青澤隆明の音楽日記をイッキ見

グスタフ・レオンハルトを思う


青澤隆明 / 更新日:2022年5月31日


グスタフ・レオンハルトのこと。



寝起きの頭に誰かが囁いて、きのうがグスタフ・レオンハルトの誕生日だったことをぼんやりと思うのだけれど、まっさきに浮かんでくるのは、あの佇まいや姿勢のほう。そういうことではだめな気がしないでもないが、それもまた音楽の要点だろう。レオンハルトを最後に演奏会で聴いたのはいつだったかといえば、それが11年前のきょう、2011年5月31日。レオンハルトにとって83歳の最初の夜だったことを、そのときのぼくは気づいていたのだろうか。大家は翌年1月に亡くなって、それが最後の来日となってしまった。そのときトッパンホールでは、デュフリやバッハを弾いたのだった。レオンハルトはチェンバロを弾き、ただ音楽と結ばれた喜びのなかにあった。覚えているのはやはり、演奏の具体的なあれこれよりも、そのときに通っていた不思議な自由の感覚、滲むような自在さのほうだ。つよく厳しい真面目さの奥からひらかれてくるように、それは澄んだままやわらかに満ちてきた。レオンハルトは2007年と2009年にもここで演奏したが、聴くたびになおさらつよくそのことを思うのだった。その感触がぼくのなかにいまも自然と息づいていればいいと願う。音楽をよくよく生きた歳月がそこにはあった。昨晩おなじ舞台で、コンスタンチン・リフシッツの迸るバッハを聴いてきて、いまそれを思っていることの不思議。バッハの尽きせぬ広大さ。ぼくはまだどこか夢のなかにいるようだ。

ルプーとブラームスとチャイコフスキー


青澤隆明 / 更新日:2022年5月7日


ブラームスとチャイコフスキーのお誕生日に。ラドゥ・ルプーのことを少し。



 ラドゥ・ルプーが亡くなって、20日が経った。ひとりひとりがそれぞれの心のなかの、たぶんもっとも大切な場所で、彼の音楽のことを想っただろう。

 ぼくはぼくで、ぼうっとしながら、そのようにして静かな時間を過ごした。歳月はめぐるものだし、みんないつかはいなくなる。それでも誰かは生きて、その誰かの心のなかで思い出されて、ぼくたちの愛する音楽はきっと生きつづける。

 ラドゥ・ルプーの場合、本人がレコーディングをつよく嫌ったから、いまさらそれを聴くことには躊躇いもあるのだけれど、だからと言って聴かないのも、とてももったいない。そこから受けとることができるなにかは、いまも際限なくあるはずだ。そうなのだけれど、そのようにして過去の録音を聴かずとも、いくつもの演奏の光景を、そのときに生きられた音楽を、自分の心のなかで辿ることで、ぼくはルプーが弾き終えたあとの歳月を生きながらえてきた。もちろん他の人の演奏も聴いてはいたけれど、きっとルプーだってそうしていたはずだ。

 きょうブラームスの誕生日がめぐってきて、まっさきに思い出すのは、どうしたってルプーのことだ。ルツェルンに集った人々のまえで、ルプーが最後のアンコールに弾いたのはインテルメッツォ op.118-2。それが、わかれだった。そのときのブラームスを聴けていたら、とそのあと、ぼくは幾度となく思いかえした。

 ぼくが最後にルプーを聴いたのはその2年前、2017年のヨーロッパでのリサイタルで、5月の終わりから6月のはじめにかけてのことだった。ハイドンの「アンダンテと変奏」、シューマンのファンタジーのあと、ルプーが弾き継いでいったのはチャイコフスキーの『四季』。12か月のうち、4月は松雪草で変ロ長調、5月は白夜でト長調。前後をト短調に挟まれているだけに、ルプーの演奏でも、この季節を歌う表情の愛おしさはまた格別だった。

 ブラームスとチャイコフスキーは5月7日、おなじ誕生日で、チャイコフスキーが7歳年下だった。だからというほどのことではないが、ようやくこの音楽日記に、また少し綴ってみるきっかけを、きょうぼくはみつけた(正直に言ってしまうと、やっぱり悲しくて、なんにしてもあまり書く気が起こらなくなっていた)。ルプーが愛したあのインテルメッツォはイ長調で、チャイコフスキーの4月も5月も、いずれにしても長調で書かれている。そのようにして、ぼくたちはこの季節のなかを、ていねいに歩いていくのだ。

春のモンポウ - Mompou en Disco “Gramófono”


青澤隆明 / 更新日:2022年4月8日


モンポウのピアノ、自作自演を聴く。CD◎Landmarks of Recorded Pianism Volume 2 (Marston, 2020)



 フェデリコ・モンポウのピアノについてはここでも記してきたが、きょう聴いていたのは晩年の録音ではなくて、もっと若い1929年12月と30年1月、44年6月のレコードの復刻CD。モンポウはもうすぐお誕生日、4月の生まれだから、36歳と51歳のときの演奏ということになる。

 弾いているのは自作の『歌と踊り』の1、2、3、4、6番と、「秘密」、『風景』から「泉と鐘」。そして興味深いことに、ショパンのイ短調ワルツop.34-2のモンポウ編曲が聴ける。ショパンに心からの敬愛を示しつつ、モンポウ独特の装飾と和声を織りなしている。ピアニストとしてのモンポウを感じさせもする。

 ショパンにかぎらず、自作も晩年のレコーディングに比べてピアニスティックに聴こえるが、それだけ空間が伸びやかで、なによりも音を含め、もっと若くて、瑞々しさがある。よりロマンティックに響いて、生命と温度を明朗に伝える。弾く喜びみたいなものが率直に感じられるのだ。ひっそりした質感と繊細さは変わらないが、音がほんわりと奥から満ちてくるような、じんわりと温かく、潤いがある。それがやわらかで、うれしい。

 曲の性格もあるだろうが、人懐こいのだ。だから「秘密」もずっと素朴に手の内にある。50代に入って弾いた「歌と踊り」第6番の歌にしても、悲哀をみつめながら優しい温かみに滲ませているし、踊りの躍動には急いた熱を帯び、もつれたところも素朴で、どこまでも人間的な体温を伝えている。ルビンシュタインに捧げられた曲ということもあるかもしれない。おなじく当時の近作だった『風景』、そのはじまりに響く「鐘」の音も、暖かな空気のなかを伝ってくる。モンポウが春の生まれということが、きょうの陽光のなかで、しみじみとありがたく感じられた。
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