青澤隆明の音楽日記をイッキ見

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ 101


青澤隆明 / 更新日:2021年1月8日


アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの101年目に。◎ラヴェル:ピアノ協奏曲 エットレ・グラチス指揮 フィルハーモニア管弦楽団(EMI)



 1月5日はアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの誕生日ということで、昨年が100周年だったから、生きていれば今年で101歳を迎えたことになる。新年、正月に生まれた人だときけば、やはりそのような気はする。

 2020年という年は偉才の生誕100周年という時分であるだけでなく、亡くなって25周年でもあった。その機会の仕事も手伝って、レコーディングをたくさん聴いた。CDを聴くにしても、鋭く細い針を落とすときの緊張感があって、聴き終えると、どっと疲れている。こんなふうに生きていくのはどうみてもたいへんだと思うが、ほんとうの芸術家はそうした宿命を引き受けているのだろう。

 ということで、2021年が明けて、ラヴェルのコンチェルトをまた聴いた。1957年3月、アビー・ロードでのスタジオ録音、エットレ・グラチス指揮フィルハーモニア管弦楽団との有名なレコードだ。アダージョ・アッサイの第2楽章を聴いているといつもそうなるように、この時間が永遠に続けばいい、とか思うのだけれど、そういうものではなくて、それほど経たないうちに、必ず終わることはわかっている。現実の時計でみるとほんの10分にも満たないが、この前にも後にも遥かな時は過ぎている。第1楽章や第3楽章という意味ではなくて、それらに縁どられることをおいても、晩年にいたるラヴェルの歳月も含めて、途轍もない時間がかつて流れていて、しかし途方もないほど中空という感じに充たされている。

 それが空白ではなく、優美に充ちているということが、なおのこと、その時間の感情の質を孤立させているように思われる。鞭打ちで唐突に音楽を目覚めさすラヴェルの天才をもってしか、曲のまんなかにはさんで、この澄んだ時間を切りとるように表出することはできなかった、という気がする。それはもちろん、ベネデッティ・ミケランジェリのピアノによって、粛然と奏でられるからこそだ。たんなる感傷ではない時間のリリカルな感情が、それこそ「高雅で感傷的に」映し出されていて、ぼくは途方に暮れる。しかし、曲はそこに安住することなく、掻き立てるように運動を続けていくのだ。この101年というもの、いや、曲が書かれて30年のあいだ、ずっと回り続けるようにして。

新春のシューマン -リパッティとカラヤンのコンチェルト


青澤隆明 / 更新日:2021年1月3日


新春、賀正、の心持ち。◎シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 op.54 ディヌ・リパッティ(pf)、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団



 謹賀新年。元日である。朝起きて、そのまま少し本を読んで、さて、なにを聴こうか。と悩むまでもなく、この日のために洗っておいたレコードを手にとった。英国コロムビアの10インチLPで、ディヌ・リパッティとヘルベルト・フォン・カラヤンが共演したシューマンの協奏曲である。オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団。
 
 1948年4月にロンドンのアビー・ロード第1スタジオで録音されたレコードで、リパッティは昨2020年12月が没後50周年だったから、亡くなる2年8か月前の録音ということになる。33歳での夭折ということと、レコードの回転数が33と1/3であることはほとんどこじつけにしかならないが、本盤はリパッティがまだ31歳になったばかりのレコーディングだ。カラヤンはと言えば、直前にちょうど40歳を迎えた時分である。

 新しい年の聴き初めにぴったりだったし、こうしてふたりがレコーディングを遺してくれたことはやはり幸せと呼ぶほかない。聴き返すたびに、ぼくは何度でもそう思う。イン・テンポで清らかに進むなかに、絶妙の息づかいと揺らめきがある。シューマンというと、とかくだらしなく伸び縮みして酷いことになる破目にもたびたび出くわすが、自己耽溺や感傷から遠く離れて、清新に生きるのがこのレコードの演奏の美しさだ。リパッティが節度と統制を存分に保っているのに加えて、カラヤンが妙なる支えで、音楽の歩むべき方向をしっかりと示したことは絶大だろう。さりげなく多くのことを叶えながら、なおも清々しい立ち姿である。溺れずに泳ぎきるうちに、気がつくと心がいたく打たれている。

