寺西基之の音楽日記をイッキ見

“リコーダーのパガニーニ” モーリス・シュテーガーの名技


寺西基之 / 更新日:2020年4月24日


新譜CD 《ヘンデル氏の夕食会》~モーリス・シュテーガー(リコーダー)&ラ・チェトラ [ハルモニア・ムンディKKC6021]



 スイス生まれのリコーダーの名手、モーリス・シュテーガー。その圧倒的な技巧と表現力豊かな音楽性は、これまで出されたCDでも存分に発揮されていた。彼のCDは凝った趣向による選曲にも注目すべきものがあるが、今回リリースされたラ・チェトラ(バロックオーケストラ・バーゼル)との共演による一枚も、《ヘンデル氏の夕食会 Mr.Handel’s Dinner》というタイトルが付けられているように、イギリスでオペラ作曲家として名を成したヘンデルがそのオペラ上演の長い幕間に開いた演奏付きの豪華な夕食会をイメージした興味深いプログラムで、ヘンデルの作品を中心にしつつ、そのあいだに他の作曲家の作品を挟むという形をとっている。
といっても当時のある夕食会のプログラムをそのまま再現したものではない。そこにはシュテーガーらしいオリジナリティが盛り込まれており、例えば第1曲目のヘンデルのリコーダー協奏曲は、原曲がリコーダーと通奏低音のためのソナタOp.1-11。これはのちにヘンデル自身の手でオルガン協奏曲に編曲されているが、シュテーガーはそのオルガン協奏曲のオーケストレーションを用いつつ、原曲のリコーダーで演奏することでリコーダー協奏曲としており、さらに途中にオルガン伴奏のインプロヴィゼーションを挟み込んで、まったく新しい装いの作品に作り替えている。
 次のヘンデルの組曲もシュテーガー独自の編作で、ヘンデルのオペラ『アルミーラ』の中のいくつかの舞曲を並べ、最後にオーボエ協奏曲ト短調HWV287の舞曲的なフィナーレをつなげるという構成。それに続くフランチェスコ・ジュミニアーニのリコーダー協奏曲は実はジュミニアーニがコレッリのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタOp.5-11をリコーダーの協奏曲に編曲したものだが、そのコレッリのオリジナルのヴァイオリン・パートにコレッリ自身や当時のヴァイオリニストが記譜した装飾法を、シュテーガーはこのジュミニアーニのリコーダー協奏曲の演奏にあたって参考にしている。
シュテーガーのこうした創意は、楽曲を借用したり編作したりしながら新しいものを生み出すというバロック時代の慣習に準じたものだろう。当時の演奏会のそのままの再現ではなく、その時代の精神を今日に生かすこと、シュテーガーの意図はまさにそこにある。
 この“夕食会”は、さらにゴットフリート・フィンガーやウィリアム・バベルなどの作品も挟んで繰り広げられていくが、一枚をとおして聴くと、緩急のテンポ、躍動性とカンタービレのコントラストなど、巧みに変化を際立たせるべく楽曲を配列していることが浮かび上がってくる。要所にバッソ・オスティナート(ヘンデル「組曲」中のシャコンヌ、フィンガーのグラウンド、ヘンデルのパッサカイユHWV399/3とシャコンヌHWV435)に基づく曲を置いて、流れにアクセントを与えているところや、必ずしもリコーダーの曲ばかりでなく、特に最後のヘンデルのシャコンヌHWV435はチェンバロ曲(しかもこの演奏では前奏と後奏に弦楽合奏が付け加えられている)で“夕食会”を締めくくっているところも心憎い。
このように全体の曲目構成やコンセプトにシュテーガーらしい粋なセンスが光った一枚だが、もちろん何よりもすばらしいのは演奏そのものであることはもちろんだ。それぞれの曲に即して数種のリコーダーを持ち替えつつ、圧倒的な名人芸を聴かせる彼は、まさに“リコーダーのパガニーニ”という異名にふさわしい。名人芸といっても決してただ技巧を誇示するというのでなく、どこをとっても音楽が生き生きと呼吸し、作品に新たな息吹が吹き込まれている。時に軽やかに飛翔し、時にしっとりしたカンタービレの美しさを聴かせ、歯切れのよい音が生み出すめくるめく躍動感で高揚をもたらしたかと思うと、柔らかな音色で聴く者を暖かく包み込むというように、シュテーガーの表現の多彩さは限界がないかのよう。ヘンデルの作品でいえば、「組曲」のブーレやリゴドンの圧倒的な技巧による小気味よい弾み、リコーダーとチェンバロのソナタイ短調HWV362の冒頭楽章の哀感を秘めたカンタービレ、トリオハ短調HWV386aでのヴァイオリンとの親密な絡みなど、その魅力を挙げればきりがない。バベルの6度フルート(D管のソプラノ・リコーダー)と4つのヴァイオリンのための協奏曲では、天空での飛翔と歌を思わせるような、高音の魅力を存分に発揮させた妙技がなんとも鮮やかだ。
アルバム全体をとおして、古楽の演奏法や解釈をきちんと踏まえながらも、自由自在にリコーダーを操りながら、インスピレーションに富む音楽を繰り出すシュテーガーの演奏は、実にモダンな感性を感じさせる。共演のラ・チェトラのフレッシュな演奏もすばらしい。音楽の愉しみを堪能できる一枚である。

