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ドゥダメル指揮『ウエスト・サイド・ストーリー』サントラ盤を聴いて


前島秀国 / 更新日:2022年2月11日


スティーヴン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』のサントラ盤は、グスタボ・ドゥダメル指揮ニューヨーク・フィルとロサンゼルス・フィルが演奏しているが、サントラ扱いの商品のため、クラシック側の人間が書いたレビューは案外少ないのではないかと思う。昨年12月の配信開始後すぐに聴いたが、このたび国内盤がリリースされたので、いくつかの既存録音と比較した上でレビューをアップする。本編ネタバレなし。



ちょうどいい機会だったので、まずは今回のサントラ盤との比較のために、現在入手可能なさまざまな録音を聴き直してみた。その結果、原曲のミュージカルを過不足なく録音した決定盤は、未だに存在していない、というのが僕の率直な感想である。“原典”として最初に参照されるべきは、1957年に録音されたオリジナル・ブロードウェイ・キャスト盤だが、なんといっても録音が古いし、キャストの歌唱(特にアンサンブル)もやや荒い。もともとこの作品をオペラとして構想していたという作曲者自身の自作自演盤(1985年)は、主要キャストをオペラ歌手が歌っているが、この作品の内容からして、本当にベルカント唱法がふさわしいのか、少なくとも僕自身は今でも疑問を抱いている。2009年の再演に基づくブロードウェイ・キャスト盤は、プエルトリコ側の登場人物の視点を重視し、一部のソング・ナンバーをスペイン語の訳詞で歌っているが、いわゆるポリティカル・コレクトネスの立場からは容認されるにしても、原曲のソンドハイムの歌詞は英語で書かれているので、少しやり過ぎなのではないかという印象を受けた。そのほか、全曲をほぼカットなしで演奏した演奏会形式のライヴ録音がいくつか出ているが、いずれもクラシック色が強すぎて、ミュージカルらしい躍動感が出ていない。といった具合に、どの録音もあちら立てればこちら立たぬといった状態である。

その中でも、最も多くの問題を抱えた録音が、1961年版の映画のサントラ盤だろう。録音は劣悪だし(金属系の楽器をのぞいて14000Hz以上の高音域がほとんど録音されていない)、バーンスタインの作曲意図に反して改竄されたオーケストレーションは弦楽器が多すぎるし、何よりも問題なのはジョージ・チャキリスをのぞいてキャスト本人が歌った録音ではない、つまり吹替歌唱だという点である(マリア役、それにアニータ役の一部を歌ったマーニ・ニクソンの歌唱自体は素晴らしいが)。にも関わらず、この1961年盤が現在も代表的録音として聴かれ続け、この作品のイメージ作りに影響を及ぼし続けているのが現状だ。映画のサントラ盤として歴史的価値を有しているのは事実だが、だからといって、バーンスタインの原曲のミュージカルの魅力と真価を余すところなく収めた録音とは言えないと思う。

今回のドゥダメル盤は、あくまでもスピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』のサントラ盤として録音されているので、映画本編で歌われていないナンバーは当然のことながらカットされている。また、録音セッションの一部を、編曲を担当したデイヴィッド・ニューマンが指揮しているし(といってもわずかだと思うが)、どこからどこまでの演奏がニューヨーク・フィルの担当部分で、どこからどこまでがロサンゼルス・フィルの担当部分(コロナ禍での追加セッション)なのか明確ではないので、そもそもこれをクラシックの録音として扱うのは不可能である。

そうした点を考慮した上で今回のサントラ盤を聴いた時、すぐに直感した。少なくとも、1961年版のサントラ盤を今後聴くことはないだろうし、また、その必要も全くないだろうと。歌手、バーンスタインの作曲意図を尊重したオーケストラの演奏(基本的に1957年ブロードウェイ初演版の編成を用いている)、そして録音のサウンドと、すべてにおいて今回のアルバムは他の録音を寄せ付けない高いレベルに達している。昨年12月の配信開始直後から30回以上は通して鑑賞したが、それでもまだ飽きない。とんでもない録音だと思う。

