柴田克彦の音楽日記をイッキ見

多彩で刺激的な1ヶ月…… 海外オーケストラの来日ラッシュ・番外編


柴田克彦 / 更新日:2023年11月29日


内田光子 with マーラー・チェンバー・オーケストラ 他  2023年10月31日 ミューザ川崎シンフォニーホール 他



 前回のベルリン・フィルを最後として、この約1ヶ月強に7つの海外オーケストラの来日公演に接したことになる。また、11月末にはアラン・ギルバート指揮/NDRエルプ・フィルハーモニー管弦楽団の公演もあったが、残念ながら聴くことはできなかった。これを入れれば8つ(本来はラハフ・シャニ指揮/イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団も予定されていた)のオーケストラが訪日。コロナ禍における状況(団体はもちろん単独の指揮者でさえ来日困難だったこと、異様なほどのディスタンスの取り方等々)を思えば、驚異的な回復ぶりと言うほかない。

 このほかに、内田光子 with マーラー・チェンバー・オーケストラ、ウィリアム・クリスティ指揮/レザール・フロリサンの公演もあった。共に通常一般のオーケストラ公演とは若干異なるので当コーナーでは触れなかったが、両者を含めると10団体。いやはや連日大変とはいえ、多彩な個性を楽しむと同時に、オーケストラの伝統や現況を改めて考える機会ともなった。

 ここで上記2団体に触れておこう。内田光子 with マーラー・チェンバー・オーケストラは、さすが雄弁なピアノと若々しいオーケストラの協奏で、モーツァルトのダイナミズムを味わった。オーケストラとしてはシェーンベルクの室内交響曲第1番の意欲と生彩に充ちたパフォーマンスが印象的。クリスティ指揮/レザール・フロリサンは、バッハの「ヨハネ受難曲」で芳醇かつ引き締まった演奏を展開。エヴァンゲリストを担当したバスティアン・ライモンディの好唱が光り、特に後半は深い感銘を受けた。

 あと1つ触れておきたいのが、ベルリン・フィルが行った「Be Phil オーケストラ ジャパン」。これは 日本のアマチュア音楽家がベルリン・フィルのメンバーと共にコンサートを行う企画で、約1200人の応募者の中から選ばれた98名が、ベルリン・フィルのメンバーや、指揮を受け持つキリル・ペトレンコとラファエル・ヘーガーの指導によるリハーサルを経て本番に臨んだ(同公演は、毎日クラシックナビの「速リポ」のコーナーにリポートを書いたので興味のある方はご参照を)。そして、弦楽器をはじめとする予想以上に高いレベルのオーケストラが懸命の演奏を繰り広げ、爽やかなインパクトを残した。この公演では、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」組曲をペトレンコが指揮したのだが、こうしたオーケストラを振ると、あまりに上手いベルリン・フィルでは今ひとつ判然としない彼の音楽作りの特徴(的確な指示と引き締まった造作、強弱の幅広さや巧みな表情変化など)がかえってよくわかるのも思わぬ収穫だった。

 最後に今秋の来日オーケストラの個人的なベストスリーを。1位はベルリン・フィル、2位はチェコ・フィル、3位はロイヤル・コンセルトヘボウ管。

名実共に“世界最高峰”…… 海外オーケストラの来日ラッシュ第7弾


柴田克彦 / 更新日:2023年11月29日


キリル・ペトレンコ指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 2023年11月21日 ミューザ川崎シンフォニーホール 、11月23日 サントリーホール



 キリル・ペトレンコがシェフ就任後初めて日本で指揮するベルリン・フィルの公演。幸いなことに用意された2プロ双方を聴くことができたので、まとめて記しておきたい。

 ベルリン・フィルはとにかく上手い(巧い)。サウンドは精緻かつ強靭で、まさに“精密な大戦艦”の趣。これは2公演通しての総合的な感想だ。「ベルリン・フィルなのだから当たり前」と言えば話は終わるが、それで片付けてしまって良いのだろうか? 学生時代の1970年代後半、ショルティ&シカゴ響、ハイティンク&コンセルトヘボウ管、ベーム&ウィーン・フィル、カラヤン&ベルリン・フィルを続けて(順不同)聴いた時には、それら全てのあまりの上手さに心底驚嘆した。何かが決定的に違う!とも思った。だが今秋のこれまでの海外オーケストラを聴いて、そうした感触は得られなかった。むろん前記各コンビほどの極め付きは滅多にないであろう。だが、ある時期から続く一種の物足りなさ……。実際に海外楽団のレベルが低下しているのか? はたまた、こちらの耳が肥えて(慣れて)しまった上に、日本の楽団の水準が向上したため、驚きがなくなってしまったのか? 本当はどうなのだろう?と思うところしきりだった。今回のベルリン・フィルは、それを跳ね除けて久々に凄さを実感した。音楽表現自体の好悪は当然あるだろう。だが、かくも圧倒的な機能性とサウンドは、それだけで1つの芸だ。個人的には「これを聴いて文句がある人は、一体何を聴けば満足するのか?」と声を大にして言いたい。

 ペトレンコは、明確・的確なタクトで、ダイナミックレンジが広く、表情豊かで流れの良い音楽を紡ぐ。しかも彼は、極端に言うと「カラヤン時代のベルリン・フィルへの回帰」を図っているようにも思われる。ベルリン・フィルは、アバド、ラトルと進むにつれて、タイトでエッジの効いた造作を重んじる傾向が強まった。だがペトレンコは、豊潤な弦楽器を重用しながら、古雅な香りや温かみや瑞々しさをも湛えた音楽を生み出そうとしている。もちろんカラヤン時代の豊麗極まりない音ではなく、重層的でいながら引き締まった音ではあるが、一部専門家をはじめとする過剰なまでのピリオド信仰(誤解なきよう付記すれば、ピリオド楽器演奏やその応用自体の良さはもちろんある)に若干辟易している身としては、これがとても好ましい。

