寺西基之の音楽日記をイッキ見

若き姉弟デュオが奏でた50年前の名演


寺西基之 / 更新日:2020年1月9日


岩崎洸&岩崎淑によるベートーヴェンのチェロ・ソナタ&変奏曲全集



 今年2020年はベートーヴェン生誕250年ということで、様々な形でベートーヴェンが取り上げられる年となるに違いない。個人的には250年と聞くと、1970年の生誕200年から半世紀経ったのかという感慨にとらわれてしまう。当時私はまだ中学生だった。社会状況も音楽を取り巻く環境も今日とはまったく違っていた時代だったが、やはり生誕200年ということでベートーヴェンは一大ブームとなっていた。中学生の時に感じたことなので必ずしもあてにならないかもしれないが、今日以上にそれは熱かったように思われる。演奏会でもサヴァリッシュ指揮N響による交響曲全曲とミサ・ソレムニス(近年CD化された)のツィクルス、ケンプのピアノ協奏曲全曲(これもCDで出されている)とソナタ全曲のツィクルスをはじめ、内外の演奏家がこぞってベートーヴェンを取り上げていた記憶があるし、LPレコードではグラモフォンと東芝EMIからそれぞれにベートーヴェン作品全集が出されて大きな話題となっていた。有り余るほどの録音が出回りCDのボックスセットも廉価で手に入る今日とは違い、LP一枚一枚が貴重だった当時としては破格ともいえる膨大な規模の全集(前者は全12巻78枚、後者は全24巻87枚)だったので、それも当然だろう。もちろん当時中学生の私がこれらの全集に手が出せるわけもなく、両者の広告パンフレットを机に飾って眺めていただけだったのだが、それでも夢があって楽しかった。
 この2つの全集は既存の録音と新録音を併せて構成されたもので、新録音の目玉としてはグラモフォンの全集ではベーム指揮の「フィデリオ」、東芝EMIの全集ではギレリスとセルの共演による5曲のピアノ協奏曲があった。また東芝EMIのほうは音源のない曲を日本人演奏家による新録音で補っていたのが特徴で、記憶違いでなければ内田光子のデビュー盤ともなったピアノ協奏曲第0番や若杉弘によるカンタータも含まれていたように思う。

 その東芝EMIの日本人による新録音として、チェロとピアノのためのソナタおよび変奏曲の全曲の巻を受け持ったのが岩崎洸と岩崎淑の姉弟デュオだった。チェロ・ソナタ全曲といえば全集の中でもメインとなる巻のひとつである。すでにミュンヘン国際コンクールなどで上位入賞を果たしていた実績もあったにせよ、メイン曲は外国の大家による演奏で構成されていたこの全集で、まだ若手だった彼らが起用されたことは、まさに大抜擢だったといってよい。それほどまでにこの姉弟コンビは当時新進気鋭のホープとして注目されていたことがうかがえよう(この録音後、1970年のチャイコフスキー国際コンクールのチェロ部門で岩崎洸は第3位に輝き、その時伴奏を受け持った淑は伴奏者特別賞を受けた)。
 実はこのチェロ・ソナタの巻は、私の父が彼らをよく知っていたこともあって発売と同時に父のもとに届き、おかげで私もそれを手にすることが出来た。暗い焦げ茶色の立派なケースに入ったLPレコード3枚組で、ケースの表には金色でベートーヴェンのサインが刻印され、また盤面中央のレーベル部分も金色で、そこにベートーヴェンの肖像画が描かれていたのがとても気に入ったものだ。
 このレコードをとおして私はベートーヴェンのチェロ作品に初めて触れることになったのだが、最初に聴いたソナタ第1番でもうすっかりその世界の虜となり、5曲のソナタと3曲の変奏曲を全部一気に聴きとおしてしまったことを覚えている。まだこの頃の私は演奏の評価をできるまでの耳は持っていなかったが、岩崎姉弟のこの演奏にはなにか惹かれるものがあり、当セットは当時の私の愛聴盤となったのである。
 やがてCDの時代となってLPレコードを聴くことがなくなっていったことで、このセットも他の多数のレコードとともに書庫の奥のほうに仕舞いこんだままの状態になってしまったのだが、今年ベートーヴェン250年ということで50年前のことに思いを致した時、無性にこのセットを聴きたくなった。そこで元日に書庫の隅からこれを探し出し、本当に久しぶりに針をとおした。蘇ってくるあの懐かしい響き。いや決して懐かしさではない。改めて今の耳で聴いても、この演奏は実にフレッシュな魅力に満ちている。息のぴったり合った2人の奏でる音楽は清楚でストレートながら、決して一本調子になることがなく、表情やテンポの微妙な揺れが生命の宿った瑞々しい音楽を生み出している。伸びやかな淀みのない流れの中で楽興が湧き上がるかのようで、清冽で生き生きとした旋律を紡ぎ出していく洸のチェロと、細やかな美音の動きの中にデリケートな陰影がきらめく淑のピアノが一体化したアンサンブルを作り上げているのがすばらしい。1970年当時はとかく壮大な大ソナタとして演奏されるきらいのあったソナタ第3番も大上段に構えることなく自然体に清新な息吹を吹き込んでいるし、後期の第4番と第5番も同様。第5番のフーガにみられる軽妙さも実に清々しい。とりわけ優れているのがソナタ第1番と第2番、および変奏曲3曲で、初期のベートーヴェンにふさわしく、はじけるような若々しさに満ちた活力ある名演となっている。
 この全集がこれまでCD化されてこなかったのはなぜなのだろう。何らかの理由があるのかもしれないが、これだけの演奏をお蔵入りにしたままにしておくのはあまりにもったいない。ベートーヴェン・イヤーの今年、このアルバムが復活することは望めないのだろうか。