 シューマンが作曲当時30代半ば、リパッティとカラヤンがそれを真ん中にはさむような年代感であることも、作品の瑞々しい抒情と覇気に相応しかったように思う。もちろん時代も一世紀ほど違うわけだし、年輪というのは個々人で異なる。そのうえシューマンほどの作曲家を演奏家と並べるなどとんでもないことだ、とふだんならぼくだって思ったりもするけれど、それがリパッティとカラヤンならばそれほど遠慮することもないという気さえしてくる。

 ここで調子に乗って自分の話を持ち出すと途端に話が堕落するが、それでもみんな、ぼくの物理的な年齢よりずいぶんと若い。若々しさは魂の問題と精神のありようだとはいえ、こうして彼らの音楽に脈打つ、青春とも成熟とも言いきれない清新さに触れて、いつのまに涙ぐんでいるぼくもまだ老人ではないということなのだろう。あらためて、新春、賀正、と念じて居住まいを正すのに近い心持ちがする。

メサイアを聴いてノエル


青澤隆明 / 更新日:2020年12月31日


サントリーホール クリスマスコンサート 2020 バッハ・コレギウム・ジャパン「聖夜のメサイア」(2020年12月24日、サントリーホール) ヘンデル:オラトリオ『メサイア』HWV 56 指揮:鈴木雅明 合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン ソプラノ:松井亜希 アルト:青木洋也 テノール:櫻田亮 バス:加耒徹 



 2020年のクリスマス・イヴは、山下達郎のホワイト・ヴァイナルを家でかけるだけではなく、サントリーホールで20回目の「メサイア」も聴きに出かけた。鈴木雅明がバッハ・コレギウム・ジャパンを始めてから30年。困難な年に臨みつつも素晴らしい達成を導いていた彼らだが、それも長年の積み重ねの力だろう。客席もぎっしりだった。

 さて、ありがたい『メサイア』を聴きながら、ぼくの脳裏に対位法みたいに浮かんでいたのはノエル・ギャラガーのことだった。英語で歌われるからというのが大きいのはもちろんだが、ダブリン初演のこのオラトリオを聴いていると、ヘンデルの鉱脈はマンチェスターのノエル・ギャラガーの現在にまで脈々と息づいている、そんな気がしてならなかった。ノエル・ギャラガーは現代には稀な天才で、たとえ熱烈なマンチェスター・シティー・ファンであっても、その価値はいささかも変わることがないというのがぼくの立場だ。

 『メサイア』から3日後の夕には、東京オペラシティで『第九』を聴いた。おなじ鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンの快演で、こんどはベートーヴェンの狂おしさがまざまざと伝わってきた。たとえるなら、まっさきに浮かんだのはザ・クラッシュの感じだ、ベタすぎるけれど。終楽章も立ち止まらず、勿体つけることもなく、鈴木雅明らしく前へ前へと進んで、一貫して蓄えた熱と覇気をコーダまで強かに運んで行った。ベートーヴェンの後期作でとかくテンポを揺らして起こしがちな失敗からはきっぱりと離れて、気持ちのいい前進を揺るがせず、結びまで引き締まった力を放った。

 ・・・というふうに、思いついたままを口にすれば、いつもきっと喜んでくれる友人も今年、どこか遠いところに行ってしまった。話したいことは、ほんとうはたくさんあったし、いまもいっぱいある。

 いま、ノエル・ギャラガーが公開したばかりの新曲をくり返し聴いていて、こういうことも年の瀬の日記に書いておこうと思った。Noel Gallagher's High Flying Birds の出来立てのトラックは、“We’re Gonna Get There In The End (Demo)”という曲で、シンプルに言うべきことを、しっかりふつうにたんたんと歌っている。終着がどこであれ、最後がいつであれ、ぼくはいま生きていて、あの人やかの人に密やかに語りかける。

 とにもかくにも、みなさま、どうかお元気で、良いお年をお迎えください。
 またお会いしましょう、音楽のあるところで。

 2020年12月31日 青澤隆明
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