びわ湖ホール「神々の黄昏」無観客上演  2020年3月7日、8日 びわ湖ホール


寺西基之 / 更新日:2020年3月16日


新型コロナウィルスの影響で一般公開が中止になったびわ湖ホールの「神々の黄昏」。取材陣と関係者のみのまばらな3階客席から観た上演をリポートする。



 新型コロナウィルスによるコンサート自粛要請のために、3月7日と8日の両日に予定されていた滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールのワーグナーの楽劇「神々の黄昏」が公演中止に追い込まれ、代わりに無観客上演を実施してDVD収録とユーチューブでの無料同時配信を行なったことは大きな話題になった。沼尻竜典芸術監督のもとでびわ湖ホールが4年かけて総力を挙げて取り組んできた『ニーベルングの指環』の最終回であり、特に「神々の黄昏」は時間的規模も長大、編成も最大で、1億6千万円もの製作費をかけて1年にわたって準備し、出演者も1か月以上前からリハーサルを重ねてきただけに、それが無に帰すことが避けられたのはせめてもの救いだったといえよう。しかも同時配信は両日ともに常時1万人以上が視聴し、アクセスした人の延べ数は2日間で36万人に到達、海外からの視聴も少なからずあったという。即日完売だったチケットは全額払い戻しになってしまったので公演中止による経済的な損失は多大なものだったにせよ、ネット配信を実現させたことで“びわ湖リング”を内外にアピールできたことは大きな成果だったといってよい。
 ここまで積み重ねてきたものを何とか形にしたいという沼尻芸術監督をはじめとする関係者の強い思いが今回の配信に結び付いたが、その実現までには、限られた短い期間での山中隆びわ湖ホール館長を中心とするホール・スタッフの大変な奔走があった。上演後の囲み取材での話によると、安倍首相が大規模なコンサートやイベントの中止要請を出した2月26日の後、山中館長は、公演の実施を探りつつも、万一中止せざるを得ない場合は無観客で上演してそれをDVD化する構想を県に伝えた。結局2月28日午前中に県から中止の命が下り、同日午後、山中館長は出演者全員を集めてDVD化を提案する。この提案の話に対しては大きな拍手が起こったが、DVD収録には全出演者の承諾が必要で出演者の中には権利関係上のクリアを要する人もいたため、諾否の返事に一日の猶予を与えたという。翌日全員がDVD化に賛成であることを確認し、無観客上演が決まったのだった。
この時点ではまだDVDのみの企画だったが、その後ホールのスタッフからユーチューブでの生中継という案が出され、急遽同時配信が決定された。その背景には、コロナ禍ゆえに演奏会が次々中止される状況の中で文化庁が、無観客でもネット配信を行なえば当初から決まっていた文化庁からの公演助成をそのまま出すという方針を打ち出したことがあったのかもしれない。いずれにしても、日本ではまだ一般的ではない長大なオペラのストリーミング配信をほとんど準備期間のない状況で行なうことはかなりの冒険であったはずだが(固定カメラによる正面からの映像のみで字幕なしという形になったのもこの状況では致し方なかっただろう)、すでに触れたようにそれは大きな反響を呼ぶこととなった。
中止決定からわずか数日、DVD化とネット配信の実現への山中館長とホール・スタッフそして沼尻芸術監督の奮闘は想像を絶するものがあっただろう。これまで制作に費やしてきた苦労、何よりもこの難しい超大作上演のために万全に準備してきた出演者と舞台関係者の努力を無駄にすべきでないという強い思いが、その原動力になったことは間違いない。

