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Viva! ヴィヴァルディ、いざ未来へ --篠崎“まろ”史紀 & MAROカンパニーの新たな年明け


青澤隆明 / 更新日:2023年1月10日


王子ホール ニューイヤー・スペシャルコンサート MAROワールド Vol.46 by 篠崎“まろ”史紀&MAROカンパニー ~Viva! ヴィヴァルディ~ (2023年1月7日、王子ホール) ◆篠崎“まろ”史紀(ヴァイオリン)、MAROカンパニー 大江 馨、倉冨亮太、郷古 廉、小林壱成、﨑谷直人、白井 篤、伝田正秀(ヴァイオリン)、佐々木 亮、鈴木康浩(ヴィオラ)、市 寛也、佐山裕樹(チェロ)、菅沼希望(コントラバス) 山田武彦(チェンバロ)



 午後に壮大なロシア音楽を聴いた後は、銀座で珈琲を飲んで、イタリア・バロックの宵へくり出した。王子ホールの年明けは、いつものように篠崎“まろ”史紀&MAROカンパニーで、“Viva! ヴィヴァルディ”。読響とポゴレリッチの力強い演奏の後に聴いても、こちらもまた、ホールに満ちる豪勢な響きが圧巻だ。多くのコンサートマスターや首席奏者も含めて、弦の猛者が世代を超えて集えば、この地力だ。

 新春に、ヴィヴァルディの協奏曲づくし。とはいえ凝った構成で、コンサート前半はプログラムが進むにつれて、ソリストが次々と増えていく面白い仕掛け。ヴァイオリンのソリストが1、2、3、4というふうに漸次増殖するだけでなく、篠崎史紀の「未来へ繋ぐ」思いを象徴するように、彼が次代を託す名手たちへと手渡すように発展していく。

 まずは篠崎自らソロをとった『調和の霊感』op.3の第6番、続いて郷古廉と小林壱成でop.3の第8番を。サプライズで佐山裕樹と市寛也の2つのチェロの協奏曲ト長調の第1楽章をはさみ、3つのヴァイオリンの協奏曲ヘ長調では﨑谷直人と伝田正秀と白井篤、再びop.3にかえって第10番では大江馨、小林壱成、郷古廉、倉冨亮太、そしてチェロの佐山がフロントを組んだ。

 後半は『四季』の全曲。ふたたび篠崎が堂々とソロに立ち、ここまでも伸び伸びと即興を広げてきたチェンバロの山田武彦がさらに愉快なアイディアをくり出しつつ、アンサンブルで大いに遊んでいった。

 ここは、道場なのか遊び場なのか。そのどちらでもあるような真剣な音楽対話の熱が、ヴィヴァルディを多彩に、しかも逞しくマッチョに躍動させる。トークも交えて個々の奏者をフィーチャーしながら3時間弱、ヴィヴァルディしばりだが多彩なアイディアに富み、まさに「技のデパート」の様相を呈していた。

 アンコールには山田武彦が特別に書き下ろした「アンコールのための曲」で、ここまでソロには恵まれなかったコントラバスの菅沼希望がセンターに立ち、ヴィオラの両雄、鈴木康浩と佐々木亮も濃い独奏を織り込む。全員が主役のスーパー・カンパニーの大団円を、曲はいささかメランコリックだが、力強く濃厚に結んだ。

万能と喪失


青澤隆明 / 更新日:2023年1月10日


2023年コンサートの聴き初め。◆読売日本交響楽団 第254回土曜マチネーシリーズ 指揮=山田和樹 ピアノ=イーヴォ・ポゴレリッチ (2023年1月 7日、東京芸術劇場)  ◆チャイコフスキー:「眠りの森の美女」 から“ワルツ”、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18、チャイコフスキー:マンフレッド交響曲 ロ短調 作品58



 2023年のコンサートの聴き初めは、イーヴォ・ポゴレリッチ。1月7日のコンチェルトに続いて、次の週にはリサイタルを2本ほど聴くつもりだから、いかにも重たげな年明けである。

 というような書き出しは、ピアノ好きのわがままだが、そもそも間違っていて、山田和樹が指揮する読売日本交響楽団の年初めの演奏会なのだ。山田和樹と読響の充実ぶりが改めて大きく堪能された。

 プログラムはチャイコフスキーとプロコフィエフの組み合わせの予定が、昨秋にはピアノ協奏曲がプロコフィエフの第3番からラフマニノフの第2番に変更されていた。年初に聴くハ長調のつもりが、ハ短調になって昏い始まり。演奏会後半の「マンフレッド交響曲」ではロ短調に一段下りる。