まず、今回のサントラ盤の最大の魅力は、3万人とも言われる候補の中からオーディションでマリア役の座を勝ちとったレイチェル・ゼグラーの歌唱だろう。《トゥナイト》で、天井知らずの高音がどこまでも伸びていくのを聴いた時、本当に驚いた。今まで聴いてきたマリア役の歌唱――特に熟女がティーンエイジャー役を演じる虚構――は、いったい何だったのだろうと。録音当時、ゼグラーは18歳か19歳だったと思うが、その声は若さだけでなく、一瞬にしてリスナーを虜にするチャーミングな魅力を備え、歌い方は純真そのものながらも、表現に説得力がある。数年前、さる著名歌手(敢えて名前を伏す)がマリア役を歌ったスタジオ録音が鳴り物入りでリリースされた時、単に高い音が出るだけで歌唱表現に魂が全くこもっていなかったのとは大違いだ。おそらくゼグラーは、2009年ブロードウェイ・キャスト盤でマリア役を歌ったジョセフィーナ・スカリオーネの表現(彼女も大変素晴らしい)を参考にしながら録音したのではないかと推測されるが、後述するドゥダメルの速めのテンポ設定のおかげもあり、よりドラマティックで勢いがある。

もうひとり、アニータ役のアリアナ・デボーズも非常に感心した。《アメリカ》では、いかにもラテン的なバイタリティでナンバー全体を華やかにし、上述のゼグラーとのデュエット《ア・ボーイ・ライク・ザット/アイ・ハブ・ア・ラヴ》では、押しの強い迫力と芝居の巧さで聴く者を唸らせる。こういう演奏を聴くと、アメリカのエンタテインメントの底力はとてつもないものだと、改めて感服するほかない。

トニー役のアンセル・エルゴートは、今回のスピルバーグ版で《クール》がトニー役のナンバーに変更されたこともあり、結果的に他のキャストと比較にならないほど多くのナンバーを歌っている。そのため、録音のプレッシャーも相当なものだったと推察されるが、映画『ベイビー・ドライバー』で強い印象を残したエルゴートがここまで歌えたことに、むしろ驚いた。本業のミュージカル歌手のように朗々と歌おうとせず、等身大のヴォーカルで素直に歌っているところが、逆に好感が持てる。高い音域でわずかに声が潰れるのが気にはなるが、別の見方をすれば、そこにリアルなトニーの姿があると聴くことも可能だ。映画本編での彼の魅力と併せて評価すべきだろう。

最初に書いたように、今回のサントラ盤はすべての録音セッションをドゥダメルが指揮しているわけではないので、純粋に彼の作品と呼ぶことは難しいが、少なくとも《プレリュード》や《ダンス・アット・ザ・ジム》などのオーケストラ・ナンバー(つまりオーケストラの聴かせどころ)に関しては、ドゥダメルが振っているはずである。その部分だけ聴いてみても――通常の2チャンネル・ステレオ再生だろうが、配信版のドルビー・アトモスだろうが――これが尋常ならざる演奏だということに気がつくはずだ。先に触れたゼグラーの歌唱と同様に若々しく、ポップスと呼ぶにはあまりにもゴージャスで輝かしい高揚感と、どこを切っても血が吹き出しそうなシャープな切れ味を備えながら、いささかもテンポは淀むことがなく、ドラマティックに畳み掛けてくる。もちろん、この演奏はあくまでも映画のサントラ用だから、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラの時のような“フィエスタ”状態で暴走することはない。しかも、すべての録音セッションはスピルバーグが立ち会っているはずなので(スピルバーグが撮影に先んじて音楽録音するプレスコの手法を用いたのは『未知との遭遇』以来だという)、特にテンポ設定に関しては、彼の意向もある程度反映されているのだろう。そうだとしても、バーンスタインの自作自演盤も含め、音楽がここまでクリアかつヴィヴィットに演奏されたことは、いまだかつて無かったのではないか。ドゥダメルはもちろんのこと、オーケストラ全員のミュージシャンシップが高くなければ、ここまで迫力ある演奏をすることは不可能である。これを聴いてしまうと、クラシック市場に溢れかえる《シンフォニック・ダンス》の演奏のほとんどが、単に若作りをした中年オヤジが粋がっているようなものにしか思えなくなってしまう。常設オーケストラ用に編曲された《シンフォニック・ダンス》そのものが“厚化粧”だと言い切ってしまう自信は今の僕にはないけれど、少なくとも今回の《マンボ》のソロ・トランペットの一吹き(本編の中でスピルバーグはわざわざトランペットのアップを映している)を聴いただけで、今まで《シンフォニック・ダンス》の演奏で散々聴かされてきた“ラテンの真似ごと”と、今回のような“本物”とで、音楽表現の生々しさにどれほど大きな差があるか実感できるはずである。

