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朝からカプースチン


青澤隆明 / 更新日:2022年8月15日


朝のカプチーノ、ではなく、夏の朝からカプースチン。



 朝からカプースチンの『8つのコンサート・エチュード』を聴いて、賑やかに浮き立つような気分。夏、って感じだ。作品の密度も演奏の放熱度も、たいへんなヴァイタリティーである。カプースチン自身のピアノ演奏。複雑で稠密な音の運動と重なりを、ザクザクと切り進んで行くさまがスリリングだ。

 冒頭曲プレリュードから、ラテンのジャズの晴朗さが広がっていく。よく晴れた夏の日に、雲が悠然と流れていくような感じもある。いまは部屋のなかだけれど、野外で聴きたくなる。と書いていて、辻󠄀井伸行がこの曲を得意として見事に弾きこなしているのを思い出したが、近いうち富士山河口湖ピアノフェスティバルとかで聴けたら最高だな。

 ニコライ・カプースチンの作品の魅力は、なんといっても躍動する生命の意志と、音の稠密さ、つまり情報量の多さだと思う。情報量なんてあまりいい言いかたではないけれど、カプースチンを聴いているといろいろな音楽が聞こえてくる。ラフマニノフとかメトネルとか、もちろんリストやショパンもそうだし、ガーシュイン、バーンスタイン、ビル・エヴァンスや、スウィング、ビッグ・バンドも、ラテンも、ロックも、いろいろと頭をよぎる。軽くめまいがしてくる。

 貪欲な胃袋で消化して、きちんとかたちに収めているその握力が逞しい。手はもちろんのこと、頭のほうのグリップもそうだ。さまざまな連想が張り巡らせながら、それでいてカプーチスンだと一聴してわかるのだから、たいへんなものだ。そして、誰が弾いても、カプースチンの曲だとわかる。弾き手がうまければうまいほど、ヴィルトゥオーゾも弾んで、曲が喜んでくるはずだ、そこに好きと愉しさがあれば。

 ぼくがいちばん好きなところは、カプースチンの曲には、いろいろな好きが集まっていることだ。カプースチン自身がとことん好きで、よくよく聴いて、かなり弾き込んできただろう、さまざまな作曲家の音楽の語法が、欲張りすぎるほどぎっしりと詰め込まれている。

 好き、ということは、いつも憧れとともにいくらか妄執を帯びてくるから、カプースチンの大好きには、相応のしつこさがある。それを、身体的な運動とリズムの快感が、前進するように前へ前へと押し開いていく感じだ。その感覚を、本能といってもいいし、意志といってもいい。知性的な統御と、形式的な構築と、がむしゃらな前進感が一体となっている。好き好きの盛夏だ。そこが痛快な晴れ間となっている。いろいろな生命が踊る、めくるめく夏の。

雲がかっこよかった。--霧島国際音楽祭をたずねて


青澤隆明 / 更新日:2022年8月10日


霧島国際音楽祭をたずねて (2022年8月5日~7日、みやまコンセール)



 霧島をたずねた。なんと8年ぶりのことだった。いったいぼくは、あれからなにをしていたのか。霧島国際音楽祭はしかし、その間も着実に回を重ねていて、この夏で43回目。今回ぼくは最後の3日間だけ滞在したが、わずかに雨は落ちたものの、ほぼずっと快晴と言ってよかった。夏がここに心地よくやってきていた。

 鹿児島空港についてまず思ったのは、緑がやわらかいことと、雲がかっこいいこと。そんなのあたりまえすぎて、地元の人に言ってもぽかんとされるだけだが、ほんとうにそうなのだ。ということを思い出し、眩しい気持ちになって、メイン会場のみやまコンセールに到着した。PCR検査の陰性証明を携えて現地入りしたが、結果的に音楽祭の全期間を通じて、ただひとりの陽性者も出なかった、と最終日に主催者が安らかに報告されていたが、ほんとうによかった。

