不在は非在ではないということ。-ジョナサン・ノットと東京交響楽団の夏

不在は非在ではないということ。-ジョナサン・ノットと東京交響楽団の夏

《フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020》東京交響楽団オープニングコンサート 指揮(ベートーヴェンのみ、録画映像による出演):ジョナサン・ノット 三澤慶:「音楽のまちのファンファーレ」、ストラヴィンスキー:ハ調の交響曲、ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調op.55 「英雄」(2020年7月23日、ミューザ川崎シンフォニーホール)
  • 青澤隆明
    2020.08.24
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 《フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020》のオープニング、中盤、フィナーレを担うのが、ミューザ川崎を本拠とするホスト・オーケストラ、東京交響楽団である。フィナーレでは来年4月の正指揮者就任が発表されたばかりの原田慶太楼が14型まで規模を広げた編成を指揮、フェスタ中盤にはベートーヴェン・チクルスの核となる第5番と第6番を桂冠指揮者の秋山和慶が指揮するという、新旧の「慶」ばしい連繋をかたちづくった。そしてオープニングはといえば、音楽監督ジョナサン・ノットが異例なかたちで強い存在感を示した。

 コンサートの前半を指揮者なしで演奏、後半にはふだんとは異なるありかたで指揮者を参画させ、ベートーヴェンの大曲「英雄交響曲」に取り組んでみせた。こうして、ノットと東響によるオープニング公演は、フェスタのなかでも最大のディスタンシングを超えて、指揮者とオーケストラとの密接な関係を逆説的に鮮やかに明かすものになった。弦の編成は8-8-6-4-3、譜面台はプルト1本で、管楽器以外はマスク着用という出で立ちだ。

 まず、ストラヴィンスキーの「ハ調の交響曲」を、指揮者なしで演奏する取り組みからして、そうとうに意欲的だ。コンサートマスターのグレブ・ニキティンの弾き振りに近いかたちで、奏者どうしが存分に聴き合うことから、アンサンブルをバランスよくまとめていった。しかも通常のように密集した配置をとれないことを思えば大健闘である。全体の流れをつくり出すことが第一に優先されるため、細部の精彩やリズムの鋭敏さなどは抑えられ、全曲を通じて撫で肩気味になってしまうことはやむなしか。これに先立つ冒頭には、金管楽器と打楽器陣により、フェスタのオープニングに恒例の三澤慶「音楽のまちのファンファーレ」が演奏された。

 さて後半、ベートーヴェンの「英雄交響曲」では、ジョナサン・ノットがなんと録画映像で登場。同様の取り組みは、線だってドヴォルジャークの第8番でも試みていたが、ぼくが目撃するのは今回がはじめて。オーケストラに向いて3面のヴィデオ・モニターが設置され、そこにノットが別所で事前に収録した指揮映像を映し、これに沿って生演奏を展開していくという、なんともユニークな挑戦である。苦肉の策ともみられるオータナティヴな試みだが、通常時と比べてどうというよりも、その実験自体に興味というか、ある種のエンターテインメント性を見出すのが聴き手としてふさわしい姿勢だろう。

 映像による指揮ときけば、リアルタイム同期で演奏を進行し、随時相互のコミュニケーションをとっていくことが譲れない要件だ、とまずは思える。それだって、実際の音を指揮台で聴くわけでもなく、肌で感じとれるわけでもない。読みとる側のオーケストラにしても、指揮者の息づかいや気配、微細な動作は直接には感じとれない。現場というのはどこまでも一体の現場であり、もしその現場が分離しているならば、また別の方法論を考えなければいけない、というのがほんとうのところだ。
 
 ある固有の場に、指揮者がいて、オーケストラが演奏し、それを客席で聴く、というのがオーケストラ・コンサートの成立要件である。そのために書かれた作品を前提に、これとは異なる方法論を起ち上げて、平時を凌駕する成果を導く、というのは、どうしたって困難を極める課題だろう。演奏の質を従来どおりに実現しようとするかぎりは、まずは二番煎じのように薄まった効果しか生み出し得ない、と容易に推察される。次善策は次善策に留まるだけだろう。
 
 しかも、そうしたシンクロニシティが技術上実現できないとなれば、ふつうはこの試みを放棄したくなる、というより、せざるを得ない、というのが、おおかたの判断だろうと思う。事前に録画した映像、しかも直前のリハーサルや本番の映像でもない指揮姿を前に演奏するなんて、それこそ常軌を逸した蛮行だとみられてもおかしくない。

 しかし、東響はあきらめなかった。渡航が制限されてもなお、音楽監督とともにオープニングに登場することを最重要に考えたに違いない。指揮者ができると言い、オーケストラがやれると言えば、果敢にそれに取り組んでみる、というような勇敢さがそこにはあったのではないか。聴き手としても、ノットだから、東響とだからこそ、強く興味をそそられるのだろう。

 さて、その「英雄」の立ち姿はどうだったか。コンサート・マスターのグレブ・ニキティンを中心に、楽団員がノットの演奏解釈を理解したうえで、自分たちが責任もてる演奏をする、というオーケストラの意志の力が大きく熱を放った。カラオケの逆転ではなく、指揮者の解釈を理解し、その方向性と表現をふまえて、このコンビならではの演奏をする、という覚悟がオーケストラにあってこそだ。リハーサルの演奏などを通じて、相互のやりとりも交わされたのではないか。細部の即妙さやバランスの精度が欠けてしまうのはやむを得ないとして、ノットの目指すベートーヴェンの「英雄交響曲」を大局として起ち上がらせることができる、と彼らは確かに判断し、その責務をまっとうしたということになるだろう。

 全体の響きのバランスや変化に関しては、指揮者の総合的な判断と導きがやはり必要だとはいえ、同時性のなかでの鋭敏な呼応ではなくとも、時差を超えた相互理解というものが演奏の前提にあり、それこそがまず作品解釈の核となるということを、彼らは堂々と示していた。とはいえ、その領分を超える演奏の迫真を求めるべく、オーケストラが攻めに出られたかというと、そこは指揮者の解釈をふまえてまとめるだけで今回は精いっぱいだったろう。しかもノットは鋭敏に細かく振るうえに、目の前に出てくるのは当意即妙の呼応ではなく、予め固定された映像なのである。
 
 さきほど敢えてエンターテインメントという言葉をつかったが、客席に向けてもヴィデオ・モニターが置かれていて、またべつの興味に訴えかけてもくる。ふだん目にする背中越しの動きとは左右逆だから、最初は観ていて戸惑うし、ここだけ反転映像にしてもよかったかとも思ったが、それはそれでなにかが変に感じられる気もする。いずれにしても、これはメインの音楽要素ではない。ノットの指揮ぶりを正面でみて、演奏を重ねて追うという、映像ならではのもうひとつの愉しみというところだ。オーケストラの指揮がどういうものかを、実験的に示すような側面もあった。

 不在でもなく、現前でもない、という不思議な位相から、ジョナサン・ノットという指揮者の存在感が、いなくてもいる、やはりここにはいない、という両方面で強調されるかたちとなった。全体としての高揚が熱く築かれるときは、両者の一体感がそれをカヴァーしてくる。ともかくも制約のなかで、できるかぎりのことをやってみせたということ、しかもかなりのリスクを負った冒険が、こうした状況下で野心的に試みられ、それがひとまずコンサートとしての体を成したことは、やはり大きいのではないか。そこにはまず、不在や距離を通じても浮かび上がる、東響とノットの強い理解と信頼があった。
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