幸い筆者は取材陣と関係者のみが入場を許された3階席で2日にわたる上演に接することができたが、両日ともそうしたホール側の熱意に出演者が見事に応えた出来栄えとなった。過去3年にわたってこの“びわ湖リング”を観てきて、その水準の高さは十分認識してきたが、今回の「黄昏」はこれまで積み重ねてきた経験を踏まえた上でそれをさらに高い次元に持っていったようなきわめて充実した上演で、全体を貫く集中度と燃焼度の高さには胸が熱くなるものを感じたものである。
歌手は例年どおりダブルキャストで、昨年までの公演では不調の人が若干混じる場合もあったが、今回は押しなべてハイレベルで粒がそろっていた。興味深かったのは、ダブルキャストのそれぞれの個性の違いが例年以上に際立っていたこと。ジークフリートにしても、ヒロイックなクリスティアン・フランツ(7日)に対して、エリン・ケイヴス(8日)はどこかおおらかさが感じさせる。いかにも悪役ぶりがはまっている妻屋秀和(7日)、精悍な男ぶりを発揮する斉木健詞(8日)といった2人のハーゲンの対照ぶりも面白い。
とりわけコントラストが鮮明だったのがブリュンヒルデで、強靭さ一筋で押す迫力満点のステファニー・ミュター(7日)に対して、池田香織(8日)は強さとともに女の心の揺れを見事に表わし出していた。「ワルキューレ」や「ジークフリート」もそうだったが、この池田のブリュンヒルデの存在感はこの“びわ湖リング”の中でも格別のものがある。グートルーネも、清純な声を生かして結婚を夢見る乙女という面を引き出していた安藤赴美子(7日)、歌と演技ともにより強い気性の女を感じさせた森谷真理(8日)と、この役の違う側面が浮かび上がってきて興味深かった。
 ともにヨーロッパでの経験を感じさせる堂に入った歌唱を聴かせたグンターの石野繁生(7日)と高田智宏(8日)も秀逸。ワルトラウテの谷口睦美(7日)と中島郁子(8日)もそれぞれにブリュンヒルデとの緊張に満ちたやり取りの場をドラマティックに作り上げ、出番はわずかながらアルベリヒの志村文彦(7日)と大山大輔(8日)も見事に場を引き締める。何しろ3人のラインの乙女(7日=𠮷川日奈子、杉山由紀、小林紗季子;8日=砂川涼子、向野由美子、松浦麗)と3人のノルン(7日=竹本節子、金子美香、高橋絵理;8日=八木寿子、齊藤純子、田崎尚美)にも、東京二期会や藤原歌劇団の公演では主役を歌うような大ベテランや気鋭の若手を起用するという贅沢なキャスティングに、びわ湖ホールの本気度が窺われよう。びわ湖ホール声楽アンサンブルに新国立合唱団が加わってのレベルの高い合唱も聴きものだった(合唱指揮=三澤洋史)。

