青澤隆明の音楽日記をイッキ見

サティのかたちをしたなきものの所以 --椎名亮輔著『梨の形をした30の言葉』を読んで(前)


青澤隆明 / 更新日:2022年8月3日


本の話。椎名亮輔著『梨の形をした30の言葉 エリック・サティ箴言集』(アルテスパブリッシング, 2022)を読んで



 「人間を知れば知るほど、犬が好きになる。」
 
 椎名亮輔がまとめたエリック・サティ箴言集の5番目に出てくる言葉だ。『梨の形をした30の言葉』と題されたこの本は今年、サティの誕生日をわずかに過ぎた頃に出て、ぼくもすぐに読んだ。あっという間に読んでしまいそうになって、少しゆっくりと歩くことにしたのだけれど、それでもすぐにおしまいまで行っちゃった。「ゆっくりと、苦しみをもって。」と、帯の背に記されているとおりに行きかったのだが、そうは問屋が卸さなかった。それだけ、面白かったのだ。

 詩的とも言えるし、皮肉とも嘲笑とも、だからこそ余計に真面目ともとれるサティのお言葉の数々を、学者的な調べとともに、愉快に紐解いていく本。サティ氏の発言の真意がだいたいわかったような気になったところで、それでもどこかひょいと身を交わされているような感覚がどこか残って、それがなにやら心地よい。本家もそうだし、さまざまに引用される諸氏の言葉も、著者によっていきいきと訳されていて親近感がもてるのもいい。

 エリック・サティに関する本は、若い頃好きで何冊も読んでいた。本書の成立とも関わりが深いオルネラ・ヴォルタの著書もあったな。だけど、新しい本はひさしぶりに読んだ。みんなサティには斜めから入るのが礼儀とでもいうのか、彼の前では自ずと気どってみせるのだろうが、この本もたしかに気は利いている。入り口は、というか体裁はそうなのだが、門をくくれば、あくまでも現在の目で彼の実像を正視していこうとする試みだ。

 30の言葉とその周辺から、とらえどころなく振る舞う人物を探索していく。選ばれた言葉はだから、これだけのピースがあればジグゾーパズルができそうな感じで、いろいろな角度から選ばれている。出典も性格も、長短もさまざま。だから、ジグゾーと言っておいてなんだけれど、平面ではなく、その像が立体的に立ち上がってくる。

 ところがところが、当時のモンマルトル界隈では「サティなどは普通の人間だったかもしれない、というかそうだっただろう」なんて、さらりと言ったりもするんだ。そこにかぎらず一冊を通じて、芸術家たちの相互の交友からみえてくるものが大きい。というか、奇才たちの出会いで織りなされた時代のにおいが薫ってきて、パリがまた恋しくなる。サティがいても、いなくても。

エベーヌ四重奏団 “play JAZZ”


青澤隆明 / 更新日:2022年8月2日


クァルテットの饗宴2022 エベーヌ弦楽四重奏団 (2022年6月17日 紀尾井ホール)を聴いて(3)



 エベーヌ四重奏団を、ぼくはずっと当代屈指のバンドのひとつとみてきた。ジャズやロックのナンバーを演奏するときも、激しさはあっても粗さはなく、それはたぶん現メンバーになってさらに徹底してきたのかもしれない。そのように優美さのうちに収斂したなかでも、十分に過激さや多様性は表出し得る、ということを彼らは示すのである。

 紀尾井ホールでの《CLASSIC + JAZZ》のプログラム後半。この《JAZZ》のセレクションでは、より現代に近づくが、ショスタコーヴィチでエレガンスを体現したエベーヌ四重奏団が、ここでジャズのパッションや抵抗、ワイルドさを巧みに手なずけていることは明らかだ。《CLASSIC》で聴かせた緊密なユニットが、多様な語法をもって、さらに開かれ、拡張された自由の感覚がある。つまりは20世紀アメリカの旅だ。

 しかし、やはりフランスのジャズの、シルクな洗練が加わっている。それと同時に、4人の性格や役割が、さらにくっきりと前に出てくるのも愉しい。弦楽四重奏だがここではドラムやベースも効果的に演奏することが肝要だから、当然のことだ。抜群の一体感と呼吸はそのままに、個々のプレイヤーの顔もまた、より率直に押し出されてくる。