 両日の演奏にも簡単に触れておこう。川崎公演のプログラムは、モーツァルトの交響曲第29番、ベルクの「オーケストラのための3つの小品」、ブラームスの交響曲第4番。これまた“カラヤン・レパートリー”である。コンサートマスターはヴィネタ・サレイカ=フォルクナー(ベルリン・フィル初の女性コンマス)。

 モーツァルトの第1楽章は、柔らかくも引き締まった音で、ダイナミックな表現がなされる。第2楽章は実に細やかで、第3楽章はキビキビと速く、主部とトリオの対比が鮮明だ。第4楽章は生気に富んだ締めくくり。カラヤン流の流麗でレガートなモーツァルトでも、中欧風(あるいは旧東側風)の典雅でまろやかなモーツァルトでもなく、ピリオド系の直線的でスリムで乾き気味のモーツァルトでもない。あえて言えば、ピリオド的な演奏を経た後のストレートで高精度ながらも芳醇なモーツァルト。この曲は、温和すぎると冗長だし、バサバサやられると味気ないので、現代のモダン楽器演奏としてはこのくらいが丁度いい。

 次のベルクは、超巨大編成ゆえに来日組の生演奏は珍しく、まずはこれをプログラミングしてくれたこと自体を讃えたい。曲の性格もベルリン・フィルのような高機能の重量級楽団にピッタリ。超精緻かつ威力大なるパフォーマンスはまさに圧倒的だ。

 後半のブラームスの4番は、エネルギッシュでダイナミックな快演。第1楽章は、動的だが豊潤で、細部の表情やリズムにも目配りが効いている。しかも終盤の盛り上がりは、個人的に好きなカラヤン&ベルリン・フィルの最後の録音(1988年)を思い起こさせる。第2楽章は、強弱の幅が広大で、特に弱音の侘しさが印象的。第3楽章は活力溢れる快速演奏。第4楽章も、自在の変化を遂げながら、力と勢い十分に前進する。この曲を聴いて、これほど気持ちが高揚したのは久しぶりだ。

 サントリーホール公演のプログラムは、レーガーの「モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ」と、R.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。コンサートマスターは樫本大進が務める。

 レーガー作品の演奏は来日組では極めて珍しい。まずは主題の優美でしなやかで繊細な表現が魅力的。その後は変奏ごとの表情変化も鮮やかに進み、壮麗なクライマックスへと至る。

 「英雄の生涯」は、第1曲「英雄」の重層的かつ緻密な構築、第2曲「英雄の敵」の木管と弦の対比が光った後の第3曲「英雄の伴侶」の樫本のソロが圧巻。美しく繊細で弾力感があり、しかも余裕すら感じさせる。これまで聴いた同曲のソロの中では最高と思えるこの演奏は、彼のソリストとしての実績と腕前が存分に生かされた感がある。第4曲「英雄の戦い」以下は、目眩く音の乱舞と、細やかな表情や色彩美が披露され、最後には寂寥感も醸し出される。「ベルリン・フィルなら当然」の凄演ともいえるが、以前のラトル指揮による「細部を顕微鏡で見たかのような」情報量膨大な演奏とは少し違った、温度感や味わいを湛えた表現が、ペトレンコとのコンビならではの魅力でもあろう。

指揮者とオケの良好なコンビネーションが示された今回の公演。一部否定的な意見も耳にしたが、個人的には今年のベストだ。

強靭で輝かしいが…… 海外オーケストラの来日ラッシュ第6弾


柴田克彦 / 更新日:2023年11月27日


アンドリス・ネルソンス指揮/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 2023年11月22日 サントリーホール 



 “伝統の響きとは何か?”を考えさせられたコンサート。先のウィーン・フィルにもそうした要素はあったが、こちらは“世界最古の市民オーケストラ”であり、旧東のオーケストラゆえに、余計それが気になった。重厚で渋くくすんだ響き……そうしたイメージのゲヴァントハウス・サウンドが、リッカルド・シャイーのシェフ時代に大きく変貌したのは、重々承知している。ブリリアントで強靭な金管が際立つ高機能オーケストラとしてのシャイー&同楽団は、マーラーの交響曲第7番などで鮮烈な名演を聴かせてくれた。だが、ブルックナーの交響曲の中でも表現が難しい第9番で、その方向性を貫くのはどうなのか?と、今回は聴きながら?マークが終始点滅していた。ただし、細やかな作りもなされた輝かしく壮大な演奏であったことは確か。それはゲヴァントハウス管以上にネルソンスの個性が表に出た表現とも言えるだろうか。

 1曲目はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死。終始張り詰めた緊張感の中で、情念渦巻くような音楽が展開される。だが耽美的な要素は少なく、硬質なテイストが支配してもいた。

 後半のブルックナーの交響曲第9番は、荒々しいまでに激しい演奏。ただそれも、第1、2楽章では1つの魅力となっていたし、第1楽章の切ない主題の場面での急な弱音も、感動的なほどの効果をあげていた。しかし、咆哮する金管楽器、特に陽性の音色で鳴り響くトランペットなど、1、2楽章はまだしも、浄化へと向かう第3楽章ではヘビーに過ぎる。とはいえ、この楽章を「生からの別れ」と捉えるのは、一面的な固定概念なのかもしれない。これはあくまで「未完の大交響曲の第3楽章に過ぎない」……ネルソンスが生み出す音楽はまるでそう言わんばかりだ。ブルックナーの9番をダイナミックで壮大なロマン派交響曲だと思えば、これも1つの光輝な姿なのだろう。
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