前島秀国の音楽日記をイッキ見

久石譲「Music Future Vol.7」初日を聴いて


前島秀国 / 更新日:2020年11月21日


久石譲が現代の音楽(ゲンダイオンガクではない)を紹介する目的で毎年秋に開催している演奏会シリーズの第7回目。ジョン・アダムズの「Gnarly Buttons(こぶだらけのボタン)」、ニコ・ミューリーの「Balance Problems」、ブライス・デスナー「Skrik Trio」、それに久石自身の2曲。



いささか逆説的な言い方になるが、とてもオーソドックスな演奏会だった。いまアメリカで最も注目すべき作曲家の名前を挙げるとして、その名前のリストにニコ・ミューリーとブライス・デスナーが含まれていなかったら、そのリストの作成者に現代の音楽を語る資格は全くない。久石は、「Music Future」を立ち上げた当初からこの2人に注目し、おそらく日本で初めて彼らの音楽を本格的に紹介し、コロナ禍さえなければ、今回の第7回でミューリー本人を日本に迎える予定だった(ミューリーは来年改めて招聘する予定)。そういう意味で、久石の「Music Future」はごく当たり前のことを当たり前にやっているだけなのである。オーソドックスと書いたのはそういう意味だ。そして、ここが重要なのだが、久石が彼らの作品を紹介し続けているのは、音楽的に高い価値を有しているのみならず、聴いていて純粋に楽しいからである。聴衆が顔をしかめながら、見知らぬ新作の陳列に2時間耐えるコンサートとは違うのだ。

久石の作品以外の曲から書いていくと、まずジョン・アダムズがクラリネットと小オーケストラのために書いた協奏曲「こぶだらけのボタン」。20年以上前にCDが出た時、実はライナーノーツを書いているのだが、その時はずいぶんと変わった、そしてノンビリした曲だと感じた。その理由のひとつは、第2楽章「ホーダウン」で牛の鳴き声のサンプリングがシンセサイザーによって演奏されるからだが、今回の演奏は長閑な要素は微塵も感じさせず、とても鋭角的でカッティング・エッジな解釈になっていた。20年前に聴いた曲とは、とても同じ作品とは思えない。久石のスコアの読みの鋭さもあるが、作品自体もある程度の年月を経た結果、生き物のように成長しているのだということを肌で実感した。そして、特筆すべきはクラリネットのマルコス・ペレス・ミランダの体当たり的なソロ。技巧の素晴らしさはもちろんのこと、これほどエキサイティングな情熱を感じさせるクラリネット・ソロは、ついぞお目にかかったことがない。とんでもない才能である。別の言い方をすれば、彼の才能と技量をフルに活かしたクラリネットの現代の作品――いわゆるスタンダードなクラシック作品だと楽器の性格上、どうしてもほのぼのとした曲が多くなってしまう――を、もっと聴きたくなった。これだけでも、今回の演奏会は大成功というべきだ。

ニコ・ミューリーがフルート、クラリネット、トランペット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ギターという変わったアンサンブル(指揮者なし)のために書いた「Balance Problems」は、曲名通り、編成上のバランスの問題をいかに音楽上のメリットに変えていくか、という実験を試みた作品である。1音1音を丁寧に扱っていくミューリーの作風がはっきりと現れ、かつ、この編成でなければ聴けない音色の愉楽を、時にはデリケートに、時にはヴィヴィッドに表現していた。

ブライス・デスナーが弦楽三重奏(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)のために書いた「Skrik Trio」は、実はちょっとした個人的な思い出がある。3年前にスティーヴ・ライヒが来日した時、ライヒと2夜連続で公開対談するという役目を仰せつかったのだが、その時に若い世代の作曲家についてライヒに訊ねたところ、ちょうどミューリーやデスナーの新作を紹介する演奏会をカーネギーホールで企画しているところだ、という答えが返ってきた。いったい、どういう作品が出てくるのだろうと期待していたら、その新作のひとつが「Skrik Trio」だった。つまり、ライヒと話してから3年後に、ようやく僕はその答えを「Music Future」Vol.7で見つけたという次第である。デスナー初期の出世作として知られる弦楽四重奏のための「Aheym」(これは「Music Future」Vol.2で日本初演している)と比較すると、デスナーの弦楽器の書法は格段の進化を遂げ、セクションによっては後期ロマン派風の濃密な響きさえ聴こえてくる。しかし、それ以上に興味深かったのは、ユダヤ系の血を引くデスナー自身のルーツが、ユダヤ民謡あるいは旋法の引用のような形ではっきりと表現されていた点だ(「Aheym」にも多少現れていたが)。これには正直、驚いた。ミニマリズムの影響の下に書かれているにも関わらず、全体の印象としては、ショスタコーヴィチの「ピアノ三重奏曲第2番」とか「アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲」に近いものを感じた。