今回のサントラ盤は、ジョン・ウィリアムズの録音を長年手掛けてきたエンジニアのショーン・マーフィー以下、スピルバーグのサントラ録音チームが収録を手掛けている。アメリカの大作映画のサントラ録音は、フル・オーケストラのスタジオ収録に1週間以上かけることがザラだから(日本はどんな大作でも2日が限界)、今回のような映画では収録にも相当な時間をかけたのではないかと思う。ミキシングも相当いじっているはずだが、そのおかげでほぼすべてのパートがクリアに聴こえるだけでなく、スコアの中で何を強調したいのか、演出意図(演奏意図ではない)が明確に伝わってくる。つい先日も、ある日本の映画音楽作曲家と話したのだが、すぐれた映画監督の場合は、自分の映像表現を貫徹させるため、音楽のミキシングにも細かく注文を出してくることが多い。ましてや、スピルバーグのように音楽的素養が高く(コンサート・ピアニストだった母親の影響で、幼年時代はショパンかショスタコーヴィチしか聴いたことがなかったという)、自分でクラリネットも演奏するような監督の場合はなおさらである。したがって、今回のサントラ盤も、あくまでもスピルバーグが意図した録音、彼が聴かせたい録音と考えるべきだ。指揮者が音楽的責任をすべて負うクラシック録音とは違う。そうだとしても、これほどバーンスタインの音楽が生き生きと伝わってくると、今まで聴いてきた多くのクラシック録音はいったい何だったのだろうと、途方に暮れてしまった。

結論をまとめる。今後、バーンスタインの《ウエスト・サイド・ストーリー》を演奏する時は、それがミュージカルの全曲版であろうとクラシックの《シンフォニック・ダンス》であろうと、「今回のサントラ盤を知らずに演奏しました」は許されなくなる。この曲の演奏史は、今回のサントラ盤以前と以後で完全に分断されてしまった。今後は、これが演奏の基準となるだろう。ものすごくハードルが高くなったことは事実だが、バーンスタインの音楽がベートーヴェンやモーツァルトと同じように、いつの時代に聴いても生々しいアクチュアリティを持った音楽として残っていくためには、今回のサントラ盤の方法論を継承していくしか、しばらくは手段がないと思う。

スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』を見て(その2)


前島秀国 / 更新日:2022年2月13日


レナード・バーンスタイン作曲、スティーヴン・ソンドハイム作詞の名作ミュージカルを、スティーヴン・スピルバーグ監督が再映画化した『ウエスト・サイド・ストーリー』を完成披露試写会で見てきた(12月23日、TOHOシネマズ日比谷Screen 1)。たいへん長くなったので、映画本編のレビュー(ネタばれ有)とサントラのレビュー(ネタばれ無)に分け、さらに本編のレビューを2つに分けて書き記す。以下、「その2」(ネタばれ有)。



「その1」で述べてきた“分断”は、すべて横方向のホリゾンタルな“分断”、つまり民族問題や移民問題に起因する“分断”だが、スピルバーグはそれだけでなく、縦方向のヴァーティカルな“分断”、すなわち経済的格差の問題もこの映画の中で示している。それを具体的に表現したのが、<プロローグ>が流れる本編冒頭のオープニングだ。

1961年版のカメラは、ニューヨークの下町の町並みを俯瞰で映し出した後にバスケット・コートに切り替わるが、スピルバーグ版のカメラは、なんと瓦礫の山を映し出す。しかも、その瓦礫の山の前には「リンカーン・センター建設予定地」という標識が立っているのだ(1961年版にも実は瓦礫の山が一瞬だけ登場するが、それが再開発予定地だということは一切言及されていない)。

ご存知のようにリンカーン・センターはアメリカを代表する“芸術の殿堂”だが、それはあくまでも富裕層のための“芸術の殿堂”であって、決して庶民のためのものではない(《アイ・フィール・プリティ》のナンバーが歌われるシーンで、プエルトリコの女性たちは「オペラとか私たちには関係ない」といったセリフをスペイン語で口にする)。その芸術の殿堂を建てるために再開発が進むアッパー・ウエストサイド地区で、解体業か何かに就いている肉体労働者というのが、スピルバーグ版におけるシャークスとジェッツの基本設定である。つまり彼らは――あくまでもこの映画が描いているところに従って言えば――文字通り“底辺”で暮らすことを余儀なくされた人々なのだ。その彼らが瓦礫の中を走り回り、色鮮やかなペンキをぶち撒ける抗争を描いた映像は、もはや黒澤明の『どですかでん』と全く変わらない。

