青澤隆明の音楽日記をイッキ見

エベーヌ四重奏団のショスタコーヴィチ8(青澤隆明)


青澤隆明 / 更新日:2022年7月31日


クァルテットの饗宴2022 エベーヌ弦楽四重奏団 (2022年6月17日 紀尾井ホール)を聴いて



 クラウス・マケラのことを先に記しながら、とにかく音の鳴りや精細な表現力が尋常でない、という意味であわせて思い出していたのが、エベーヌ四重奏団のことだった。それがショスタコーヴィチだったのもあるだろう。もちろん交響曲の指揮と弦楽四重奏をいっしょくたにはできないが、それでも新しい時代に入っていると感じさせたことは確か。マケラに先立つ6月半ばに来日し、エベーヌ四重奏団は驚きのアンサンブルを聴かせた。いまこの4人のアンサンブルは絶好調、ひとつのピークに達しているのではないか。

 ぼくが聴いたのは紀尾井ホールでの2日目、6月17日の≪CLASSIC+JAZZプログラム≫。前半のクラシック・パートはモーツァルトのト長調K.387とショスタコーヴィチの第8番ハ短調op.110の組み合わせで、いずれも彼らがこの夏のヴェルビエ音楽祭で演奏するレパートリーとなった。

 これほど美しいショスタコーヴィチ、優しく気づかいに充ちたショスタコーヴィチを耳にするとは。そして、それが優美なまでの流麗さで有機的に語られるのは稀なことだろう。モーツァルトの明朗快活なト長調曲と組み合わせたのも巧かったが、ソヴィエト時代の産物という意味に留めるのではなく、彼らはこのハ短調作品にもっと普遍的な西欧音楽の美を見出しているのだ。

 エベーヌ四重奏団が弾くショスタコーヴィチには、ドビュッシーやラヴェルで耳にするような響きの優美さや柔らかな昏さも聞こえる。ラルゴが支配的な曲調のなかで、全体を通じてのほの暗い緊張が、微細なバランスのうえで根強く保たれていく。どこまで激しても音が荒れることはなく、汚い音や粗暴な音は採らない。それを本作の表現として許容しないのか、そうはなり得ない彼らの美学がどんな作品に臨もうとも終始徹底しているのか。たぶんその両方だ。

 ソヴィエトという体制や戦争の圧力は外圧というよりもむしろ、作曲家個人の不穏さのうちにとうに内面化されている。だが、これほどエレガントに響き出しても、それでも最後までこの曲とともに根気づよく生き抜いていくのに変わりはない。それは圧しかかる苦悩を超えてなおも美しい生の体験でもあるのだ、ということをエベーヌ四重奏団は綿密に証していった。

クラウス・マケラ、都響とのショスタコーヴィチ7(青澤隆明)


青澤隆明 / 更新日:2022年7月28日


クラウス・マケラ指揮 東京都交響楽団(2022年6月26日、サントリーホール) サウリ・ジノヴィエフ:バッテリア(日本初演)、ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 ハ長調 op.60《レニングラード》



 コンサートを聴けば聴くほど、驚くことも増えるはずだが、その分驚きにくくなってくることもある。
 しかし、そんなこととは関係なく、霧が晴れるような思いをすることもある。クラウス・マケラの話である。この初夏、4年ぶりに東京都交響楽団を指揮しての、ショスタコーヴィチの交響曲第7番を聴いたときのことだ。

 演奏が始まったとたん、目を見張るほどの解像度で、鮮明な響きが立ちあがる。オーケストラが細胞レベルに目覚めている、としか言いようがない。この素晴らしく明敏な覚醒感は、指揮者天性のものだろう。
 場面場面を開放的に描き出していく手腕の鮮やかさは、クラウス・マケラがこの曲を手の内に収めていることの証だろうが、驚くほどストレートで闊達で、そこにアイロニーのにおいなどはない。しなやかな優美さを伴って、フランス近代を髣髴とさせそうな響きだ。

 ショスタコーヴィチの第7番と言えば、とかく多様な含みや思念を宿してきた作品だろう。クラウス・マケラはしかし伝聞や憶測ではなく、テクストをまっさらにみつめたときに、どんなことが起きているのか、ということを鮮やかに形象化していった。しかも、驚異の解像度である。それゆえ、美麗ともいえる明朗さが全体に優勢になるし、逆に不協和音の純度の高さなどは、頭での意味の理解よりも速く、瞬時に生理的な嫌悪感を引き起こす。

 クラウス・マケラが誰かの含意よりも自らの率直さを身上に導く、瑞々しく伸びやかな響きは、音響体として見事なものだし、活発で闊達な生命感に溢れている。東京都交響楽団が快く、開かれて鳴りきっている様子がまた、指揮者に寄せる期待や信望、そしてなにより演奏の喜びを直に熱く伝えてくる。

 これに先立ったのは、クラウス・マケラと同じくフィンランドの新鋭サウリ・ジノヴィエフの2016年作「バッテリア」の日本初演。これもまた鮮やかな造形だったが、今回が日本初演でもあり、知っているつもりのものが、異なる顔で出てくるときの驚きとは違う。

 20代半ばにして世界を席巻するクラウス・マケラは、この夏のヴェルビエ音楽祭でも大いに活躍しているさなかだ。コンサートの模様はmedici.tv JAPANでもライヴ配信されるし、その音像もクリアなものであるに違いない。しかし、全身を包むように直接感覚に訴えてくるのはやはりライヴならではの興奮だ。この秋、新しい音楽監督としてパリ管弦楽団を率いての来日が、いまから待ち遠しくてならない。

今晩すべてのオルガンが――


青澤隆明 / 更新日:2022年6月1日


ライナー・クンツェ『素晴らしい歳月』のこと。



オルガン、と言えば、ぼくには宮澤賢治の「光でできたパイプオルガン」のイメージがいちばんいっぱいに広がるのだけれど、先だって東ドイツの詩人ライナー・クンツェの『素晴らしい歳月』(大島かおり訳、晶文社1982年刊)という本をめくっていたら、ここには地上のオルガンがいっせいに鳴り響く情景が夢想されていた。不意打ちされたようで、なんだかじーんと感動した。チェコ詩の翻訳でも知られたクンツェは、1968年の「チェコスロヴァキアの春」がきっかけで、1977年には西ドイツに亡命を余儀なくされた詩人。何百人もの若者と数年にわたり対話した末にまとめたという本書は亡命の前年、1976年に西ドイツで出版された。それは「オルガン演奏会(トッカータとフーガ)」という詩で、ローベルト・シューマンからの引用も含むものだが、圧巻なのはやはりコーダに降るこんなコーラスだ。少し長くなるが、そのまま引用する。そして、水曜の晩に、その音をつよく想像してみる。

*

                         すべてのオルガンが――
             東の、南の、北の、西のオルガン、ドレースデン十字架教会の六
             一一一本の鳴りひびくパイプ、フライベルクのヒンメルスフュル
             ト洞窟の祈禱室小オルガン、バッハが試奏したホーンシュタイ
             ンのオルガン、単純に「われらのオルガン」と呼ばれるキルヒド
             ルフのオルガン――
それらすべてが突如として鳴りはじめ、そして、正直であろうとする者が息もできな
くなるほどに空気を汚染してしまった嘘を、きれい吹きはらうだろう――どの屋根
の下からであれ、心に巣くう恐怖をすべて追いはらうだろう‥‥‥
せめて一回だけでも、せめて一度の水曜の晩だけでも。
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