかった。なぜなのだろう? かくして今回は、演奏の在り方(あるいは聴き方)を今一度考えさせられることになった。

 本編が終わったのが20時37分頃。ところが初演時に習ったのか、7番の第2楽章がそっくりアンコールされた。その演奏は本編に比べて音の質量がグンと増していたし、何より感動的。最初のテーマを聴いて泣けてきそうだった。一人勝手に酔いしれていたのかもしれないが、演奏会というのはそもそもそういうものだろう。アンコールが終わると20時53分。ホテルをとっていて良かった。結果的には最終に間に合ったが、ハラハラして演奏に集中できなかったのは明白だ。

 翌日は午前中に市内を観光。兼六園は2度行ったので、今回は金沢城公園内の各所と21世紀美術館を観て帰京した。21世紀美術館はどうやらトレンド的な場所になっているらしく、金曜日の午前中だというのに若者グループやカップルを中心にかなりの混雑。13時前に出る東京行きの新幹線も満席だったので、感染者が減って人流も増しているようだ。それでもこうした楽しみの復活(機運)は、間違いなく気分を明るくさせる。

<フェスタサマーミューザKAWASAKI2021 レポート4>


柴田克彦 / 更新日:2021年8月14日


ベスト3でなくてもみな愉しい! 今年のフェスタサマーミューザの多彩な8公演、その2。 <フェスタサマーミューザKAWASAKI2021 レポート4>



2021年8月3日 鈴木秀美指揮/神奈川フィルハーモニー管弦楽団  他
ミューザ川崎シンフォニーホール


 フェスタサマーミューザKAWASAKI2021のレポートの最終回。ここでは8月の4公演を振り返る。

 8月3日(火)の鈴木秀美&神奈川フィルハーモニー管弦楽団は、ドヴォルザークの序曲「謝肉祭」と交響曲第8番というお馴染みの名曲で、いかなる表現がなされるか?が焦点となる。実際のところ、ボヘミア色を前面に打ち出した民族舞踊的な演奏になるはずもなく、タイトで明晰な新味のドヴォルザークが展開された。特に交響曲は音楽の構造や変化が隙なく表出されたといった感。第4楽章冒頭のファンファーレをオクターヴで吹かせた(初演時の作曲者のアイディアだという)点も興趣を盛り上げた。ただ最も惹かれたのは、シューマンのヴァイオリン協奏曲における郷古廉のソロだ。贅肉のない澄んだ音色で堅牢かつ奥深い音楽を彫琢していくその演奏は、どこか捉え難い同曲の鬱としたロマンを、他に類のないユニークな魅力へと変換。編成を絞ったバックの透明感もそれに寄与した。

 8月5日(木)の飯森範親&東京ニューシティ管弦楽団は、昨年来聴く機会が激減したマーラーの交響曲第5番の生演奏が目玉。弦楽器は12型で、飯森の指揮も珍しく淡々としてはいたが、その分妙な暑苦しさがないのがいい。ここはストレートな表現で同曲の多彩な面白さが明示された。それにしても第3楽章の立奏をはじめ、ホルンのトップ奏者が上手い。この楽器は人材難だけに彼は今後要注目だ。前半のバルトークのピアノ協奏曲第3番では、ハンガリーゆかりの金子三勇士が強靭さとしなやかさを兼ね備えたソロを披露。バルトークは彼の持ち味にピッタリだ。

 8月7日(土)の下野竜也&日本フィルハーモニー交響楽団は、シェイクスピア&ゲーテに因む「文豪プロ」のアイディアが光っている。前半はシェイクスピア絡みの音楽。ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲、ヴォーン・ウィリアムズの「グリーン・スリーヴス」による幻想曲、ニコライの歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲で、ツボを押さえた好演が展開された。こうした単品の連なりは下野ならではの妙手。オーケストラ好きにはすこぶる愉しい。後半はベートーヴェンの劇音楽「エグモント」全曲。こちらはゲーテの戯曲のための作品だ。CDで聴くと序曲以外の曲はどうも薄味に感じるのだが、今回はカロリー十分で劇的な音楽に聴こえる。宮本益光の“音楽的”な語りと、ソプラノの石橋栄実の清澄なクレールヒェンの歌も相まって、レアなドラマを飽きることなく堪能した。

 8月9日(月)の原田慶太楼&東京交響楽団は、変化球が多投されたフィナーレコンサート。まずは「皆様ご存じの名曲にて華やかに大団円」のパターンにしなかった関係者の見識を讃えたい。最初のヴェルディの歌劇「アイーダ」の凱旋行進曲とバレエ音楽は本日唯一の有名曲だが、ヴェルディ没後120年と「アイーダ」初演150年に因んだ(+次曲との関係による)選曲との由。同曲が溌剌と演奏された後は、ブリティッシュ・カウンシルと川崎市の提携による「かわさき=ドレイクミュージック アンサンブル プロジェクト」から生まれた「かわさき組曲」が披露される。これは、川崎市内の特別支援学校の生徒たちが「アイーダ」の音楽にインスパイアされて生み出した多数のモティーフを、イギリスのベン・セラーズという人が1曲にまとめたもの。ここではソフトで温かな音楽がしなやかに奏された。後半最初のアダムズの「アブソルート・ジェスト」は、オーケストラと弦楽四重奏のための作品。今度は耳の聞こえない障害者=ベートーヴェンにインスパイアされた音楽で、「第九」や弦楽四重奏曲Op.135などの断片が現れる。今回は気鋭のカルテット・アマービレと東響が引き締まった競演を繰り広げた。カルテット・アマービレがアンコールで主な元ネタ(?)のOp.135の第2楽章を演奏したのも気が利いている。最後の吉松隆の交響曲第2番「地球(テラ)にて」は、1991年の作=今年30歳を迎えた作品。40分弱の力作が濃密・壮大な演奏で鳴り響き、今聴くべきこの曲の意味が伝えられた。それにしても原田の指揮は、常に変わらず生気が漲り、パッショネイトで躍動的だ。今回のプロでの感銘は、いかなる音楽にも生命を吹き込む彼の指揮あってこそといえるだろう。

 これにてフェスタサマーミューザKAWASAKI2021は終了。今年も佳き公演の畳み掛けを存分に満喫した。様々なオーケストラを一定期間内に同じホールで聴けるという不変の魅力に加えて、プログラム内容が年々充実してきたこの音楽祭。単純な名曲の羅列ではない点を高く評価したいし、「ポピュラー名曲オンリーではなく、さりとて定期演奏会では組みにくいプログラム」(最後の2公演はその典型例だ)が多いのも、存在意義をさらに高めている。しかしながら終わってしまうとえらく寂しい……。今年もまた「フェスタサマー」ロスに陥っている。
39 件



TOP