青澤隆明の音楽日記をイッキ見

年の瀬の「第九」2022 -ジョナサン・ノットと東京交響楽団の歓喜


青澤隆明 / 更新日:2022年12月31日


ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 「第九」2022 (2022年12月29日、サントリーホール) ソプラノ:隠岐彩夏、メゾソプラノ:秋本悠希、テノール:小堀勇介、バリトン:与那城敬、合唱:東響コーラス(合唱指揮:冨平恭平)



 年の瀬も慌ただしく、気がつけば、もう大晦日。2022年のコンサートの聞き納めは、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団の『第九』に決めていた。2022年12月29日、14時からのコンサート。これがほんとうにめくるめく演奏で、とにかく愉しかった。

 ノット&東響のプログラムは今年欠かさず聴き継いできたので、ベートーヴェンの「第九」で結べて幸いだった。ブルックナーの交響曲第2番の演奏なども頭に浮かべていたが、いったん「第九」の第1楽章が始まれば、すべては吹っ飛ぶように、全曲を快速で駆け抜けていくことになった。時計はよくみなかったけれど、演奏時間は63分とかそのくらい。ソリスト、合唱も含めた対向配置。

 前夜は、家で40台を越えるカメラによるコンサート・ライヴの配信を、ほとんど指揮者固定カメラで観て、奏者の気持ちに思いを重ねながら「第九」を体験したりもしていたのだが、サントリーホールの2階で聴くと、もちろん演奏も違うけれど、やっぱり聴く感覚の質がぜんぜん違う。とくにライヴ感の強い演奏だと、まざまざと感じきることが大事になってくるのは当然のことだ。

 ジョナサン・ノットの指揮は、全曲を通じての緊張と推進力を強く保ち、グリップをキッと締めたり、少し緩めたりしながら、オーケストラを巧みにドライヴさせていく。いろいろなアイディアを盛り込んでいても、東響はノットの考えをくっきりと読みとって、快速に振り落とされずに食らいついていく。アンサンブルに生じるちょっと時差もまた、スリリングな緊迫感を帯びて、演奏を生々しく鮮やかなものにしている。コンサートマスターは小林壱成で、その横に水谷晃、後ろにはグレブ・ニキティンも座る全力の編成。チェロには笹沼樹も座っているし、管楽器の充実ぶりも見事だった。

 スケルツォはもちろん、第3楽章も美しいながらタイトに引き締まった演奏を貫く。フィナーレも当然ながら推進力をもって統制され、諸々の変奏を通じて全体が肥大や弛緩をみせることがない。声楽に合唱と編成は広がるが、小気味よい勢いのまま、全体を俊敏なアンサンブルで前進させていく。トルコ行進曲の場面などもスタイリッシュに決めて、お道化てみせたりすることはない。ソプラノの隠岐彩夏、メゾソプラノの秋本悠希、テノールの小堀勇介、バリトンの与那城敬、冨平恭平率いる東響コーラスも、器楽的ともいえるノットのアプローチに沿って利発に大健闘した。

 結果として、「第九」がちゃんと交響曲として、全体にびしっと引き締まったものになっていた。4つの楽章を通じて、硬派に筋を通している。これは容易に成し得ることではない。問題は--と言ってみれば、「歓喜に寄せて」にいたる前々から随所に“Götterfunken”が閃いていたことか。それくらい、徹頭徹尾、勢いと一貫性に漲るタイトな快演となっていた。

 この勢いを保ったまま、ノットと東響はまもなく10年目のシーズンに突入していくのだろう。ベートーヴェンは第6番が控え、マーラーもいよいよ第6番、ブラームスは第2番、ブルックナーは第1番が待っている。オペラ・コンチェルタンテはリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」に続いて「エレクトラ」に踏み込む。今秋の「サロメ」での目くるめくドライヴ感も凄まじかったが、この冬の「第九」もじつに痛快だった。歳末の催事などではなく、彼らは最後まで本気も本気だった。この快活な勢いをもって、ぼくもまた、新しい年を力強く駆けていきたいものだ。そう思いながら、アンコールの「蛍の光」をゆったりと聴いていた。

 みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。来年もまた、よき音楽の日々を――。

男ふたりの「第九」-清水和音と迫昭嘉、歓喜の再会に寄せて


青澤隆明 / 更新日:2022年12月28日


清水和音と迫昭嘉、2台ピアノで「第九」を謳う。(2022年12月10日、東京オペラシティ コンサートホール)



 コンサートの聴き納めは、今年は「第九」にしたのだけれど、じつは二週間ほど前にも、早々と「第九」を聴いてしまった。するとどういうわけか、もう歳末の気分になってきた。それは昭和の日本人としてのぼくの習慣でもあるかもしれないが、曲のほうになにか逸る気持ちがあることもまた確かだ。

 それは合唱のない「第九」だった。独唱もなければ、オーケストラも指揮者もいない。そう、二台ピアノの「第九」である。リストが編曲した版をつかって、迫昭嘉と清水和音が二台のピアノで向き合った。

