スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』を見て(その1)

スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』を見て(その1)

レナード・バーンスタイン作曲、スティーヴン・ソンドハイム作詞の名作ミュージカルを、スティーヴン・スピルバーグ監督が再映画化した『ウエスト・サイド・ストーリー』を完成披露試写会で見てきた(12月23日TOHOシネマズ日比谷Screen 1)。たいへん長くなったので、映画本編のレビュー(ネタばれ有)とサントラのレビュー(ネタばれ無)に分け、さらに本編のレビューを2つに分けて書き記す。ますは、「その1」(ネタばれ有)。
  • 前島秀国
    2021.12.31
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スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』は、一言で要約すると“分断”の映画である。ジェローム・ロビンズとロバート・ワイズが1961年に映画化した『ウエスト・サイド物語』(以下、1961年版と略)が、1957年にブロードウェイで初演された舞台版が、あるいは原作となったシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」が、社会の“分断”を扱っていたという意味で、今回のスピルバーグ版も“分断”という問題を真正面から扱っている。だが、それだけではない。今回のスピルバーグ版の脚色も手掛けたトニー・クシュナーが脚本を執筆したスピルバーグの過去作、すなわち『ミュンヘン』と『リンカーン』が民族の“分断”や政治の“分断”を描いていたという意味でも、この映画は紛れもなくスピルバーグの作品である。そしてもうひとつ、映画作家としての彼が危機感を抱いている“分断”、すなわち現代の若い世代が過去の名作を見なくなり、映画館に足を運ばなくなったという意味での“分断”も、この映画は暗に描いている。論点を明確にするため、まずは1961年版とスピルバーグ版の最大の違いを指摘しておこう。

70mm映画全盛時代に作られた1961年版は、現代の視点で見直すと、基本的にはブロードウェイの舞台の臨場感を70mmの巨大なスクリーンで再現しようとした一種のライブビューイング作品である。ニューヨークの現地ロケは本編冒頭の<プロローグ>などごく一部に限られ、大半はスタジオのセットの中で演じられている。有名なダンス・ナンバー<ダンス・アット・ザ・ジム>は、1961年版では極端なローアングルで撮影され、カメラはほとんど動かない。正月にNHK BSで放映される8K版または4K版を見ればわかるように、1961年版は客席の最前列で“ショー”を見る視点で作られている。セットの書き割りもバレバレだし、プエルトリコ側の登場人物を演じるキャストたちは、極端なまでに黒さを強調した不自然なメイクをしている。そのキャストが踊る1961年版のダンスは――ジェローム・ロビンズの振付は60年以上前の時点では非常に革新的だったけれど――現代の激しいダンスと比較したら、はっきり言って盆踊りレベルだ。どこが“ニューヨークの躍動感を表現した名作ミュージカル映画”なのか、大半の若い世代は途方に暮れてしまうだろう。今の観客は、もっとリアルな映画表現に慣れている。名作だから1961年版を見ろと言っても、土台無理な話なのだ。古い世代のノスタルジーを押し付けられても、若い観客は単に当惑するだけだろう。

おそらくスピルバーグは、1961年版が抱えるさまざまな問題を充分認識した上で、今回のリメイクを作ったのだと思う。<ダンス・アット・ザ・ジム>の比較で言えば、スピルバーグ版はとにかくカメラがよく動く。ライブビューイングのように舞台を眺めるのではなく、作品が描く世界観の中にカメラが入り込んでいくという、スピルバーグ得意の映像表現が最大限の効果を発揮している。そしてダンスの振付も、基本的にはジェローム・ロビンズのオリジナルを踏襲しながら、より複雑で激しいものにアップデートされ、現代のミュージカル映画として鑑賞に耐え得るリアルなダンス・シーンに仕上がっている。

だが、スピルバーグがカメラを動かせば動かすほど、リアルな表現を追求すればするほど、この作品が描く“分断”は、ますます深刻になっていく。しかも、その“分断”の亀裂は、ほとんど修復不可能なレベルにまで達しているのだ。

今回のスピルバーグ版では、プエルトリコから来た移民すなわちシャークス側のキャストが、かなりの分量のセリフをスペイン語で話す。日本語字幕版では、スペイン語の部分も全部訳されているが、アメリカで上映されたオリジナル版は、スピルバーグの演出意図により、スペイン語の部分に英語字幕が付けられなかったという。したがって、スペイン語を話せない英語話者の観客には、シャークスたちが正確に何を言っているのか全く理解できない。実際、物語に登場するシュランク警部補(だったと思う)は「スペイン語じゃわからない、英語で話せ」というセリフまで口にする。言葉が通じない状況は、無理解の第一歩、ひいては“分断”の第一歩である。かつてスピルバーグが5音のモティーフで地球人と宇宙人を“会話”させた『未知との遭遇』のような、あるいは地球外生命体に「Phone Home」と口にさせた『E.T.』のような、相手となんとか通じてうまくやっていけるという楽観主義は、もはやここには全く存在しない。驚くべきことに、今回のスピルバーグ版では、トニーとマリアが地下鉄に乗ってデートに出かけるというエピソードが登場するが、ふたりが教会の中に入ると、トニーは紙に記したスペイン語を辿々しく読み上げ、マリアに愛に告白する。ある意味で『E.T.』の「Phone Home」の再現もしくはヴァリエーションとも言えるが、それを聞いたマリアはトニーのスペイン語を一笑に付す。そういう問題じゃないと言わんばかりに。もはや、言葉が通じる通じないの問題ではない。実際、ふたりはデートの最中も、お互いの立場を巡って口論を始める有様である。それが、リアルな現実の姿なのだ。今回のスピルバーグ版が日本語吹替上映されるのかどうか知らないが、もしも監督の演出意図を踏まえた上で吹替版を作るとしたら、スペイン語の部分を(多くの日本人が話せない)アジア近隣諸国の言語に置き換えるべきだろう。そうすれば、スピルバーグの問題意識が我々日本人にもはっきり伝わるはずである。

スピルバーグが意図した“分断”の演出は、言語だけでなく、実は音楽にも波及している。1961年版を繰り返し見たり、あるいは舞台版の鑑賞に何度も足を運んだことのある観客ならば、スピルバーグ版で最初に歌われるナンバーがバーンスタインの音楽ではなく、原曲のミュージカルと全く関係ないスペイン語の歌だという事実に、衝撃を覚えるはずだ。そのナンバー、すなわち<プロローグ>の後にシャークスが歌う<ラ・ボリンケーニャ>は、19世紀末までスペイン領だったプエルトルコ独立運動の中から生まれた革命歌である(しかもスピルバーグは、現在プエルトリコで歌われている改訂版の歌詞ではなく、革命運動をはっきり表現した1868年版の歌詞をわざわざキャストたちに歌わせている)。プエルトリコは現在もアメリカの自治領なので、<ラ・ボリンケーニャ>は厳密な意味での“国歌”とは言えないが、スピルバーグが映画の中で国歌のようなアンセムをはっきり流したのは、『ミュンヘン』においてイスラエル首相ゴルダ・メイアがモサドの特殊部隊に暗殺指令を出すシーンで流したイスラエル国歌以来、おそらく初めてではないかと思う。これらアンセムが象徴しているのは、言うまでもなく民族の統合あるいは団結である。その問題がある限り、“分断”は簡単に埋められないという厳しい現実を、スピルバーグは映画の冒頭ではっきり示しているのである。(その2に続く)
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