寺西基之の音楽日記をイッキ見

ひとりの高潔なヴァイオリニストの遺産


寺西基之 / 更新日:2019年11月29日


CD「岡山潔の軌跡」全2巻(パウ・レーベル 第1巻KIYO101-3;第2巻KIYO104-7)



 昨年秋に75歳で世を去ったヴァイオリニスト、岡山潔の演奏を集めた2巻全7枚のCD集「岡山潔の軌跡」がリリースされた。岡山潔は楽壇の関係者なら知らぬ人はいない大きな存在だが、一般の音楽ファンの間ではそれほどの知名度があるとはいえないかもしれない。ボンのベートーヴェンハレ管弦楽団や読売日響の第一コンサートマスターを歴任、その後は長らく東京藝術大学で後進の指導に尽力する一方、演奏家としては何より室内楽を活動の中心に置いていたというように、経歴がいかにも地味で、ソリストとして派手に表舞台で活躍するといったタイプではなかったので、それも無理からぬことだろう。今回の2巻の「岡山潔の軌跡」は、そうしたヴァイオリニスト岡山潔を再認識させる契機となるであろうきわめてすばらしい内容のアルバムである。
 岡山はドイツに留学し、若い時からドイツで高く評価されたということに窺えるように、ドイツ本流の伝統を受け継いだヴァイオリニストだ。アルバム全体をとおしてその演奏に貫かれている特徴をひとことで表わすならば、高潔という語が最もふさわしい。自己を前面に出すことなく、ひたすら作品に奉仕し、作品自体に語らせようとする廉直さがどの演奏にも現われている。アルバムの中では最も早く1975年にドイツで録音されたシューマンのヴァイオリン協奏曲の透徹した美しさ、2002年のライヴであるゲルハルト・ボッセ指揮の神戸市室内管弦楽団との共演によるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の崇高ともいえる純度の高さ、ともに作品の美をありのままに表現しようという姿勢から生まれた稀に見る名演である。
 前述のように岡山の活動の中心は室内楽で、奏者どうしが共感し合い、一体化して一つの世界を作り上げるアンサンブルの理想の姿を求め続けた。このアルバムも上記の協奏曲以外は室内楽で占められており、この分野での彼の優れた手腕が様々な編成の作品のうちに明らかにされている。夫人であるヴァイオリニストの服部芳子との共演によるバルトークの「44の二重奏曲」やそこにヴィオラの深井碩章が加わってのドヴォルザークやコダーイの三重奏曲における緊密なアンサンブル、小林道夫のチェンバロとピアノにしっかりと寄り添ったモーツァルトの初期ソナタで示された端正な美しさ、植田克己とのデュオによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第10番に聴く親密な対話、伊藤恵と山崎伸子とのシューマンのピアノ三重奏曲第3番の白熱したやり取り ― いずれも共演者と同心一体となりつつ、そこに感興が息づいた演奏となっている。
 その岡山が室内楽の中でも最も重要と考え、とりわけ力を入れていたのが、弦楽四重奏のジャンルだった。ドイツにいた若い時期にすでにボン弦楽四重奏団を結成していることからもこのジャンルにおける彼の思い入れが窺えるが、日本では1993年に芳子夫人らとエレオノーレ弦楽四重奏団を結成して充実した活動を展開、さらに2008年に岡山潔弦楽四重奏団として再出発し、自らのライフワークとしてきた。今回のアルバムではこの岡山潔弦楽四重奏団(メンバーは岡山夫妻、佐々木亮、河野文昭)のライヴがいくつか収録されているのはうれしい限りだ。収められているのはベートーヴェンの弦楽四重奏曲第1番と第14番、シューベルトの第15番、メンデルスゾーンの第2番、シューマンの第3番というドイツ=オーストリアのこのジャンルの王道にある作品で、どれもいかにもドイツ仕込みといえるようなオーソドックスな演奏スタイルによる重厚さのうちに、情感の揺れやうねり、叙情の濃やかな陰影を表わし出していて感動的だ。最近は弦楽四重奏の演奏のあり方も、ピリオド的な方向を含めスタイルや奏法が多様化しているが、そうした流れに与することなく、伝統の本道をしっかりと受け継ごうという強い意志が感じられる。もちろんそれはただ伝統を固守するだけということではまったくない。作品に取り組むにあたっては、第一線の音楽学者たちの協力を得て、作曲家や作品についての最新の情報を取り入れていったことが、当アルバムに収められた岡山の東京藝大退官の最終講義で語られている。伝統に寄り掛かるのではなく、それをアップデートしていく姿勢、それが演奏の持つ確かな説得力に結び付いている。
 岡山の活動はまだまだ続くはずだった。2015年には岡山潔弦楽四重奏団のベートーヴェン後期シリーズが企画され、ヨーロッパ公演も予定されていたのだが、その矢先に病に倒れてしまう。一時期は回復をみせ、演奏活動の再開も期待されただけに、その死は本当に残念でならない。今回このアルバムの密度の濃い充実した演奏に触れて、偉大な人を失った思いを新たにさせられたものである。
 一周忌にあたる今年10月1日、杉並公会堂大ホールにおいて、岡山を追悼する「岡山潔メモリアル・コンサート」が開催された。彼の門下生や私淑する音楽家たち、彼が音楽監督を務めた神戸市室内管弦楽団の団員たちによって、前半は室内楽が取り上げられ、後半は彼の薫陶を受けた山田和樹の指揮による臨時編成のオーケストラによってベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」が演奏された。企画から運営まですべて岡山を慕う有志たちの尽力で実現したもので、会場には多くの聴衆が参集、この高潔なヴァイオリニストの業績を偲ぶにふさわしいコンサートとなった。