 セットが始まると、たちまちに鳴り渡ったのはあのトゥーツの、たまらなく優しいハーモニカの響き。曲はトゥーツ・シールマンスの「ブルーゼット」だが、エベーヌの弦の響きもやわらかく泡立っていて、ぐっとくる。他にはちょっとグラッペリくらいしか思い出せないくらいの優美さなのだ。

 チャーリー・ミンガス、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、ウェイン・ショーターなどバップの鉄人たちがひしめくなか、ケニー・カークランドの美しいバラード「ディエンダ」、ピー・ウィー・エリスのゴキゲンな「チキン」を織りなし、しめはアストル・ピアソラの「リベルタンゴ」でラテンに着火。クールに差し挟まれるMCも気が利いていて、ラウンジの雰囲気がいい感じに出ている。アレンジも彼ら自身が手がけているが、うち3篇は新編曲で、このステージで初披露とのこと。アンコールに、エデン・アーベの「ネイチャー・ボーイ」。

 どのチューンでも、エレガンスと余裕を備えつつ、4人のキャラクターや資質が楽しく絡み合う様子がまざまざと伝わってきた。顔を見合って、くすくす微笑んでいるようなところもいい。つまりは、アンサンブルと対話の喜びだ。なによりも、知的な興味だけではなく、ひとつひとつの曲が好きで、いっしょに育ってきたような心がある。それが、同時代の人間にはうれしい。

エベーヌ四重奏団の “CLASSIC” ――モーツァルトとショスタコーヴィチ


青澤隆明 / 更新日:2022年8月2日


クァルテットの饗宴2022 エベーヌ弦楽四重奏団 (2022年6月17日 紀尾井ホール)を聴いて(2)



 エベーヌ四重奏団の話のつづき。彼らの進境は追ってきたつもりだし、日本の聴衆としてはヴィオラのマリー・シレムが正式にメンバーに迎えられるまさに前夜のコンサートを聴いていたのだから、いまさらそれほど驚くことはないはずなのだが、それでもやはりびっくりした。

 ショスタコーヴィチの第8番が鮮烈だったことを先に書いたが、もちろんそれだけではなかった。2022年6月17日、前半のクラシック・パート。モーツァルトのト長調K.387は1782年のいわゆる「ハイドン・セット」幕開けの曲で、「春」のニックネームで親しまれてきた。エベーヌ四重奏団の演奏も、ここではぐっと古典的な明朗さをもち、きりっとして外向的にも簡明だ。「合わせる」のでも「合ってしまう」のでもなく、自由な息を全体で交わしながら、一体となって歩んでいく感興が熱い。

 いっぽうで1960年のショスタコーヴィチは危機に直面し、体制や戦争に脅かされている。そのなかで書かれた弦楽四重奏曲第8番ハ短調 op.110だが、エベーヌらの演奏は表現が激する段でも優美な音づかいをとり、全体に精細な響きの醸成を保っていった。多様な表現を導きながら、全体としてしなやかに柔軟で、クラシカルな均整が保たれている。要するにバランスよく、どこまでも明晰なのである。内声の充実が巧みに利いている。

 そうして、エベーヌ四重奏団はフランス現代のクァルテットとしての身上を明瞭に示すだけではなく、いわば古典的な均整を大事にして、作品の芯にある内情を歌い上げていく。ショスタコーヴィチはだから、余計に内面的になる。怒りはすでに諦観であり、悲嘆は憂愁でもある。しかし、人間を傷つけまいとする繊細さが、多様な表現に揺れながら、アンサンブルの芯に堅く、だからこそ柔軟に抱かれている。

 そのようにみると、明朗さと不穏さという情感、率直さと屈折、外交的な明るさと内向的な昏さといった心理のコントラストだけでもなく、モーツァルトのト長調作の古典的な明快さ、そこから放たれる直截を、ショスタコーヴィチのハ短調作の技量的な器用さと組み合わせたのは効果的だった。

 二世紀もの開きと大胆なコントラストを宿した両曲に臨み、彼らは理知的な統制を通じ、ヨーロッパ的な造形意識を一貫させた。フレキシブルということは、合奏や表現の能力だけでなく、視座が安定していなければできないことだ。エベーヌ四重奏団の4声の均衡はいま、十分な成熟と熱気のもとで、その美観を活かし、闊達に語りかけてくる。
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