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青澤隆明の音楽日記をイッキ見

今晩すべてのオルガンが――


青澤隆明 / 更新日:2022年6月1日


ライナー・クンツェ『素晴らしい歳月』のこと。



オルガン、と言えば、ぼくには宮澤賢治の「光でできたパイプオルガン」のイメージがいちばんいっぱいに広がるのだけれど、先だって東ドイツの詩人ライナー・クンツェの『素晴らしい歳月』(大島かおり訳、晶文社1982年刊)という本をめくっていたら、ここには地上のオルガンがいっせいに鳴り響く情景が夢想されていた。不意打ちされたようで、なんだかじーんと感動した。チェコ詩の翻訳でも知られたクンツェは、1968年の「チェコスロヴァキアの春」がきっかけで、1977年には西ドイツに亡命を余儀なくされた詩人。何百人もの若者と数年にわたり対話した末にまとめたという本書は亡命の前年、1976年に西ドイツで出版された。それは「オルガン演奏会(トッカータとフーガ)」という詩で、ローベルト・シューマンからの引用も含むものだが、圧巻なのはやはりコーダに降るこんなコーラスだ。少し長くなるが、そのまま引用する。そして、水曜の晩に、その音をつよく想像してみる。

*

                         すべてのオルガンが――
             東の、南の、北の、西のオルガン、ドレースデン十字架教会の六
             一一一本の鳴りひびくパイプ、フライベルクのヒンメルスフュル
             ト洞窟の祈禱室小オルガン、バッハが試奏したホーンシュタイ
             ンのオルガン、単純に「われらのオルガン」と呼ばれるキルヒド
             ルフのオルガン――
それらすべてが突如として鳴りはじめ、そして、正直であろうとする者が息もできな
くなるほどに空気を汚染してしまった嘘を、きれい吹きはらうだろう――どの屋根
の下からであれ、心に巣くう恐怖をすべて追いはらうだろう‥‥‥
せめて一回だけでも、せめて一度の水曜の晩だけでも。

グスタフ・レオンハルトを思う


青澤隆明 / 更新日:2022年5月31日


グスタフ・レオンハルトのこと。



寝起きの頭に誰かが囁いて、きのうがグスタフ・レオンハルトの誕生日だったことをぼんやりと思うのだけれど、まっさきに浮かんでくるのは、あの佇まいや姿勢のほう。そういうことではだめな気がしないでもないが、それもまた音楽の要点だろう。レオンハルトを最後に演奏会で聴いたのはいつだったかといえば、それが11年前のきょう、2011年5月31日。レオンハルトにとって83歳の最初の夜だったことを、そのときのぼくは気づいていたのだろうか。大家は翌年1月に亡くなって、それが最後の来日となってしまった。そのときトッパンホールでは、デュフリやバッハを弾いたのだった。レオンハルトはチェンバロを弾き、ただ音楽と結ばれた喜びのなかにあった。覚えているのはやはり、演奏の具体的なあれこれよりも、そのときに通っていた不思議な自由の感覚、滲むような自在さのほうだ。つよく厳しい真面目さの奥からひらかれてくるように、それは澄んだままやわらかに満ちてきた。レオンハルトは2007年と2009年にもここで演奏したが、聴くたびになおさらつよくそのことを思うのだった。その感触がぼくのなかにいまも自然と息づいていればいいと願う。音楽をよくよく生きた歳月がそこにはあった。昨晩おなじ舞台で、コンスタンチン・リフシッツの迸るバッハを聴いてきて、いまそれを思っていることの不思議。バッハの尽きせぬ広大さ。ぼくはまだどこか夢のなかにいるようだ。

ルプーとブラームスとチャイコフスキー


青澤隆明 / 更新日:2022年5月7日


ブラームスとチャイコフスキーのお誕生日に。ラドゥ・ルプーのことを少し。



 ラドゥ・ルプーが亡くなって、20日が経った。ひとりひとりがそれぞれの心のなかの、たぶんもっとも大切な場所で、彼の音楽のことを想っただろう。

 ぼくはぼくで、ぼうっとしながら、そのようにして静かな時間を過ごした。歳月はめぐるものだし、みんないつかはいなくなる。それでも誰かは生きて、その誰かの心のなかで思い出されて、ぼくたちの愛する音楽はきっと生きつづける。

 ラドゥ・ルプーの場合、本人がレコーディングをつよく嫌ったから、いまさらそれを聴くことには躊躇いもあるのだけれど、だからと言って聴かないのも、とてももったいない。そこから受けとることができるなにかは、いまも際限なくあるはずだ。そうなのだけれど、そのようにして過去の録音を聴かずとも、いくつもの演奏の光景を、そのときに生きられた音楽を、自分の心のなかで辿ることで、ぼくはルプーが弾き終えたあとの歳月を生きながらえてきた。もちろん他の人の演奏も聴いてはいたけれど、きっとルプーだってそうしていたはずだ。

 きょうブラームスの誕生日がめぐってきて、まっさきに思い出すのは、どうしたってルプーのことだ。ルツェルンに集った人々のまえで、ルプーが最後のアンコールに弾いたのはインテルメッツォ op.118-2。それが、わかれだった。そのときのブラームスを聴けていたら、とそのあと、ぼくは幾度となく思いかえした。

 ぼくが最後にルプーを聴いたのはその2年前、2017年のヨーロッパでのリサイタルで、5月の終わりから6月のはじめにかけてのことだった。ハイドンの「アンダンテと変奏」、シューマンのファンタジーのあと、ルプーが弾き継いでいったのはチャイコフスキーの『四季』。12か月のうち、4月は松雪草で変ロ長調、5月は白夜でト長調。前後をト短調に挟まれているだけに、ルプーの演奏でも、この季節を歌う表情の愛おしさはまた格別だった。

 ブラームスとチャイコフスキーは5月7日、おなじ誕生日で、チャイコフスキーが7歳年下だった。だからというほどのことではないが、ようやくこの音楽日記に、また少し綴ってみるきっかけを、きょうぼくはみつけた(正直に言ってしまうと、やっぱり悲しくて、なんにしてもあまり書く気が起こらなくなっていた)。ルプーが愛したあのインテルメッツォはイ長調で、チャイコフスキーの4月も5月も、いずれにしても長調で書かれている。そのようにして、ぼくたちはこの季節のなかを、ていねいに歩いていくのだ。
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