 沼尻竜典は歌手たちの歌に寄り添いつつ、京都市交響楽団を鮮やかな統率力でリードしていく。毎年このシリーズで京響は初日よりも2日目のほうが出来の良い傾向があり、今回も初日は前半ではまだ乗り切れないところがあったが、後半以降次第に調子を上げて、2日目は冒頭から力を全開、6時間に及ぶ長丁場を緊張の糸の切れることなく、見事に乗り切った。これまでワーグナー経験を積み重ねてきた京響の実力がこの「黄昏」ではフルに花開いたといえよう。今回この京響の好調さゆえに、余分な思い入れや過剰なロマン的表現を排して音そのものにドラマを語らせていく沼尻のアプローチがこれまでの3作以上に効果的に生きていた。ワーグナーのオケ・パートの雄弁さが圧倒的な力でもって迫ってきたのは、無観客ゆえに響きの鳴りがよかったからというだけではあるまい。劇の流れを迫真的に音化する沼尻の手腕はめざましいものがあり、またダブルキャストの歌手に合わせて、初日と2日目でテンポや間の取り方など微妙に表現に変化を与えていたことにも、オペラ指揮者としての技量が発揮されていた。

 ミヒャエル・ハンペの演出、ヘニング・フォン・ギールケの美術・衣裳は、ト書きに逐一忠実な写実的な様式美を追求したものゆえに、これまでも古色蒼然とか思想性の欠如という批判が一部から出てもいたが、プロジェクション・マッピングという最新のテクノロジーを駆使してまで写実性に徹するその姿勢は確たる信念に裏付けられており、特に今回の「黄昏」は、プロジェクション・マッピングの使い方と実際の舞台の動きとが今までの中で最も無理なく融合していたと思う。ライン河の流れの動きを映し出したいかにも19世紀ドイツの風景画を思わせる情景を背景とした舞台作りは美しく、また第3幕第1場での、岸に現われて歌う歌手たちのラインの乙女たちと河で泳ぐ映像の乙女たちとの入れ替わりがごく自然で(3年前の「ラインの黄金」の時はその点まだ試行錯誤のあとが顕著だった)、ハンペ&ギールケの演出・美術そのものがこの4年間とおして、技術的な用法を含めた進化を遂げていることが窺える。またジークフリートの葬送の場面では葬列をシルエットで浮かび上がらせたが、そこに遠く離れてその葬列を追うように見守るヴォータンの姿が映し出されたのが印象的だった。ト書きに忠実といいながら、どこかで独自のアイデアをそれとなく盛り込むことのあるハンペだが、この影絵でのヴォータンの思わぬ登場は心に響くものがあった。
 プロジェクション・マッピングの効果が最大限生かされたのはやはり最終場面。ワルハラが炎に包まれて崩れ落ちる様は何とも迫真的で、映像の持つ力が最大限に生かされる一方、ライン河に戻された黄金が大きく浮かび上がって幕となる。この場面の映像効果はやはり劇場で直に観ないと体験できないものであり、その意味で今回公開が出来なかったことは残念でならない。またここでの京響の盛り上がり方もものすごく、その圧倒的な終結は4年にわたるシリーズの最後を飾るにふさわしいものがあった。特に2日目は超大作を2日にわたって弾きとおしたというオケの達成感を表わすかのように、大地を揺るがさんばかりの響きが会場全体を包み込んだのだった。

 今回の無観客上演は沼尻芸術監督が語るように「スタッフと出演者が一丸」となって実現したわけだが、いざというとき一丸となれるのはやはり日常から芸術監督、館長、スタッフの間の信頼関係が築き上げられているからだろう。今は各地にオペラが上演できる優れた機構を持つ劇場がいくつも存在するが、多くが実質上ほとんど貸館としてしか機能しておらず、びわ湖ホールのようにしっかりとしたコンセプトのもとでオペラ公演を自主製作し、高いレベルでの上演を継続しているところはない。志の高い芸術監督、理解のある館長、オペラに精通しているスタッフ陣が一体となってこそ、真に価値あるものが創り出せるという劇場の理想的なあり方をびわ湖ホールは示している。
 特にワーグナーに関しては、今回で完結した『指環』以外に、これまで「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」(さらに単独での「ワルキューレ」)を上演、来年は「ローエングリン」が予定されており、その意味でびわ湖ホールは今や日本におけるワーグナーのメッカといってよい存在だ。地方の劇場がこれだけワーグナー作品を続けて上演していること自体、まさに偉業といって過言ではない。今回の「神々の黄昏」の公演中止による損失は甚大なものだろうが、それを乗り越えて日本のオペラ界を牽引する活動を今後も続けていってほしいものである。