くろださんのいるところ


寺西基之 / 更新日:2019年11月27日


音楽評論家の黒田恭一さんが世を去って10年、それを記念して開かれたコンサートを機に、音楽への愛と感謝を大切にした黒田さんの評論を振り返ってみる。



 クロキョウさんの愛称で親しまれた音楽評論家、黒田恭一さんが亡くなって10年になる。その黒田さんを偲んで「くろださんのいるところ」と銘打ったコンサートが11月19日東京・銀座の王子ホールで開かれた。黒田さんが高く評価していたハープの吉野直子、ギターの鈴木大介、チェロの長谷川陽子、ピアノの塩谷哲が黒田さんへの思いのこもった演奏を披露、会場には親交のあった多くの業界人や文化人が集まり、終演後ロビーでのレセプションで黒田さんの思い出話に花を咲かせるという、まさに黒田さんにふさわしい地味ながらもとても暖かな雰囲気のイベントとなった。
 本欄で取り上げるのは、そのコンサートの批評ではない。この催しをとおして黒田さんのことがいろいろ思い起こされ、改めて黒田さんの業績について簡単に触れてみようと思った次第である。
 コンサートの途中には長年の盟友だった広渡勲氏のお話しのコーナーが設けられた。その中で広渡氏は、黒田さんがとにかく音楽に対する愛情、感謝の気持ちを持っていたことを述べられていたが、そのとおり、黒田さんは本当に音楽への愛を何よりも大切にし、そこを原点に評論活動を行なった人だった。
 私自身が黒田さんの評論に親しむようになったはまだ10代の頃だった。当時ラジオ技術社から毎月出ていた「ステレオ芸術」という雑誌を愛読しており、その執筆者の中心のひとりが黒田さんだったのである。この雑誌はよく宇野功芳や福永陽一郎らの舌鋒鋭い評論で話題になり、それももちろん面白かったのだが、彼らとはまったく対照的な、とても柔らかな口調による黒田さんの文章が私は特に好きだった。他の執筆者たちの評論には感じられないような、ただただ純粋に音楽が好きでたまらないという思いが伝わってくるような文章におおいに共感を覚えたものである。
 そうした文体ゆえだろう、黒田さんは「とても温厚な評論で、めったに厳しいことを言うことはなかった」(ウィキペディア)というイメージで捉えられることが多い。しかしそれはまったく違う。優しい言い方の中に、問題点をぐさりと衝くような指摘が含まれていることがよくあり、全体がソフトな言葉遣いだけになおいっそうそれは響くものがあった。そしてその指摘は、まさに音楽への愛に発するものであった。
 例えば黒田さんは、評論家も含めた聴き手に対して、しばしば批判的な意見を述べている。演奏に対して、作品に対して、自分の持つ観点からのみで良否を判断することは黒田さんの最も嫌うところで、聴き手は、音楽に対して謙虚に、広い視野を持って接するべきであると力説していた。「音楽の感じ方が深まれば、それだけしなやかに音楽が楽しめるようになって、悪しき審判官的きき方からのがれられる。しかしききてはしばしば、悲しいことに、音楽をきかせてもらっている自分を忘れ、高飛車に音楽を裁こうとする」(黒田恭一「クラシックのおすすめ」音楽之友社)という一文などは、特に同僚である評論家や批評家へ向けての厳しいメッセージであろう。黒田さんとゆっくりお話しをさせていただく機会も多かったが、評論家にもファンにも一面的な批評をする人が多いのは音楽に対する愛や謙虚さに欠けているからだとこぼすことがしばしばだった。「ちょっと別な見方をすれば別のすてきな世界がまた広がっていく。音楽を本当に好きならばそうした見方ができるはずなのに」という言葉は今も印象に残っている。
