青澤隆明の音楽日記をイッキ見

チョン・ミョンフン ピアノ - Myung Whun Chung piano


青澤隆明 / 更新日:2020年5月25日


CD◎Myung Whun Chung piano (ECM)『エリーゼのために~マエストロからの贈り物 チョン・ミョンフン』(UCCE 7534)



 家にいると、ときには大仰な音楽よりも、もっとパーソナルなものを聴きたくなる。個人の想いが激しくないということではなくて、それよりも、親しい人たちに語りかけるような温度で。

 そういうとき、ふと手がのびたのが、このアルバム。Myng Whun Chung  piano――タイトルが小さく、水墨画ふうにみえなくもない木立の写真の上のほうに記されている。ただ、それだけのことがじんわりと滲むように響いてくるのが、このアルバムの素晴らしさでもある。

 チョン・ミョンフンのピアノを聴くのは、とっても久しぶりだ。これが初めてのピアノ・ソロ・アルバムで、2013年7月、フェニーチェ劇場でのレコーディング。ぼくがコンサートで近く思い出すのも、「セヴン・スターズ」と題して彼がひらいていた室内楽で、つまりはもう十数年前のことになる。どっしりとした構えで、しっかりと温かなピアノだ。信頼と安心が湧き上がる演奏だった。

 次男の提案からピアノ・ソロを録音することになって、曲も孫娘や長男や姉に贈るものが集められたという。心穏やかに、愛情が通っていて、それで音楽はゆったりと豊かに満ちている。愛想曲集、という言葉がぴったりな気がする。月の光、ノクターン、エリーゼのために、秋の歌、即興曲、トロイメライ、アラベスク、きらきら星変奏曲。なかでも、1974年のチャイコフスキー・コンクールで弾いた思い出が深いという『四季』の「10月 秋の歌」が、ぼくはとても好きだ。

 誰もが親しむ名曲をひとつひとつ、私信のように心を込めて、慈しむように息づかせている。温かな手のうちで、激しさも深さもまた、じんわりした静けさのなかにある。

ケルアックの運命、あるいは、路上のベートーヴェン - A Beethoven on the Road


青澤隆明 / 更新日:2020年5月23日


あなたと本と音楽と。ジャック・ケルアック、ベートーヴェン、オン・ザ・ロード、チャーリー・パーカー、メキシコ・シティ・ブルーズ…



 ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』は、アメリカ文学の分野だけでなく、20世紀後半における決定的なライティングのひとつだろう。ぼく個人にとってはまさに特別で、21歳の夏に読んだペーパーバッグは、かなり茶色くなってもまだ熱を放っている。ビート・ジェネレーションの代表格と目されたケルアックの小説や詩をその頃、次から次へと読んだが、やっぱり『オン・ザ・ロード』が最高だ。

 ケルアックというと、ビート・ポエットらしく、表現のスタイルも時代的にもジャズとの関連が深い。そして、自分をジャズ・ポエットとみなしていた。チャーリー・パーカーのことは、『メキシコ・シティ・ブルーズ』の終盤のコーラスにも謳われているし、デイヴ・ブルーベックのこともべつのところで詩にしている。これらの“ポーム”はスティーヴ・アレンのピアノ伴奏で、ケルアックの自作朗読がレコードにもなっていて、彼のスポークン・ワーズにアル・コーンとズート・シムズが絡むトラックもある。ケルアックのライティングからしてそうだが、彼自身の声によるリーディングともなると、目の前で音楽が即興的に生まれていくのを聴くようで、耳にも快い喜びだ。

 チャーリー・パーカーを讃えるコーラスのなかに、「音楽的にはベートーヴェンとおなじくらい重要だ、けれどそんなふうにはちっともみられていない」と歌われている。その響きは耳が覚えているけれど、はたしてベートーヴェンというのがケルアックにとってどれくらい重要なのかは、この詩だけではちょっとわかりづらい。Beethovenという語感が、ビート感があるから自然と出てきたのかとも思う (BeethovenとBeatの響きが近いのはみんな知ってる)。後世のぼくたちにとってみればむしろ、ベートーヴェンをチャーリー・パーカーほどに評価していることのほうが、ことによったら驚きに近いかもしれない。

 しかし、べつの詩集に収められた履歴書ふうのライティングで、ケルアックはこんなふうに記している。学生時代のケルアックがアメリカン・フットボールの選手だったことはよく知られているとおりだ。「高校時代は、フットボール、これが私をコロンビア大に(スカウトで)導いた、けれど私は書くためにフットボールをやめた (なぜってある日の午後、スクリメージのまえに、ベートーヴェンの第五交響曲を聴いたからで、雪が降り出していて、私は自分がアスリートになるのではなくベートーヴェンになりたいとわかったからだ)・・・」。

 そして、18歳のとき最初の真剣なライティングをし、3年をかけて最初の長い小説『タウン・アンド・シティ』を書き、つぎに『オン・ザ・ロード』を書いて・・・というふうに生きていくことになった。文字どおり受けとめるなら、ケルアックはベートーヴェンになりたかったのである。それから、彼のタイプライターのビートは、チャーリー・パーカーのブロウにも繋がっていった。

 ベートーヴェンはあらゆる人のドアを叩きまくったに違いないけれど、そうしてフットボール・ヒーローの道を逸れた青年は、自分自身のリズミックな言葉で、世界じゅうの路上の魂を叩くことになったのである。Beat goes on....