 はじまりに、チャイコフスキーの『眠りの森の美女』の「ワルツ」が分厚い弦で鳴り響くと、年末年始を経て9日ぶりに聴く生のオーケストラでもあったし、ホールが東京芸術劇場ということもあって、読響の音の質量がなおさら逞しく迫ってくる。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番では、ポゴレリッチが近年の復調ぶりを保って、総じて快速に弾き進んでいった。かつてとは打って変わって、演奏時間にして33分ほど。それでも、鋭利で強硬な音の極端な打ち出しなど、彼独特の音響表現の性格づけは変わらない。意図的に緩急をつけ、意表をつく突き出しもある。それも、おそらくは演奏の都度仕掛ける場所が即興的にも変わるのだろう。山田和樹はそうした誇張も最大限尊重しつつ、独奏者の意図に巧みにつけていった。ポゴレリッチが重視する急所では、オーケストラを煽動的に切り立てつつ、鋭利な表現でソロに食らいつくようにして。

 演奏会後半のチャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』は、山田和樹の求心力が見事に発揮された堂々たる演奏だ。曲のナラティヴを巧みに活かし、豪勢な響きで多様な場面を力強く劇的に描きぬいた。ストレートで、ギミックなしに。だから、孤独や寂寥がかえって濃く張り詰める。スヴェトラーノフの採った版に準じて、冒頭楽章終結部の回想をもって、全曲が力強く結ばれた。

 プログラム全体として、チャイコフスキーの安定のパンに、ラフマニノフでのポゴレリッチの違和がギラリと挟まったサンドウィッチ、というようなコントラスト。協奏曲と交響曲では指揮者の仕事は強く対照的だったが、コンサート全体のプロセスとしてしっかりと一枚岩で結ばれる雄渾な流れだ。新年早々、意志に漲る引き締まった演奏を聴いた。

大バッハの、そよ風か嵐


青澤隆明 / 更新日:2023年1月7日


本◎伊坂幸太郎著『死神の精度』(文藝春秋 2005年初版)



 バッハのことを書いていたら、思い出した。年末に、伊坂幸太郎の『死神の精度』を読み返して、「ああ、この感じ、やっぱりいいな」と思ったのだ。細かい筋をまったく覚えていないことには自分でもあきれたが、2005年6月に出た本だから、じつに17年半ぶりなのである。ゆるせ、死神。と呟いて、自分はべつに許しを請うべきことなどないと思った。それでもいちおう、「はて、思い当たる節はほんとうにないか」と考えてはみたが、こういう場合、深追いは禁物だろう。

 さて、本書の「死神」は、いろいろとクールにチャーミングで、だからこの短篇連作は面白いのだが、いちばんぼくが好きなところはもちろん、彼が「ミュージック」を好きなことだ。「ジャズでも、ロックでも、クラシックでも、どれであろうと、ミュージックは最高だ。聴いているだけで、私は幸せになる。たぶん、他の仲間も同じだろう。死神だからといって、髑髏の絵がジャケットに描かれたヘヴィメタルしか受け付けないというわけでは、決してない」。

 冒頭の表題作からして、ミュージックが鍵となる短篇だが、なかでもとくに心に残るのは、「恋愛で死神」のなかの次のくだりだ。店内を流れるミュージックに惹かれて、「これは何という曲だ?」と、「千葉」と名乗っている死神がたずねる。

「『バッハの』と彼は意外にも知っていた。『チェロの無伴奏組曲ですよ、たぶん』
『大バッハか』私は思わず、口に出す。バッハという名前の音楽家は大勢いて、なぜか、一番有名なバッハは、大バッハと呼ばれているらしいが、その呼び名が私は好きだった。『いいな、これは』
『僕も好きなんですよ』萩原はテーブルの上の伝票をつかんで、ここは僕が払いますよ、と言った後で答えた。『優雅で、切なくて、そよ風とも嵐ともつかない曲です』」

 この「大バッハ」という響きが愉快だし、書きっぷりも絶妙だろう。と言っても、「千葉さん」がどういう性格がわからないと、そこのところはうまく伝わらない。この世のことを、彼はよく知らないのである。「大勢いて、なぜか一番有名なバッハ」というのが、実にいい。そもそも、「大バッハ」という語感が、こどもの頃からぼくもなんとなく好きなのだ。偉大というよりもむしろ、おかしみがある気がしてさ。

 そのまえに、相手が「たぶん」と答える感じもいい。それなのに、ちゃんと表現している。「そよ風とも嵐ともつかない曲」というのは、いったい誰が弾いているのだろう。誰が弾いても、そうなるのかもしれないが。

 風はなかなかつかまえられない。こちらがつかまえられるのが、せいぜいのところだ。
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