この如何ともし難いヴァーティカルな“分断”、すなわち経済的格差の問題をはっきり描いているのが、プエルトリコ系のアニータたちが歌う有名なナンバー<アメリカ>のシーンである。1961年版ではアパートかビルか何かの屋上で歌い踊るという設定になっているが、スピルバーグ版では、なんとアニータたちが洗い物を干すシーンから、このナンバーを歌い始める。しかもスピルバーグは、おそらくバーンスタインの原曲のオーケストレーションからヒントを得て、このシーンを着想したと思われるのである!

バーンスタインの原曲、すなわち1957年ブロードウェイ初演版の楽器編成では、<アメリカ>のイントロ部分で中南米の打楽器ギロが「ギコギコ」とリズムを刻む。バーンスタイン(と編曲者たち)がギロを入れた最大の理由は、おさらく音楽にラテンアメリカらしい音色とローカリズムと加えたかったからだろう。しかしながら、ギロは洗濯板に形状が似ているばかりか、主にジャズで用いられるウォッシングボード(文字通り「洗濯板」から生まれた楽器)と酷似した音を出す。そこにスピルバーグは注目し、原曲のギロを洗濯板が出す“ノイズ”と読み替えているのである(実際、このシーンを劇場で見ると、ギロの音がはっきり聴こえるようにミックスされている)。しかもソンドハイムの歌詞の中には「洗濯機が欲しい」「洗うものなんかあるのか?」といったやりとりが登場するので、<アメリカ>のナンバーを洗濯干しのシーンで始めるのは非常に論理的だし、また説得力がある。

かくして、アニータたちは洗濯干しを止めて飛び出し、アメリカン・ドリームを実現したいと街中でダイナミックに歌い踊るわけだが(アニータ役のアリアナ・デボーズが本当に素晴らしい!)、彼女たちの背後、はるか遠く彼方にエンパイア・ステート・ビルが映し出される(画面の前景で繰り広げられるダンスが圧巻なので、もしかしたら気付かない観客も多いかもしれないが、画面の奥まで注意して見るとわかる)。言うまでもなく、エンパイア・ステート・ビルはアメリカそのもの、つまりアメリカン・ドリームの象徴的存在だが、どう考えてもアニータたちの手には届かない。音楽とダンスが躍動感に溢れれば溢れるほど、ヴァーティカルな“分断”つまり経済的分断の凄まじさが逆に強調されてくる。その厳しい現実を、スピルバーグの映像は容赦なく突きつけているのである。

スピルバーグ版は、原曲がブロードウェイで初演された1957年当時を舞台設定に用いているが、ここまでお読みいただいたらおわかりのように、スピルバーグがこの映画で描いているのは60年以上前にあった“分断”ではなく、今の世の中に厳然として存在する“分断”である。その“分断”は、60年前よりもさらに酷くなっているかもしれない。それを示すため、今回のスピルバーグ版では、1961年版でアニータを演じたリタ・モレノが新キャラクターのヴァレンティーナ(原曲に登場するドラッグストア店主ドクの未亡人という設定だが、実質的にはドクを女性に置き換えた役柄)を演じ、<サムウェア>をソロ・ナンバーとして歌う。現在90歳のモレノが「平穏で静かで開かられた、私たちのための場所がどこかにあるはず」と歌う<サムウェア>は、もはや希望の歌というより、怒りと絶望と諦念が入り混じった警告の歌のように聴こえてくる。モレノが1961年版でアカデミー助演賞を獲得してから60年あまり、<サムウェア>の歌詞が実現されるどころから、その逆に向かっているとしか思えない世界の現状を、おそらく彼女は誰よりも痛感しているはずだ。そんなモレノの魂の歌は、どんな名歌手や美声の持ち主でも太刀打ち出来ない迫真性に満ち溢れている。正直に告白すると、彼女の歌唱シーンで、僕は初めて泣いた。