 霧島はまさしく温泉が湧くように、自然や音楽が育ち、循環する風土に違いない。今年で生誕100年、亡くなって早くも10年になる創始者のゲルハルト・ボッセさんは間違いなくその熱風の源泉だろう。現音楽監督の堤剛さんや、常連のエリソ・ヴィルサラーゼさんをはじめ、みなさんとてもやわらかな表情で話している。なにより霧島の心地よいところは、生徒たちが先輩や先生となって、またここに帰ってくることだ。時代が急くようになっても、世代を交わすように、それぞれに豊かな時間をみつけにやってくるのだろう。

 さて、コンサートのことなどは、またレポートを書く約束があるので、まだここには記さないけれど、コンサートの合間には、旧知の方々と話をして、あとはぼんやりと雲を眺めていた。風に流されて、雲のもようは黙々と変わるので、いくらみていても飽きることはない。時おり楽器の練習の音や人々の話し声が聞こえてくることを含めて、とても静かでゆったりした夏の午後だった。日が翳って、また晴れて、つよく日が射して、それをまた雲が覆って。

 時間というのはこういうふうに流れていくものなのだ、ということを、いまさらのように思い出していた。そして、こどもの頃はずっとこんなふうだった、と思った。ぼくはここで育ったわけではないけれど、それでもこうしてぼうっと空と雲を眺めていると、それはそう遠い日、見知らぬ場所での出来事ではないような気がした。

 音楽がたくさんたくさん演奏されたあとの静けさに、夏のそよ風はやさしかった。それは、霧島のあたたかく、やわらかな風だった。人と人の間にも、つまりは学ぶ人、教える人、聞く人、支える人の間にも、そうした風がきっとずっと吹いてきたのだと思う。時代は移ろい、いろいろなことが変わっても、霧島の自然は偽らない。厳しく、温かく、激しく、優しく。これまでも、いまも、これからも。

サティのかたちをしたあるものの不在--椎名亮輔著『梨の形をした30の言葉』を読んで(後)


青澤隆明 / 更新日:2022年8月3日


本の話。椎名亮輔著『梨の形をした30の言葉 エリック・サティ箴言集』(アルテスパブリッシング, 2022)を読んで(続き)



 さて、この本、『梨の形をした30の言葉』を読んだのがサティの誕生日を過ぎた頃なら、いまは命日から1か月くらい経ったところで、またぱらぱらとページを捲っている。

 それにあわせて、「(犬のための)ぶよぶよした前奏曲」や「(犬のための)ぶよぶよした本当の前奏曲」をいま聴き直していたところ。高橋悠治とアラン・プラネスの懐かしい録音だ。もう40年もむかしの出来事になる。

 しかしこのタイトル、著者によれば、とある(「一匹の」)犬のための、「とらえどころのない」、「まとわりつく」、「曖昧な」前奏曲という形容らしい。ということは、なおさらサティめいている。

 「梨の形をした3つの小品」を本歌とするように、この本では30の言葉が表札に立てられている。(「3つの小品」が、前後に2つずつ伴って、全7曲でできているように、この本にも前後に短い文章がついている)。それでも、サティはここにいるとも言えるし、いないとも言える。

 正確に言えば、不在のかたちでいる、というありかたこそ、サティにふさわしい。そして、「梨」は、日本語では「無し」と響き合う。そこからイメージを繰り出せば、サティの言葉は、梨のかたちがイメージさせるユーモラスな静物を想像させるだけでなく、無形の言葉というふうにもみえる。

 サティはどこかに出かけてしまって、主は留守のまま、ときどきに放たれた言葉たちがなにかを「とらえどころなく」示唆している。「われわれの情報は不正確であるけれども、われわれはそのことを保証しない」。言葉はいつも言い尽くさず、そこにはかならず余白があって、サティはつねに不在を囲う。謎めく置き手紙のように。

 どの言葉もサティのかたちをしている。
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