シューベルトとワーグナー、勝ったのはフンメル(ス)。


青澤隆明 / 更新日:2020年5月17日


ヨーロッパ5大リーグで、ドイツが先駆けてシーズンを再開。ブンデスリーガ再開初戦のレヴィアダービー(ルールダービー)に響く蹴音を聞いて思ったこと。



 さっきまでシューベルトとワーグナーの再会を観ていた。迎え撃つはフンメル(ス)。勝ったのは、そのドルトムント。ホームでのシャルケとのダービーを4-0の大差で制した。ドイツにおいてロックダウン解除が慎重に行われるなか、そうとう細かな対策を施した上で、無観客試合でのシーズン再開。おかげで、久しぶりにフットボールが観戦できた。

 姓が同じだけで騒ぐのは、ぼくがドイツに疎い証拠だろうけれど、ゴールキーパーがミスをして「シューベルト痛恨」とかアナウンスされると、やっぱりシューベルトは痛恨なんだなって思ってしまう。敗れたシャルケの監督がワーグナーだ。

 ふだんブンデスリーガは観ていないぼくでも、きょうの夜が指折り待ち遠しかったくらいだから、きっとあらゆるリーグのファンが中継を観ていたことだろう。芸術家の支援でも良き先行例を手早く打ち出したドイツはさすがだった。シーズン再開後の試合運営についても、感染対策について8章立ての分厚い規程集が迅速に編まれたということである。
 
 シーズン再開に関しては、選手やチームのコンディションや練習不足などが懸念されたが、それでも試合運営は滞りなく遂行されていった。ベンチは交替前後の選手も含めて、離れて座ったうえにマスク着用が義務づけられたりして、スタジアムの雰囲気が異様で奇妙な趣きだし、まだ選手たちも馴れていない環境下で、激しい接触プレーなども控えられ、どことなく全体に「距離」を意識した感じのゲームにみえた。もっともブンデスリーガを見慣れていないから、再開前とのレヴェルや質の差異や変化はぼくにはよくわからない。ゴール・パフォーマンスのディスタンシングもきっちり意識されていたし、勝利のチーム・セレブレーションも手を繋がないまま、無人の観客席に向けて、戸惑いながらなされた。

 そうしたなか、ふだんと大きく違うのはスタジアムの音響である。がらんとしたなかに、やたらと監督やスタッフの声が響き渡り、選手の声をかき消す応援もないから、ボールを蹴る音がけっこうな迫力と重さ、もっと言えば一種の凄みをもって迫ってくる。シュートスピードが速いゴールがネット裏の看板を叩いた音なんて、びっくりするくらい激しかったり。これまでも制裁による罰則下の無観客試合というのをいくつか観たことはあるけれど、そのときの感じとは事情がまったく異なるとはいえ、いずれにしても巨大なスタジアムが空洞というのは練習時よりも静かに感じられるものだろう。

 それで、ふと思い出していたのが、コンサートの一律自粛要請前に聴いた生演奏のことだ。ぼくが聴いた最新の演奏会は、3月25日に東京オペラシティでひらかれた上原彩子ピアノ・リサイタルということになった。スタッフの方々が細やかな注意を払って運営されるなか、客席も舞台も含め、一種異様に緊張した雰囲気のなかで、コンサートは開催された。モーツァルトとチャイコフスキーを交互に織りなしたプログラムだったが、ピアニストがふだん以上に人々と音楽を分かち合うことに特別な感興を抱いているだろうことも、ていねいな演奏の表情から直截に伝わってきて、忘れ難い演奏会になった。

 なによりも不思議な感じがしたのは、ピアノの響きがふだんとはずいぶん違う音場になっていたことだ。ひとつには自分自身の耳が久々のコンサートということもあっただろうけれど、払い戻し分も含めて空席が多くなったホールがいつもとは違う顔をみせて、音が吸われずに広々と鳴り響くのだった。スペースが空いているぶんだけ残響がたっぷりとして、いつもよりも音が生々しく、緊張感やら新鮮さなどいろいろの要素もあって、同じコンサートホールでもふだんとはずいぶん違う響きかたをした。物理的に音響が変わっていて、ゲネプロで聴く感じとの中間態みたいにぼくは感じた。

 いま欧米の模索を先行として、コンサート再開に向けてのガイドラインが考案されているという話題がさまざまに聞こえてくる。ホールの席数を3分の1に制限して客どうしの距離を確保するとか、舞台の上もマスク着用が望ましく出演者の数や配置にも制限がかかるとか、どうしたって表現様式的にも試算ベース上も難題にみえることばかりだ。とくにクラシック音楽のコンサートの場合、イヴェントとしての性質だけでなく、生の音の密度は最大の生命線である。

 まるで映画のなかでのように派手に響くサッカーボールの蹴音を聞きながら、そうしてコンサートのことを考えていると、背に腹はかえられないし、また背がなければ腹もないのだと思えてならなかった。
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