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制限されたなかでの多様性 - フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020を聴いて(2)

制限されたなかでの多様性 - フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020を聴いて(2)

《フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020》の話のつづき、制限されたなかでの多様性。さまざまな実践のありよう。
  • 青澤隆明
    2020.08.22
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 距離と密度は、どのような物事に関しても大きな要件となってくる。オーケストラのコンサート、というスタイルにおいては、遠距離と高密度は両立が難しいものだが、そのなかでもさまざまなチャレンジがあり、もしかしたらアンサンブルは過酷な条件において磨かれた、と将来的にはみられるのではないか、という楽観性もまだみんな手離してはいない。

 《フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020》の話のつづきである。ディスタンシング、ということひとつとっても、オーケストラごとにさまざまな様相を呈していた。演奏側の条件の話になってくるので、客席から眺めただけではわからないことも多いだろう。マスクを着用して距離を詰める、着用せずにぎりぎり開ける、楽団として統一的に着用する、個人の判断に任せる、協奏曲のときだけ前列の奏者は着用する、などといったことからしてもオーケストラごとに判断が異なっていた。

 一律に横並びでないところは、統一見解の見出しにくい状況の反映であるという理由だけではないだろう。各自に実践可能な形態を模索しているという自主性が、結果としてさまざまな形態をとったわけで、むしろそのこと自体、同じ首都圏を拠点として、同じホールで演奏するなかでも、それぞれのオーケストラが顕わした多様性の証でもあった。

 ぼくがこのフェスタで聴いたオーケストラのなかでも、またそれ以外のコンサートを含めても、もっともディスタンシングに慎重だったのはやはりN響で、あらゆる意味での徹底した範を社会全体に示す責任を負う意識があったのではと想像される。
 
 奏者の間隔だけをいえば、読響がその次くらいで、アンサンブル能力の高さをこちらも逆説的に示した。しかも、下野竜也が指揮する読響らしく、この機にもおそらく間隔をあける必要上とはべつに、弦楽器を舞台下手、管楽器を上手に固めるというアイディアを実践して、それこそふだんのコンサートとは異なる響きの位相を探ってみせた。

 新日本フィルは、間隔はもう少し近かったか、譜面台は奏者ごとで、弦の奏者全員がマスク着用で臨んでいた。ばらばらよりはずっとスタイリッシュで、それだけに一律装備のイメージが強まる。いっぽう隣の区を本拠とするがこれと対照的に、いちばん従来のスタイルに近かったのは東京シティ・フィルで、12型でもプルトごとの譜面台で、マスク着用もなし。飯森泰次郎とのワーグナーとブルックナーという、泰然としたプログラムで登板していたことも象徴的だった。

 そして、もっとも異例なディスタンシングを敢行したのは、ミューザが本拠のいわばホスト・オーケストラたる東響。指揮者の不在と映像というかたちをとった。前半は指揮者なしで、後半はヴィデオ・モニターに音楽監督のジョナサン・ノットの別所で事前収録された指揮映像を映しつつ生演奏を展開していくという、ユニークな取り組みを鮮やかに聴かせた。

 神奈川フィルはピアノ・コンチェルトの日を聴いたが、新日本フィルに近い間隔で、マスクはつけない。といっても、今回1階、2階、3階とさまざまな席に座ったのと、演奏を聴くとき、奏者の間隔やマスクに強く着目していたわけでもないので、あるいは主観的なずれもあるかもしれない。どのオーケストラのコンサートでも変わらないのは、舞台上はさておき、客席が距離をおいて使用されていたことと、聴衆が例外なくマスクを着用していたことだ。などと、状況面ことから記していたら、思いがけず長くなってしまった。それぞれのオーケストラの演奏については、追って記していこうと思う。

 大小さまざまの状況を招くのも人間ならば、それを切り抜けられるかどうかもまた人間の仕事しだいである。まずは場のなかでよりよく生きるのが社会的生物としての人間の営みであるからだ。そこから先をどう拓いていくかについては、試行と模索を続けつつ、しかしこの夏に急げる議論でもないだろう。まずは、こうして大きな機会を提供し、音楽祭を実現させた主催のホールの意志と運営の力量にいまいちど敬意を表したい。
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