青澤隆明の音楽日記をイッキ見

大バッハの、そよ風か嵐


青澤隆明 / 更新日:2023年1月7日


本◎伊坂幸太郎著『死神の精度』(文藝春秋 2005年初版)



 バッハのことを書いていたら、思い出した。年末に、伊坂幸太郎の『死神の精度』を読み返して、「ああ、この感じ、やっぱりいいな」と思ったのだ。細かい筋をまったく覚えていないことには自分でもあきれたが、2005年6月に出た本だから、じつに17年半ぶりなのである。ゆるせ、死神。と呟いて、自分はべつに許しを請うべきことなどないと思った。それでもいちおう、「はて、思い当たる節はほんとうにないか」と考えてはみたが、こういう場合、深追いは禁物だろう。

 さて、本書の「死神」は、いろいろとクールにチャーミングで、だからこの短篇連作は面白いのだが、いちばんぼくが好きなところはもちろん、彼が「ミュージック」を好きなことだ。「ジャズでも、ロックでも、クラシックでも、どれであろうと、ミュージックは最高だ。聴いているだけで、私は幸せになる。たぶん、他の仲間も同じだろう。死神だからといって、髑髏の絵がジャケットに描かれたヘヴィメタルしか受け付けないというわけでは、決してない」。

 冒頭の表題作からして、ミュージックが鍵となる短篇だが、なかでもとくに心に残るのは、「恋愛で死神」のなかの次のくだりだ。店内を流れるミュージックに惹かれて、「これは何という曲だ?」と、「千葉」と名乗っている死神がたずねる。

「『バッハの』と彼は意外にも知っていた。『チェロの無伴奏組曲ですよ、たぶん』
『大バッハか』私は思わず、口に出す。バッハという名前の音楽家は大勢いて、なぜか、一番有名なバッハは、大バッハと呼ばれているらしいが、その呼び名が私は好きだった。『いいな、これは』
『僕も好きなんですよ』萩原はテーブルの上の伝票をつかんで、ここは僕が払いますよ、と言った後で答えた。『優雅で、切なくて、そよ風とも嵐ともつかない曲です』」

 この「大バッハ」という響きが愉快だし、書きっぷりも絶妙だろう。と言っても、「千葉さん」がどういう性格がわからないと、そこのところはうまく伝わらない。この世のことを、彼はよく知らないのである。「大勢いて、なぜか一番有名なバッハ」というのが、実にいい。そもそも、「大バッハ」という語感が、こどもの頃からぼくもなんとなく好きなのだ。偉大というよりもむしろ、おかしみがある気がしてさ。

 そのまえに、相手が「たぶん」と答える感じもいい。それなのに、ちゃんと表現している。「そよ風とも嵐ともつかない曲」というのは、いったい誰が弾いているのだろう。誰が弾いても、そうなるのかもしれないが。

 風はなかなかつかまえられない。こちらがつかまえられるのが、せいぜいのところだ。

コルトーとティボーとカザルスと


青澤隆明 / 更新日:2023年1月6日


CD◎『シューベルト:ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調』アルフレッド・コルトー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルス (EMI 1926年録音)本◎『コルトー=ティボー=カザルス・トリオ 二十世紀の音楽遺産』フランソワ・アンセルミニ + レミ・ジャコブ 著 桑原威夫 訳 (春秋社 2022年) 



 人と人は出会うべくして出会う。しかし、別れるべくして別れる、と言いきることは、なかなかに難しい。私的なレヴェルでもそうだし、公的な場面であればまさにそうだろう。
 
 先日チェロのことを書いていたら、やっぱりカザルスを聴きたくなって、シューベルトの変ロ長調トリオの録音をかけた。アルフレッド・コルトー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルスが集結したこのピアノ・トリオについては、昨夏に邦訳も出たフランソワ・アンセルミニとレミ・ジャコブの伝記で、簡潔に概略が知れる。『コルトー=ティボー=カザルス・トリオ 二十世紀の音楽遺産』として春秋社から刊行された本で、偉大なソリスト三者が築いた三重奏団の軌跡を端正に辿ったものだ。

 「カザルス三重奏団」と日本では呼ばれることが多いけれど、もちろんカザルスや誰かひとりがリーダーというのではない。原題に“Le Trio – Cortot – Thibaud – Casals”というとおり、まさに「ザ・トリオ」なのだ。つまり、三人が結び合う関係が、作品の真実をともに求める音楽対話のなかに結実したものなのである。

 テニスを愛好する三人の名手が友情を育み、ピアノ・トリオとして内実ともに、つまりは興行的にも一世を風靡したのだが、活動の期間にして20年ほどの歳月しかない。1906年から14年、そして1921年から34年に分かたれるが、その間には戦争があった。そして、その後にも。戦争とファシズムに対する各人の姿勢が、黄金の三角形に距離をあけさせたのである。異なる個性を作品に重ねながら、あれほど信頼に満ちた三重奏を聴かせていた三人だが、現実に向き合う個人の性格はそれぞれ異なり、社会的態度も国民性も違った。

 しかし、いまこうしてシューベルトの変ロ長調トリオを聴いていると、しっかりとおなじ国のおなじ通りをと歩いているとしか思えない。三者三様の個性は伸びやかだが、いっしょにみている夢はひとつだ。これは1926年7月5日と6日にロンドンで録音されたとある。残されたレコーディングはどれもトリオ後期の1920年代後半のもので、他のレコードを入れても、ハイドン、ベートーヴェン、シューマン、メンデルスゾーンの5曲のトリオとベートーヴェンの変奏曲ひとつしか残されていない。あとは、ふたりをソリストに、コルトーが指揮したブラームスの二重協奏曲があるだけ。

 さっとこれを書いたら、落ち着いて「大公」トリオを聴こうと思ったのだけど、なんだかもったいない気がしてきたので、またの日にする。コルトーのピアノが明るく微笑んでいる出だしを思い出してきて、心はすでに軽くスキップなどしつつも。

クリスマスもとうに過ぎて


青澤隆明 / 更新日:2023年1月5日


CD◎Nick Lowe "Quality Street" (YepRoc, 2013)



 2022年のクリスマスのあたりはわりと忙しくて、クリスマス・アルバムをゆったり聴く余裕なんてなかった。クリスマスがどうかというのは別として、クリスマス・ソングというのが、ぼくは大好きなのだ。冬に聴くから、あったかい。そういう音楽のいちばんのごちそうという感じがして。

 で、ようやく年明けの仕事も一段落したので、いまさらながらかけていたのが、ニック・ロウ。「クオリティ・ストリート」という、いまから10年前に新作だったアルバム。これが、とても滲みてくる。「きよしこの夜」、「立て羊飼いたちよ」、「チルドレン・ゴー・ホエア・アイ・センド・ジー」、「毎日がクリスマスだったら」やオリジナルも含めて12曲がいろいろに詰め合わせてある。音がとにかくあたたかいし、ていねいで、懐かしい。ニック・ロウのヴォーカルはほんとにいい。

 アルバムのなかにひとつあるととてもいいんだけど、ずっとクリスマス・ソングばかりだとおなかいっぱい。そういう人もいるかもしれないけれど、このアルバムは一枚通じて、いろいろなタッチの曲が聴けて楽しいよ。と、誰にともなく、夜中の部屋でひとり呟いているぼくは、いったいなんなんだろう?

 べつに季節といっしょに、音楽までさっさと流れていくわけでもないじゃん、と思いながら、もういちど頭からアルバムを聴いて、ほっこりしている。そのうちちょうどよく眠たくなってくる。
240 件



TOP