他のキャストについては、サントラ盤のレビューで詳しく述べたいと思うが、ここではひとりだけ、トニー役を演じたアンセル・エルゴートについて触れておきたい。スピルバーグ版のキャストの中で唯一知名度があるエルゴートだが、カメラのアングルによっては若き日のマーロン・ブランドそっくりに見えるエルゴートの好演を見て、僕は即座にブランド主演の『波止場』を思い浮かべた。あの映画も舞台はニューヨーク(ロケ地は対岸のニュージャージーだが)、物語は労働者同士の抗争と殺人、しかも音楽は他ならぬバーンスタインと、いくつかの点で『ウエスト・サイド・ストーリー』と共通点がある。おそらくスピルバーグは、そうしたアメリカ映画の伝統を踏まえた上で、この映画を作ったのではないかと思う。若い世代が見ることのなくなった古き良きアメリカ映画を、忘却という“分断”の向こう側に置き去りにしないために。

そして、あの最後の銃声。あんなに腹の底まで響く銃声を劇場で聴いたのは、マイケル・チミノ監督『天国の門』の70ミリ上映を見て以来だ。『天国の門』も今回のスピルバーグ作品と同様に移民問題と“分断”に焦点を当てた作品だが、40年前のハリウッドではタブーとされていたテーマだったので、結果的にチミノは映画界から抹殺された。それから40年、スピルバーグの『ウエスト・サイド・ストーリー』は、エンタテインメントの枠の中にギリギリ踏み留まりながら、もはや“分断”をタブーとして片付けられなくなった世界の現状を真正面から描いている。

スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』を見て(その1)


前島秀国 / 更新日:2022年1月2日


レナード・バーンスタイン作曲、スティーヴン・ソンドハイム作詞の名作ミュージカルを、スティーヴン・スピルバーグ監督が再映画化した『ウエスト・サイド・ストーリー』を完成披露試写会で見てきた(12月23日TOHOシネマズ日比谷Screen 1)。たいへん長くなったので、映画本編のレビュー(ネタばれ有)とサントラのレビュー(ネタばれ無)に分け、さらに本編のレビューを2つに分けて書き記す。ますは、「その1」(ネタばれ有)。



スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』は、一言で要約すると“分断”の映画である。ジェローム・ロビンズとロバート・ワイズが1961年に映画化した『ウエスト・サイド物語』(以下、1961年版と略)が、1957年にブロードウェイで初演された舞台版が、あるいは原作となったシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」が、社会の“分断”を扱っていたという意味で、今回のスピルバーグ版も“分断”という問題を真正面から扱っている。だが、それだけではない。今回のスピルバーグ版の脚色も手掛けたトニー・クシュナーが脚本を執筆したスピルバーグの過去作、すなわち『ミュンヘン』と『リンカーン』が民族の“分断”や政治の“分断”を描いていたという意味でも、この映画は紛れもなくスピルバーグの作品である。そしてもうひとつ、映画作家としての彼が危機感を抱いている“分断”、すなわち現代の若い世代が過去の名作を見なくなり、映画館に足を運ばなくなったという意味での“分断”も、この映画は暗に描いている。論点を明確にするため、まずは1961年版とスピルバーグ版の最大の違いを指摘しておこう。

70mm映画全盛時代に作られた1961年版は、現代の視点で見直すと、基本的にはブロードウェイの舞台の臨場感を70mmの巨大なスクリーンで再現しようとした一種のライブビューイング作品である。ニューヨークの現地ロケは本編冒頭の<プロローグ>などごく一部に限られ、大半はスタジオのセットの中で演じられている。有名なダンス・ナンバー<ダンス・アット・ザ・ジム>は、1961年版では極端なローアングルで撮影され、カメラはほとんど動かない。正月にNHK BSで放映される8K版または4K版を見ればわかるように、1961年版は客席の最前列で“ショー”を見る視点で作られている。セットの書き割りもバレバレだし、プエルトリコ側の登場人物を演じるキャストたちは、極端なまでに黒さを強調した不自然なメイクをしている。そのキャストが踊る1961年版のダンスは――ジェローム・ロビンズの振付は60年以上前の時点では非常に革新的だったけれど――現代の激しいダンスと比較したら、はっきり言って盆踊りレベルだ。どこが“ニューヨークの躍動感を表現した名作ミュージカル映画”なのか、大半の若い世代は途方に暮れてしまうだろう。今の観客は、もっとリアルな映画表現に慣れている。名作だから1961年版を見ろと言っても、土台無理な話なのだ。古い世代のノスタルジーを押し付けられても、若い観客は単に当惑するだけだろう。

