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ムードでなくモード、それよりもコード。-ヴィキングル・オラフソンのこと(2)

ムードでなくモード、それよりもコード。-ヴィキングル・オラフソンのこと(2)

ラモー、ドビュッシー、ムソルグスキー。ヴィキングル・オラフソンの視座は、それをひとつの有機的な流れのなかに見通しつつ、相互に交通するようなプログラムにまとめ上げた(2019年12月4日、紀尾井ホール)。 昨夜のリサイタルを聴いて感じたことをざっとここに書きましたが、これから各地のコンサートを聴かれる方はまず、ご自身の耳で体験していただくのがいちばんです。けっこうびっくりする、と思いますよ。
  • 青澤隆明
    2019.12.05
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 アイスランドから颯爽と登場した音楽家、ヴィキングル・オラフソン。そして、達者なピアニストでもある、という言いかたがよいように思う。編集的な知能がすこぶる高いうえに、自身がすぐれた鍵盤楽器プレイヤーである。音楽的な頭脳と演奏の身体が一致している。

 フィリップ・グラスのCDでまず世界的な注目を集めたヴィキングルだが、ぼくが彼のピアノを最初に聴いたのはメンデルスゾーン。2018年6月、アシュケナージが指揮するN響定期で、庄司紗矢香とともにしっかりと聴かせた、天才の若書きのニ短調協奏曲だった。たしか「ヴィキンガー・オラフソン」と表記されてあった。
 それから、同じ年の10月2日に、バッハとベートーヴェンのリサイタルを聴いた。同じ紀尾井ホールで、昨晩12月4日、ヴィキングルがこんどは、ラモー-ドビュッシー-ムソルグスキーを連繋する一大音絵巻を、モダン・ピアノの演奏で綿密に展開してみせた。ヴィキングル・オラフソンのことはたぶんまたどこかで書くことになるだろうから、ここでは昨夜のリサイタルのことを少しだけ。

 ラモーとドビュッシーの作品が組み合わされても、とくに驚きはしないが、ヴィキングルのプログラムは舞曲的な性格が強い作品を織りなしつつ、ひとつの大きな繋がりと流れのなかにまとめる。時間にして50分ほどにもなったが、いったんドビッュシーに入って和声やリズムの感覚が拡がると、それは続くラモーの演奏にも共鳴していった。
 そうして、ラモーとドビュッシーが曲によって相互に高揚と鎮静を運んでくるような、不思議な流れの混ざり合いのなかから、あまりにも自然なかたちで、プログラムとしては事前に発表されていなかった「雪の上の足跡」までも現われてくる。ドビュッシーの音楽的な創意、というか知性のもちようは、ヴィキングルの造型観に相応しいものではないかと、ぼくは思った。

 では、後半でドビュッシーとムソルグスキーを連続させるのは? こちらはさらにいろいろと想像や考えを掻き立てられるが、それがどうして、いったん前奏曲集の「ヒースの茂る荒れ地」がヴィキングルの手で弾きはじめられると、これが『展覧会の絵』へのプレリュードであることが、聴き手にもわかる。もう瞬時に、そのように知らされるのである。

 ヴィキングル・オラフソンのプログラムと彼自身による演奏では、ラモーもドビュッシーも、おそらくはムソルグスキーも、同じ定位を、同じく緊密な音響空間のなかに保っている。そして、すべてはムードではなくモード、もっと言えばコードによって構成される。
 言い換えれば、ヴィキングルのフレームワークは、構築上も生演奏の表現上も、はっきりと空間を定義している。これがレコーディングになれば、もっと音像と響きが変容するのだろうが、この日アンコールで聴かせたバッハにはそうしたリンクがもっとも密接に、だからこそ魅力的に感じられた。

 誰もが知っている、いや、そう思い込んでいる曲を、新しい視界のもとに、くっきりと知覚させる。そうでなければ、自分がピアノを弾く意味はないと、ヴィキングルははっきりと考えているに違いない。そのことが聴いていて、とくに力まずとも、当たりまえのように伝わってくる。それも、ありきたりのかたちではなく、パズルを解くような愉しみとともに。
 というよりも、ラモー、ドビュッシー、ムソルグスキーを、彼というボックスのなかに入れたら、こういう演算で組み上げられて、響き出してくるわけだ、といった感覚に近いものを、ぼくは聴き手として受けとった。
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