 1995年に最初に手合わせしてから、昨年ひさしぶりの再会を果たし、そのときの好感触が東京での開催に繋がったのだと両雄は言っていた。ほとんど20年近い歳月を経て、大人どうしが改めて熱く向き合い、ベートーヴェンへの深まる敬愛とともに、「第九」の核心をピアノで実現する。「合唱がなくても『第九』だ」と迫も話していたとおり、ピアノ音楽として、筋の通った世界が広がっていった。紛れもないベートーヴェンが、その芯にどっしりと座っているのだ。

 迫昭嘉が第一ピアノ、清水和音は第二ピアノを担ったが、これはむかしからずっとそのまま。清水和音の低音の重厚な存在感が利いてくるが、第1楽章から凄絶な轟音を打ち出して、フィナーレまでもつのか心配になるほどだ。杞憂だった。そして、迫昭嘉がずっと大切にしているベートーヴェンならではの歌心が、「第九」を伸びやかにピアノで歌わせていく。迫と清水の歌いかけや表現の志向はおなじ作品をみていても趣が違うが、それぞれのベートーヴェン像が共存しつつ、うまく重なり合うのが名手どうしで聴く愉しみである。

 予想されたことはいえ、ひときわ素晴らしいのは第3楽章のカンタービレだった。もちろんオーケストラ原曲でも絶品だが、ここではピアノ・ソナタにも通じるベートーヴェン後期の美の世界として高らかに響いた。いっぽう、この前後のスケルツォやフィナーレに漲るエネルギーと律動感も圧巻で、つまりピアニストは始終弾きっぱなしの重労働を課される。ベートーヴェンがオーケストラに全身全霊で要求するエネルギーを、たったふたりきりで叶えるのだから、それはそれはたいへんに決まっているが、その演奏の労という荷重がまた曲の持続する意志にも重なってくる。

 そして、フィナーレである。四重唱の音楽がこれほどざわざわせずに、ぴたっと美しく調和をみせるのは、二台のピアノで、ふたりの名手が心を合わせるからこそ。トルコ行進曲も含めた雑多な喜びに関しては、ずっとスタイリッシュに澄んでくるけれど、「第九」はどこまで行っても「第九」だった。二台のピアノのアンサンブルを合わせるのはとても難しいに違いないが、それだけにもう、ふたりきりで十分にシンフォニーである。Freude!!

空白の日記と新しい光彩--キット・アームストロングが弾くバードとブル


青澤隆明 / 更新日:2022年12月9日


“William Byrd・John Bull - The Visionaries of Piano Music” Kit Armstrong (piano) [Deutsche Grammophon 2021]



 先にここに記してから、だいぶ日が空いてしまった。そう遠くはない一日でも、もはや思い出せない日もある。なにもなかったはずはないとして、たいしたことはなにもなかった、というふうに思えば、その日は空白のまま記されることなく過ぎる。そうして、朝は朝、夜は夜、日は日としての輪郭を失ったまま、大きく口を開けるように経っている。一日が一日のかたちをなしていたのかもわからず、体をなさずに繋がったり、重なったり、破れたりして、それでなんとか日々が捲られていたというふうに感じることもある。ほぼ連日コンサートに行っていたことを思い出せば、その日どんな音楽がどんなふうに響いたかを改めて考えることもできるだろう。いろいろなことがあったり、なかったりしたが、ぼくはそこそこ元気で過ごしてこられた。日記が日記の体をなさずとも、ぼやけた日々にも、なにがしかの音楽は連綿と流れている。曲は曲のほうで、多くの歳月をまたいで、こちらの耳を訪れてくる。

 今朝は起き抜けに、キット・アームストロングが弾く、ウィリアム・バードとジョン・ブルを聴いた。もう600年以上も前に編み出された音楽が、真新しい光のなかに瑞々しく輝いているのもみるのは、幾度聴いても眩い体験である。ピアノのための音楽が、こうして遥か以前に予見され、しかもこれほど豊かに結実していたことに、改めてはっとする。そのためには、かの偉才、ウィリアム・バードにしてもジョン・ブルにしても、モダンピアノを待ち、キット・アームストロングを待ち、彼がヨーロッパ音楽の歴史の地平に立つのを眺めつつ、私たち現代の耳を待つことが必要だった。

 ここには喜びがある。宇宙は精緻にして実に広大で、そしてここから始まっていくという予感と期待と高揚がある。豊潤に絡み合うテクスチャーを息づかせながら、ピアノがピアノとして流麗かつ闊達に響きを織りなすさまは、嬉々として未来を信じるに足るものにする。遅れてやってくるということは、それだけの可能性を連れているということでもある。新しくやってくる者にとっては、かつて新しかったものは、やはり新しく触れられるはずのものであるということだ。現在に流れ着くまでの時間に試みられた膨大な遺産を財宝として、その地平から新しく勇気の手を延ばしたときにこそ--。キット・アームストロングは確信をもって、慈しむようにそのことを証ししている。回顧ではなく発見の感動が、そこから沸々と聴く耳を目覚めさす。
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