おそらくスピルバーグは、1961年版が抱えるさまざまな問題を充分認識した上で、今回のリメイクを作ったのだと思う。<ダンス・アット・ザ・ジム>の比較で言えば、スピルバーグ版はとにかくカメラがよく動く。ライブビューイングのように舞台を眺めるのではなく、作品が描く世界観の中にカメラが入り込んでいくという、スピルバーグ得意の映像表現が最大限の効果を発揮している。そしてダンスの振付も、基本的にはジェローム・ロビンズのオリジナルを踏襲しながら、より複雑で激しいものにアップデートされ、現代のミュージカル映画として鑑賞に耐え得るリアルなダンス・シーンに仕上がっている。

だが、スピルバーグがカメラを動かせば動かすほど、リアルな表現を追求すればするほど、この作品が描く“分断”は、ますます深刻になっていく。しかも、その“分断”の亀裂は、ほとんど修復不可能なレベルにまで達しているのだ。

今回のスピルバーグ版では、プエルトリコから来た移民すなわちシャークス側のキャストが、かなりの分量のセリフをスペイン語で話す。日本語字幕版では、スペイン語の部分も全部訳されているが、アメリカで上映されたオリジナル版は、スピルバーグの演出意図により、スペイン語の部分に英語字幕が付けられなかったという。したがって、スペイン語を話せない英語話者の観客には、シャークスたちが正確に何を言っているのか全く理解できない。実際、物語に登場するシュランク警部補(だったと思う)は「スペイン語じゃわからない、英語で話せ」というセリフまで口にする。言葉が通じない状況は、無理解の第一歩、ひいては“分断”の第一歩である。かつてスピルバーグが5音のモティーフで地球人と宇宙人を“会話”させた『未知との遭遇』のような、あるいは地球外生命体に「Phone Home」と口にさせた『E.T.』のような、相手となんとか通じてうまくやっていけるという楽観主義は、もはやここには全く存在しない。驚くべきことに、今回のスピルバーグ版では、トニーとマリアが地下鉄に乗ってデートに出かけるというエピソードが登場するが、ふたりが教会の中に入ると、トニーは紙に記したスペイン語を辿々しく読み上げ、マリアに愛に告白する。ある意味で『E.T.』の「Phone Home」の再現もしくはヴァリエーションとも言えるが、それを聞いたマリアはトニーのスペイン語を一笑に付す。そういう問題じゃないと言わんばかりに。もはや、言葉が通じる通じないの問題ではない。実際、ふたりはデートの最中も、お互いの立場を巡って口論を始める有様である。それが、リアルな現実の姿なのだ。今回のスピルバーグ版が日本語吹替上映されるのかどうか知らないが、もしも監督の演出意図を踏まえた上で吹替版を作るとしたら、スペイン語の部分を(多くの日本人が話せない)アジア近隣諸国の言語に置き換えるべきだろう。そうすれば、スピルバーグの問題意識が我々日本人にもはっきり伝わるはずである。

スピルバーグが意図した“分断”の演出は、言語だけでなく、実は音楽にも波及している。1961年版を繰り返し見たり、あるいは舞台版の鑑賞に何度も足を運んだことのある観客ならば、スピルバーグ版で最初に歌われるナンバーがバーンスタインの音楽ではなく、原曲のミュージカルと全く関係ないスペイン語の歌だという事実に、衝撃を覚えるはずだ。そのナンバー、すなわち<プロローグ>の後にシャークスが歌う<ラ・ボリンケーニャ>は、19世紀末までスペイン領だったプエルトルコ独立運動の中から生まれた革命歌である(しかもスピルバーグは、現在プエルトリコで歌われている改訂版の歌詞ではなく、革命運動をはっきり表現した1868年版の歌詞をわざわざキャストたちに歌わせている)。プエルトリコは現在もアメリカの自治領なので、<ラ・ボリンケーニャ>は厳密な意味での“国歌”とは言えないが、スピルバーグが映画の中で国歌のようなアンセムをはっきり流したのは、『ミュンヘン』においてイスラエル首相ゴルダ・メイアがモサドの特殊部隊に暗殺指令を出すシーンで流したイスラエル国歌以来、おそらく初めてではないかと思う。これらアンセムが象徴しているのは、言うまでもなく民族の統合あるいは団結である。その問題がある限り、“分断”は簡単に埋められないという厳しい現実を、スピルバーグは映画の冒頭ではっきり示しているのである。(その2に続く)
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