マーラー演奏に求めるもの

マーラー演奏に求めるもの

アラン・ギルバート指揮都響《交響曲第6番》(12月14日@サントリーホール)を聴いた後、改めてケント・ナガノ指揮ハンブルク・フィル《交響曲第5番》(10月31日@サントリーホール)の類まれな解釈を思い出す。
  • 前島秀国
    2019.12.14
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先程、アラン・ギルバート指揮都響のマーラー《交響曲第6番》をサントリーホールで聴いてきた。中間楽章はアンダンテ、スケルツォの順。ハンマーの打撃は3回。マーラー自身は、この組み合わせで指揮したことはないはずなので、ギルバート独自の折衷版である。大変な熱演、力演だったと思うが、そもそも土曜日の午後2時に聴く曲ではないし、彼は楽譜の裏を読み取っていくタイプの指揮者でもない。そのため、個人的には今日のような体育会系の演奏に心から共感することは出来なかった。飽くまでも個々の趣味に属する問題なので、決して悪い演奏だったと言っているわけではない。僕自身のこの曲の物差しは、シノーポリ指揮フィルハーモニア管のDG録音とサロネン指揮フィルハーモニア管の2017年6月の実演(オペラシティ)なので、それらと比較すると納得がいかなかったというだけの話だ。

仕事上、マーラーばかり聴いているわけではないから、僕が「今年のマーラー演奏のベスト」を選んでもあんまり意味がない。それを承知の上で、敢えて今日書き留めておきたいのは、今年最もぶったまげたマーラー演奏、すなわち10月31日に同じホールで聴いたケント・ナガノ指揮ハンブルク・フィルの《交響曲第5番》である(本当はこの「音楽日記」の第1回で書くつもりだったが、本番から少々時間が経ってしまったので、つい書きそびれてしまった)。

普通の指揮者がマラ5を振ると、ソナタ形式の流れに従い、第1楽章の葬送行進曲から音楽を構築していく。ところが、彼はなんと第4楽章の「アダージェット」を全曲の中心と考え、そこから全曲を組み立てていた。そのため、演奏は全曲を通じてほとんど怒鳴らない。最後の第5楽章も“運動会”にならない。だからこそ、第1楽章の「葬送行進曲」が本当に痛ましい音楽として響いてくる。そもそも、楽譜に「葬送行進曲」って書いてあるんだから、元気に演奏するほうがおかしい。悲しければ、威勢のいい音楽なんて絶対に出来ない。その考え方で、ケントはほぼ全曲を通してしまう。その結果、テンポも異様に遅くなり、全曲でなんと85分という大演奏になってしまった。CDに録音したら2枚組になるマラ5なんて、たぶん他には存在しないのではないか。
では、なぜ彼は「アダージェット」を全曲の中心に位置づけて演奏したのだろう? 本人に直接訊ねたわけではないので飽くまでも推測だが(次のN響での来日時にまたインタビューやろうとは言ってくれた)、ケントは「アダージェット」を、後期マーラーのアダージョ楽章に共通する「彼岸の響き」を予告する音楽として、指揮していたのである。こんな解釈が可能なんて、今まで夢にも思わなかった。

マーラーの演奏にはいろんなタイプがあるけれど、僕自身は、単に楽譜に書かれた音符を正確に再現するのではなく、その裏に隠されたものを抉り出し、何らかの啓示を与えてくれる演奏が聴きたい。そういう意味で、ケントのマラ5は今年一番の大収穫だった。
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