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ぐるださん、くろださんのいるところ -フリードリヒ・グルダと黒田恭一のたたかい

ぐるださん、くろださんのいるところ -フリードリヒ・グルダと黒田恭一のたたかい

聴くこと、読むこと、書くこと。 CD◎ “GULDA Récital Montpellier, 1993” Friedrich Gulda (pf) (Euterp Montpellier/Universal Music) 本◎黒田恭一/音楽への礼状(小学館文庫)
  • 青澤隆明
    2020.04.12
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 モンペリエからの飛行のつづき。
 モーツァルトのいるところ? くろださんのいるところ。

 フリードリヒ・グルダはベートーヴェンのソナタop.110のあと、モーツァルトのハ短調ファンタジーとソナタを弾いて、コンサートの前半、CDでいう1枚目をおえた。こちらもお茶を飲んだりして、少し休憩してから、お楽しみの後半の幕があく。

 まず、グルダ自身のアナウンスに導かれ、モーツァルトの『フィガロの結婚』からスザンヌのレチタティーヴォとアリアが彼の編曲で弾かれる。そこから、シューマン、シューベルト、ショパン。もういちどフランス語での曲紹介から、ドビュッシーのプレリュードを2曲。ビゼーの『カルメン』からグルダ編で「おまえの投げたこの花を」。そこからは、自作の「プレリュードとフーガ」、自編によるシュトラウスの『こうもり』幻想曲、民謡を2つ、と続いていく。

 自作や編曲も自由に織りなした、グルダの音楽愛にみちたプレイリスト。これがまた宝石のようにいい。この世に流動的な宝石というものがあるとしたら、それはたぶんこんな顔をしている。グルダのまなざしはあたたかく、ほんとうにやさしい。ブラームスの「子守歌」ですばらしく締めくくられたかと思えば、おしまいはとっておきのグルダのアリアだ。安らかに眠りについたままでは、グルダは終わらないのである。最後には、アナウンスと拍手。

 ずっと聴かずにいた15年間も、いまも、 このCD“GULDA Récital Montpellier, 1993”は、いつでも手にとれるところに置いてある。黒田恭一の本も何冊か、その近くにいる。たびたび手を伸ばすことはないのだけれど、たとえばなにかの音楽を聴いて、黒田さんが好きだったなと思い出したりすると、立ち止まってひらいてみる。そして、好きなことをていねいに書く人を好きだと思う。好きなものを、本気で守らなくてはいけない。そう思う。

 好きな曲を、ほんとうに好きだというふうに弾くグルダがとても好きだった。黒田さんもそんなふうに話し、そんなふうに書いた。これはまったく、やさしいことではない。黒田さんは文章がとても上手だから、なかなか気づきにくいかもしれないけれど、ていねいに読めば細かな心配りがすぐにわかる。好きに溺れずに尊敬を保ち、適切な距離を置いて、謙虚に向きあうこと。それを書くことの芯に置いて、それでも存分に自身の長年の思い、そして読み手の共感をも歌わせることは、決してかんたんではない。黒田さんはそれを少年の素直さ、いたずら心と頑さをもったまま、大人の話しかたで語ってみせた。穏やかな口調のなかにも、ときどき熱い憤りが宿された。それは、音楽を大切に聴こう、という長年の姿勢の徹底だった。怒るのはあきらめないからで、あきらめないというのは期待や希望を手ばなさずにいるということだ。

 「理屈に走らず、感覚に戯れず、感情に溺れもしないで」と、たとえば黒田さんは書く。『音楽への礼状』という本のなかで、他ならぬグルダに宛てたところに出てくる。理想的な心と精神のもちようだが、それはおそらく、黒田さんの信条でもあった。「音楽は、徹底的に抽象的ですから、非常にしばしば、未消化の四角いことばに凌辱されがちです。この日本でも例外ではありません。音楽をきくというおこないに求められる謙虚さを忘れたあげく、ことばを玩ぶだけにとどまった音楽談義がさかんです」と、彼はグルダへの手紙のコーダに記している。音楽を汚したくない、とぼくたちは思う。

 ウィーンを大きく背景においたフリードリヒ・グルダのたたかいは、たとえドン・キホーテ的に、ときに無防備にみえたとしても、最後まで自分の愛する音楽を愛するためのものだった。それは、神田に生まれた黒田恭一の苦く、しあわせなたたかいでもあった。
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