あと、久石自身の作品が2曲演奏されたが、これから久石のミニマル作品について長めの文章を書かねばならず、その文章の内容とも多少絡んでくるので、詳しい批評はこの場で控えたい。ただし、ごく簡単に触れておくと、プログラム最初に演奏された「2 Pieces 2020 for Strage Ensemble」は、ひとつのモティーフ(音形)をいかにミニマル的に増殖し、発展させていくかという久石のミニマル語法をわかりやすく示した作品のひとつだと思う。そしてプログラム最後に演奏された「Variation 14 for MFB」は、コロナ禍で世界初演がのびのびになっている最新作「交響曲第2番」の第2楽章を、西江辰郎がコンサートマスターを務めた当夜の演奏団体Music Future Bandのために特別にリコンポーズしてお披露目した作品である。この第2楽章を聴いただけで、「交響曲第2番」が近年の久石のミニマル作品で最も重要な、かつ世界的に大きなインパクトをもたらす作品だということは確信できた。早く全曲が聴いてみたい。

このように「Music Future Vol.7」はとても楽しい演奏会だったので、今晩、もう一度聴きにいくことにした。社会情勢に逆らいながら外来オケの来日を無理やり強行しなくても、大いなる音楽的喜びを与えてくるコンサートは、いまの日本の状況下でもしっかりと作られている。


『ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン』について②


前島秀国 / 更新日:2020年8月22日


ジョン・ウィリアムズがウィーン・フィルを指揮した最新アルバムをめぐるあれこれ、その2。演奏の意義など、本質的な事柄はすでに同盤所収ブックレットのライナーノーツに書いたので、主に音響的な側面のレビューを。



(①から続く)
前置きがずいぶん長くなってしまったが、今回リリースされた限定デラックス盤特典のブルーレイは、演奏会本編と上記の対談を収めた映像と、ブルーレイ・オーディオで構成されている。つまり、実質的に2種類のディスクで成り立っているようなものだ。それぞれ、音声トラックが3種類収録されているので、購入者は全部で6通りの鑑賞方法を選ぶことが出来る。箇条書きにしたほうがいいかもしれない。

演奏会本編のライヴ映像(拍手やトークなどをカットなしで収録)および対談
①DTS-HD Master Audio 24bit/96kHzの2.0ステレオ
②DTS-HD Master Audio 24bit/48kHzの5.1サラウンド
③Dolby Atmos(9.1.4)

ブルーレイ・オーディオ(拍手やトークなどをカットし、曲順変更および曲数を減らした、CDおよび配信音源用のミックス)
①DTS-HD Master Audio 24bit/96kHzの2.0ステレオ
②DTS-HD Master Audio 24bit/48kHzの5.1サラウンド
③Dolby Atmos(9.1.4)

DTS-HD Master Audioは、PCMやFLACと同じ可逆(ロスレス)音声かつハイレゾ音声である。最近のブルーレイ・プレイヤーはHDMI出力端子しかない場合が多いが、アナログ音声出力端子があれば、アナログで出力した2.0ステレオまたは5.1サラウンドのハイレゾ音声を任意のアンプで鳴らすことが可能である(比較的な安価なハイレゾ再生方法でもある)。問題はDolby Atmosだが、『ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン』ではフロント、センター、サラウンド用に9チャンネル、サブウーファー用に1チャンネル、天井または天井近くに設置されたハイトスピーカー用に4チャンネルを当て、再生時はAVアンプ側の処理でオブジェクト・オーディオとして再生するようになっている(Dolby Atmos非対応のプレイヤーではDolby True HD 7.1サラウンドとして再生されるはず)。Dolby Atomosは、映画のブルーレイやNetflixではかなり普及しているが、クラシックの商用利用はまだ始まったばかりだ(同様の技術であるAuro-3Dについては、ここでは触れない)。

今回、このアルバムを仕事で扱うことになった経緯もあり、自分でも思い切ってDolby Atmosの環境を導入することにした。スピーカーは、部屋のスペースの問題もあるので、フロントL・R、センター、サラウンドL・R、ハイトスピーカーL・R(天井埋め込みは無理なので、出来るだけ天井近くに設置)、それにサブウーファーの5.1.2環境。対応AVアンプは、ステイホーム期間中に唯一購入可能だったDENON AVR-X1600Hにしたが、安価な割には充分すぎるほどの機能で、とても気に入っている。

で、サンプル盤が届いた後、実際に再生してみた。

クラシック音楽の再生にサラウンドやサブウーファーは邪道だ、と考えるピュア・オーディオ派は、通常の2チャンネル・ステレオのハイレゾ音声である①しか選択肢がないが、もちろんそれだけでも充分楽しめる。僕はMQA-CDのDAC(デジタル・アナログ・コンバーター)を持っていないが、おそらくMQA-CDも①の音声に非常に近くなっているのではないかと推測する。