アンネ=ゾフィー・ムター 公開マスタークラス with サントリーホール室内楽アカデミー 2020年2月21日サントリーホール・ブルーローズ


寺西基之 / 更新日:2020年3月2日


ムターによる公開マスタークラス 彼女の音楽作りと人間性が現われ出た充実のひと時



 去る2月21日、アンネ=ゾフィー・ムターの公開マスタークラスがサントリーホールのブルーローズ(小ホール)で開催された。世界のヴァイオリン界の頂点に立つ大物アーティストのマスタークラスとあってとても興味があったのだが、そうした期待をもはるかに上回る充実した内容で、またムターの人柄も伝わってくるすばらしいひと時となった。
 受講生はサントリーホールの室内楽アカデミーのメンバー。マスタークラスといっても、一般によくあるような、受講生に演奏させて注意を与え、時々お手本を弾いてみせるといった一方通行のレッスン形態とはまったく違って、ヴィヴァルディの『四季』の「春」と「冬」を、ムターが自身ソロ・パートを受け持ちながら受講生たちと一緒にアンサンブルを作っていく中で、音楽的・技術的なアドバイスとサジェスチョンを与えていくという形である。
 このヴィヴァルディの『四季』の演奏にあたってムターは、ストーリーを表現するためのイメージの豊かさが大切であることを説く。作品がソネットの内容を描写した標題音楽なのでそれは当然といえば当然だが、例えば「春」の第1楽章の鳥の歌、第2楽章の犬の吠え声など、どのようにイメージを膨らませ、それをいかに音にしていくか、的確にアドバイスしていく。といっても決して、このようにしろと押し付けるようなことはしない。第2楽章のヴィオラの犬の声にしても、犬の吠え方は一律ではないことを述べ、弓を当てる角度、弓のスピードや量をいろいろ変えて試みることを提案、奏者自らに工夫させるといった具合だ。
 またヴィブラートにしても、バロック音楽なのでヴィブラートは控えめにすることを前提に、その中でどこでどのようにヴィブラートを用いていくのかの判断をそれぞれに考えさせていく。ヴァイオリン・ソロの歌を通奏低音だけが支えるような箇所で、通奏低音のチェロ奏者に対して、ヴァイオリンの旋律を自然に浮き立たせるためにノン・ヴィブラートで弾くことをアドバイスするなど、長年の実践経験で得たと思われるノウハウも伝授する一方、チェンバロ奏者にも即興的に音を加えてみることを提案するなど、生きた音楽表現とそれと結び付く技術的な奏法についての様々な角度からの助言は、とても示唆に富む有益なものだった。
 そうしたムターの提言に敏感に反応して、受講生たちのアンサンブルがまたたく間に豊かな表情を加えていったのが興味深かったが、わずかな時間でのそのような彼らの変化は、ムターのアドバイスが明快かつ具体的だったからであることはもちろんのこと、いわゆるマスタークラスにありがちな先生対生徒といった上から目線で教えるのでなく、受講生の自発性を重んじながら、ともに音楽の表現を探求して曲を作り上げていこうとする彼女の姿勢がもたらしたものといえよう。彼女自身、子育ての経験が演奏家としての自分をさらに成長させたことにも触れていたが、今回のマスタークラスでみせた人間的な度量の広さとそれに発する豊かな音楽表現の追求の姿勢は、そのような彼女の人生体験と結び付いたものであるに違いない。終始にこやかさを絶やさず、最後に設けられたQ&Aコーナーでも、客席から出たやや場違いな質問にも適切に答え、またヴァイオリンの顎当てについて質問した小さな子供にもその理由を丁寧に説明した上に「将来あなたの演奏を聴かせてね」と優しく応じていたのがなんとも印象的だった。
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