2つの「冬の日の幻想」~聴き比べの楽しみ


寺西基之 / 更新日:2019年12月25日


ヴァレリー・ポリャンスキー指揮九州交響楽団(12月11日アクロス福岡シンフォニーホール)VS.パブロ・エラス・カサド指揮NHK交響楽団(12月12日サントリーホール)



 オーケストラやオペラの公演において同じ曲目や演目が日を接して重なることはよくある。この秋には来日オケによるマーラーの交響曲第5番が続いたし、またティーレマン&ウィーン・フィルとメータ&ベルリン・フィルのブルックナーの第8番対決もあった。たしかにマーラーの第5やブルックナーの第8のような、今や世界的にオケの主要レパートリーになっている曲ならこうした事態も頷けよう。しかしふだんそれほどは取り上げられない作品でもそうした現象が起こる場合がしばしばある。主催団体が意図したわけでないにもかかわらず、ふたを開けてみたらそうなっていたということがなぜか多いようで、例えばこの10月から11月にかけてはショスタコーヴィチの交響曲第11番が井上道義&N響、沼尻竜典&東響、インバル&都響(私は聴きそこなったのだが)と続けざまに演奏されたことは記憶に新しい。
このように同じ曲が他団体と重なることは、主催する側にとっては集客という点であまりありがたくないようで、そのことは充分理解できる。しかしこれは逆にみれば同じ作品を違う演奏で聴き比べるまたとない機会でもある。上述のブルックナーの第8対決も、ウィーン・フィルの艶やかな音を生かしつつ、テンポとダイナミクスの変化と揺れのうちにヴァーグナーの楽劇のようなうねりのあるドラマを作り出したティーレマンに対して、メータはベルリン・フィルからこのオケ本来の厚みと重みのある響きを引き出しながら、イン・テンポを基調としたどっしりとした運びで揺るぎのない壮大な大伽藍を築き上げるというように、まったく対照的なブルックナーの世界を味わうことが出来た。かかる聴き比べの楽しみは、馴染みのない曲ならよりいっそうその作品に親しみが持てるようになるチャンスだろう。たまたま曲が重なったときは、主催者どうしむしろそうした面白さをともにアピールしていくことで集客につなげていくような発想も大切かと思われる。