ただし、ムジークフェライン(ウィーン楽友協会)の臨場感や空間表現、ロック・コンサートかと錯覚するような聴衆の熱狂的な反応などは、当然のことながら②と③が圧倒的である。今回の収録曲で最もサラウンド再生の恩恵に浴しているのは、ウィリアムズの作品の中でも特に前衛的な語法で書かれた部分を含む『未知との遭遇』だろう。実質的に20世紀後半の現代音楽として書かれたオーケストラの豊かなパレット、最弱音から最強音までに至る幅広いダイナミック・レンジ、ソロとトゥッティの鮮やかな対比、それに何よりも、目の前のスピーカーの縛りから解き離れたウィーン・フィルが文字通りUFOのように飛び回る音の乱舞は、圧倒的にサラウンド再生のほうが優れている。

では、ハイト・スピーカーを使わない②と、ハイト・スピーカーを使う③では、どのくらい差があるのか? これは、③を先に再生しながらプレイヤー側で②に切り替えると(普通のAVアンプなら入力信号を自動判別して必要なスピーカーをON/OFFする)、その違いが明確に出てくる。わかりやすく言うと、山形食パンの山の部分がバッサリ切り落とされ、ふつうの角型食パンに変わったような感じだ。もちろん、③の山形食パンも、②の角型食パンも、パンそのものの味は変わらないが。この違いは、演奏の視覚情報が伝わる映像本編よりも、むしろ映像のないブルーレイ・オーディオを再生した時のほうが、はっきり出てくるかもしれない。画があると、視覚的に空間情報を補うことが出来るからである。

今回のアルバムのような作品の場合、ハイトスピーカーの使用は、飛行機の爆音が上方を通過するような明確な効果はないけれど、演奏会場の空間表現に関しては、5.1サラウンドよりも確実に豊かである。逆にこれで慣れてしまった場合、ハイトスピーカーが無いと寂しく感じるだろう。

だが、それ以上に今回のディスクの再生で重要だと感じたのは、サブウーファーの有無、つまり低域情報の再生である。これは、ジョン・ウィリアムズの作曲法そのものと密接に関わってくる問題でもある。

ウィリアムズ、あるいは彼のライバルと称されたジェリー・ゴールドスミスなどについても言えるが、ハリウッドの映画音楽では、ずしりと響く重低音を鳴らす時、普通のクラシックのオーケストレーションではやらない楽器法を使うことがある。つまり、コントラバス、大太鼓、ピアノの低音など、オーケストラの中で最も低い音を出す楽器をかき集め、ユニゾンで一斉に「ドン!」と鳴らすのである。映画音楽である以上、そういう効果音的な音が求められるのは仕方ないことだが(対談の中で、ウィリアムズが自分の音楽を「クラシックとは違う音楽」と謙遜気味に呼んでいる理由のひとつがそこにある)、だからといって、ウィリアムズは演奏会用の譜面からそういう楽器法を排除するようなことはしていない。

今回の演奏曲でも、実はそういう楽器法で書かれた音楽が何曲か含まれている。比較的わかりやすいのは『イーストウィックの魔女たち』、それから『ジョーズ』だろう。特に『ジョーズ』では後半のフーガの部分に入ると、コントラバスとピアノがユニゾンでフーガ主題を導入するという、かなりユニークな楽器法を聴くことが出来る。もちろん、2チャンネルのステレオ再生でもそうした楽器法は聴き取れるが、サブウーファーを使用した場合、音の重量感の表現が全く違う。もともと音楽がそういう風に書かれている以上、このウィリアムズの演奏に関してはサブウーファーを使って鳴らすべきだ、というのが僕の意見である。でないと、重厚な低音の意味が伝わってこない。

考えてみれば、Dolbyという会社の音声規格も、DTSという会社の音声規格も、ウィリアムズがスコアを担当した映画と密接な関わりを持っている。ドルビーステレオ(アナログ4チャンネル)が35mm映画フィルムの光学サウンドトラックのデファクト・スタンダードとなったきっかけが、1977年の『スター・ウォーズ』と『未知との遭遇』での導入(日本では『未知との遭遇』が先に公開された)。ドルビーデジタル(5.1サラウンド)の競合規格として、DTSが初めて登場したのが、1992年の『ジュラシック・パーク』である。今回のアルバムで、その3作品のテーマが演奏されているのは偶然ではない。ウィリアムズという人は過去40年にわたり、その時点での最新の音響システムを用いてフル・オーケストラのテーマ曲を映画館で鳴らす機会に恵まれてきた、例外的な作曲家なのである。今回の『ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン』を見て、聴くと、ウィリアムズの音楽がこれまで映画館でどのように鳴り響き、また受容されてきたか、実際にリアルタイムで目撃してきた歴史が走馬灯のように甦ってきて、とても感慨深かった。

『ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン』について①


前島秀国 / 更新日:2020年10月14日


ジョン・ウィリアムズがウィーン・フィルを指揮した歴史的演奏会の記録が、CD+Blu-rayで発売された。国内盤リリースに深く関わったのでレビューを控えていたが、単独名義のアーティストによるアルバムTOP10入りの最年長記録更新とか、ニュース的な側面も出てきたし、どなたもお書きにならないので、触れることにする。



すっかりこの「音楽日記」をサボってしまっていたが、その理由のひとつは、『ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン』のライナー執筆と字幕監修に膨大な時間を割く必要があったのと、万が一、自分がコロナウイルスに感染したらリリースそのものに影響が出てくる可能性があったので、ほとんど家に引きこもっていたからである(そのため、都内で再開し始めた演奏会も、全部出席を見合わせていた)。

国内盤リリースに伴う作業は、実質的に5月の終わりから始めたが、ただの解説書きとはいえ、いろいろと判断を迫られる場面が多々あった。まず、このアルバムはクラシック・ファンと映画(音楽)ファンの両方が購入するだろうから、どちらにも満足していただけるような解説を書かなければならない。クラシック・ファンのほとんどは、おそらく『イーストウィックの魔女たち』や『シンデレラ・リバティー/かぎりなき愛』のような作品は見ていないと思う。逆に映画ファンには、クラシック界におけるウィーン・フィルの位置づけがどのようなものか、最初から説明してあげなくてはならない。

実は、かなり早い段階で原盤のオリジナル・ライナーノーツも読ませてもらったのだが、ウィーン楽友協会資料室長のオットー・ビーパ博士が執筆したライナーは、現地の演奏会評の抜粋でまとめられていた。僕はビーパ博士本人にも取材したことがあるし、とても尊敬している研究者なのだけど、ジョン・ウィリアムズに関しては、やはり専門外だという印象を受けた。となると、いちから全部自分で書き下ろすしかないのだが、元のサントラやウィリアムズが過去に指揮したボストン・ポップスの演奏を聞き直すのはもちろんのこと、場合によっては演奏曲の該当シーンを映画本編に当たって見直す作業をしなくてはいけない。これが、非常に時間がかかった。とても楽しい作業だったけれども。

それと共に大変だったのが、デラックス盤特典ブルーレイに収録されたジョン・ウィリアムズとアンネ=ゾフィー・ムターの対談映像の字幕翻訳である。ご覧いただくとおわかりになると思うが、ふたりともざっくばらんに本音を語り合っているだけでなく、音楽の本質に迫る重要な問題をいくつも取り上げている。当然、一言一句正確に訳したいところだが、日本語字幕には「1秒4文字」というやっかいな字数制限が厳然と存在する。書き言葉とは違うのである。なので、どうしても妥協しなければならない部分が出てくるが、少なくとも映画用語、音楽用語、作曲家名に関しては正確さを期したい。よく、劇場用映画のDVDやブルーレイにメイキング映像と称して作曲家のインタビューが収録されていることがあるが、あの手の映像の字幕のクオリティは概して非常に低い。なぜかというと、音楽の専門家のチェックが入らず、字数制限を守るために翻訳者が勝手に意訳してしまうからである。今回、そういうことは絶対に避けたかったので、コンマ数秒単位まで計算しながら、出来るだけ字数制限を越えないように訳していった(例外的に越えざるを得なかった字幕もいくつかある)。どうしても訳しきれなかったのは、「今度(ウィリアムズが)ウィーンに来たら、ウィンナーシュニッツェルも忘れずに食べに行きましょう」というムターのジョークくらいだが、本質的に音楽と関係ない話なので、これはバッサリ切り落とした。あと、彼女が触れているE-Musik(Ernste Musik、芸術音楽)とU-Musik(Unterhaltungsmusik、娯楽音楽)の話は、見る人が見れば、彼女が暗にアドルノを批判しているということがわかるのだけど、それをわかりやすく説明とするとなると、アドルノの『音楽社会学序説』まで引用しなくてはいけなくなるので、あとはリスナーの理解に委ねることにした。15年以上前にDVD『エンニオ・モリコーネ アリーナ・コンチェルト』の字幕を訳した時、本人が言っている「Musica assoluta」をそのまま「絶対音楽」と訳したら、モリコーネの熱心なファンでもある映画関係者から「そんな言葉が存在するのか!」と驚かれた記憶がある。でも、こういうものを変にわかりやすく意訳するのは、音楽DVDまたはブルーレイの字幕の場合、厳に慎むべきであるというのが、僕の基本的な考え方だ。(②に続く)
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