 もちろんそれは決してどんな演奏でも認めるということでも、演奏に対して甘く接するということでもない。黒田さんは演奏家に対してもやはり、音楽への愛を持っているかどうかを最も重視していた。単に自己の技巧をみせびらかすために弾いているような演奏家、作品への共感を欠いた機械的な演奏、十分な準備をしていないようないい加減な演奏などに対しては特に厳しかった。「演奏者の安易な受けねらいは、演奏者みずからを貶めるだけではなく、聴衆の向上心に水をかけることにしか役立たないことを、演奏者も、それを享受する聴衆も知るべきだろう。…演奏者は聴衆を舐めたらいけない。聴衆は演奏者を甘やかしたらいけない。慣れあいの間柄では一気に音楽の品位が失われる」(産経新聞社「モーストリー・クラシック」2008年10月号)。音楽の品位を大切にすること、その姿勢のみられない演奏は音楽を衰退させるだけと述べていた。
 このように音楽を愛しその品位を尊重すること、そのことは、クラシック音楽の裾野を広げようとする近年の安易な様々な動きに対する警鐘にもつながっていく。たしかに黒田さんはクラシック音楽の底辺を広げる啓蒙的な評論家として知られてきたし、それは事実だろう。しかしそれはただやみくもに音楽を大衆化するということではない。ここでもやはり黒田さんにとって大切なのは音楽への愛情、芸術を尊重する姿勢であり、その前提なしに音楽の本質とは関係のないところでただ聴衆を増やそうという近年の動きをとても憂慮していた。「主催者が集客に熱心になりすぎると、彼らがマントに隠しておくべきソロバンが見え隠れしてしまい、その結果、主催者は芸術の仲立ちとしての立場を失い、興行師に変身する」(「モーストリー・クラシック」2007年9月号)といったコンサートの主催者に対する言葉はその現われだ。クラシック・ファンを増やすべく演奏家が聴衆に親近感を持ってもらおうと演奏会の合間にトークを挟むようになった風潮に対しても、「音楽には関係ないこと」と切り捨て、「電気のお世話にならないで演奏可能な音楽を奏でている音楽家たちは、安易にマイクロフォンに手を伸ばすべきではない。あんなに熱心にリハーサルをして、あんなに集中して奏でた演奏の微妙な味わいが、拡声した声を会場内にとどろかせることによって、ききてに伝わりにくくなるということに、演奏家であれば、きづくべきである」(「モーストリー・クラシック」2007年4月号)と厳しかった。
 残念ながら今日の音楽界の状況は、一方で自分の視点で評価できるもの以外は認めないという偏狭な聴き方が依然として(むしろネットという媒体が普及したことで以前にも増して、といえるかもしれない)広くみられるとともに、他方ではやたらクラシックの裾野拡大と称して安易に音楽を扱い、ただ消費するといった傾向がさらに加速しているようだ。没後10年の今回のコンサートに臨席しながら、穏やかな優しい口調のうちに音楽への深い愛ゆえの厳しい意見を語っていた黒田さんの声が私の心のうちに蘇ってきて、そうした今だからこそ改めて黒田さんの言葉に耳を傾け、その意味の重さに思いをいたすことが必要であることを痛感した。黒田さんは過去の人ではない。その教えは今日ますます切実な問題としてわれわれに迫ってくる。
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