 前置きが長くなったが、去る12月11日と12日、2つのオケで聴いたチャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」も、その点で非常に興味深いものがあった。ひとつはアクロス福岡シンフォニーホールでのヴァレリー・ポリャンスキー指揮する九州交響楽団の定期、もうひとつはサントリーホールにおけるパブロ・エラス・カサドが指揮するNHK交響楽団の定期での演奏会である。このチャイコフスキーの第1番は最近でこそ時々取り上げられるようになってはきたものの(この前の週には東京文化会館でゲルギエフもマリインスキー劇場管弦楽団を振ってこの曲を演奏している)、後期の3曲の交響曲に比べれば演奏頻度はまだまだ低い。そうした曲を2日にわたって聴くことができ、しかもその2つの演奏がまったく違う作品であるかのように響いたのがとても印象的だった。
 この作品はチャイコフスキーの交響曲の中でもとりわけロシアの風土を感じさせるもので、第1楽章冒頭からあたかも冬のロシアの風景が広がるかのような、雰囲気豊かな描写性を持っている。そうしたこの作品の魅力を存分に堪能させたのがポリャンスキー&九響の演奏だった。このロシアの指揮者が日本のオケを振るのは初めてのこと、しかもロシア語しか話さないらしくリハーサルも通訳を通してということを事前に耳にしたので、果たして意思疎通がうまくいくのかと心配していたのだが、さすがは老練の名匠、九響からまさにロシア的といってよいどっしりした重々しい響きを引き出しつつ、チャイコフスキーらしいたっぷりとした息の長い歌いまわしによって情感と起伏に満ちた雄大な世界を作り上げたのにはただただ舌を巻いた。第2楽章の後半、主題をホルンが朗々と吹いていく箇所の悲劇的な翳りや、終楽章のコーダで引きずるようなゆっくりとした歩みがじわじわと盛り上がって、地響きがするかのような圧倒的な音圧による終結へと導いていく様など、まさにロシアの大地を思わせるものがあり、ロシアの伝統に根差すポリャンスキーの棒に九響が見事なまでに応えての名演に結実したのである。
 それに対して翌日聴いたカサド&N響の演奏は、冒頭からして実に爽やかで風通しがよい。広大なロシア的雰囲気は希薄で、快速に躍動感あふれる運びで音楽が進んでいく。“陰鬱な地、霧の地”と表記された第2楽章も、その澄んだ響きは清々しさが漂い、ポリャンスキーが強調した後半の悲壮なホルンの箇所もカサドの手にかかると実に明快そのもの。終楽章も颯爽とした前進性が何とも壮快で、エンディングも華やかだ。ロシア情緒のかけらもない演奏といってしまえば身も蓋もないが、むしろそうしたアプローチだからこそ見えてくるものがある。ポリャンスキーのようなロシア的なマッシブな響きを志向する演奏では聴きとれなくなるような、細部の音の動きや重なり具合など、スコアの音符がはっきりと浮かび上がってきて、それが実に面白い。特に第4楽章のフーガ風の箇所は線の絡みが明確に浮き彫りにされ、初めての交響曲でポリフォニックな書法を導入しようというチャイコフスキーのチャレンジングな姿勢が(いまだ必ずしも成熟していない筆遣いとともに)明らかにされて、まことに興味深かった。ことさらロシアという背景にこだわることなく、チャイコフスキーのスコアの音と向き合うことから作品を捉えていくこうした行き方は、もともと近現代の音楽を得意とするとともにピリオド系のアプローチまでも視野に入れているスペイン人指揮者カサドならではといえるだろう。前日に聴いた同じ曲の残像が耳のうちに残っていただけに、なおいっそうカサドのそのような美質が際立って感じられ、新しい発見をもたらしてくれたのであった。
やはり聴き比べは楽しい。

藤田真央、恐るべし 2019年12月7日東京文化会館


寺西基之 / 更新日:2019年12月25日


ピアノのホープ藤田真央がゲルギエフ&マリインスキー劇場管弦楽団のチャイコフスキー・フェスティバルにおいて急遽代役で登場、初挑戦の曲で見事な演奏を聴かせてくれた。



 演奏家にとって突然代役を頼まれることは、大きなチャンスであるとともに、大変なプレッシャーでもあるだろう。特にすでに日が迫っていて、しかも今までに演奏した経験のない作品の場合はなおさらであるに違いない。このたびそうした急遽の代演をやってのけた若き俊英がいる。今年のチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で第2位に輝いて注目を浴びている藤田真央だ。彼が代役を務めたのはヴァレリー・ゲルギエフ率いるマリインスキー劇場管弦楽団来日公演のチャイコフスキー・フェスティバルでのピアノ協奏曲第2番のソリストである。予定されていたピアニスト、セルゲイ・ババヤンが降板することになり、藤田の才能を高く評価するゲルギエフの指名で数日前に代役を言いつかったという。藤田にとってまだレパートリーにはしていない難曲であり大作である。わずかの準備期間しかない状況での代役受諾は相当の勇気が要ったはずだ。しかしゲルギエフの指名ということで彼は果敢にもそれを引き受け、見事に演奏会を成功に導いた。しかもそつなく何とかこなしたといったレベルではなく、稀に見る名演を聴かせてくれたのである。
 このチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番は有名な第1番に比べてはるかに演奏される機会が少ない。第2番を弾いた経験のあるピアニストに聞いたところでは、この曲は長大であることはもちろんのこと、第1番以上に技巧的な難所が多く、その割に演奏効果があがらないという。実際は、優れた音楽性を持ったピアニストで聴くと、第1番よりもチャイコフスキーらしい叙情味がふんだんに盛り込まれた魅力的な作品なのだが、全体がまとめにくく、並みの演奏家だとどうしても散漫な印象を与えるような曲になってしまうのだ。しかし藤田真央は濃やかな表情のうちに瑞々しいリリシズムを湛えた演奏でもって、この作品の美質を十二分に表わし出した。第1楽章にしても、十分に力感に富んだ打鍵ながらも決して荒々しくならず、たっぷりとした響きの中に情感の潤いを感じさせ、突如とした雰囲気の変転も鮮やかに描き出す。ヴァイオリンとチェロのソロが前面に出てくる点でピアノ協奏曲としては特異な第2楽章では、やや粗削りの感のあった2人の弦のソロに対して、藤田のピアノがしっとりとした歌を紡ぎ、あたかも一編の叙情劇のよう。第3楽章は筆者の個人的好みからするとややテンポが速すぎる気もしたが(これはゲルギエフのテンポだったのかもしれない)、それでも決してむやみに弾き飛ばすという感じはまったくなく、むしろその快速のうちにリズムや旋律に微妙な変化を施して、感興豊かな躍動感を生み出していたところに優れたセンスを感じさせた。筆者がこれまでに聴いたこの作品の実演でも一二を争うすばらしい演奏であり、ましてこれが急な初挑戦であったことを思うと、驚嘆せざるを得ない。今回の代役での名演は、藤田真央が真の実力の持ち主であることを改めて証明するものだったといえるだろう。

 今年(2019年)は彼の才能の様々な面を見せつけられた一年だった。秋山和慶の指揮する東京交響楽団定期演奏会(4月21日サントリーホール)でのジョリヴェの「赤道コンチェルト」の鋭敏で切れの良い色彩感溢れるピアニズム。東京シティフィルのティアラこうとう定期演奏会(7月6日。結果的にチャイコフスキー国際コンクール快挙後の凱旋公演となった)での飯守泰次郎との共演によるベートーヴェンの「皇帝」で示された正攻法の堂々たるアプローチ。ヴァイオリンの金川真弓とのデュオコンサート(11月7日浜離宮朝日ホール)においての、共演相手に時に親密に寄り添い、時に丁々発止にやり合うアンサンブル・ピアニストとしての秀でた能力。こうした優れた音楽的センス、フレキシブルな感性の豊かさは今後のさらなる可能性の広がりを期待させる。才能のある人だけにそれを無駄に浪費するようなことがないよう留意しつつ、これからもさらにいろいろな挑戦を続けていってほしいものだ。
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