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ジョン・ウィリアムズ作曲「ヴァイオリン協奏曲第2番」世界初演の配信映像を見て


前島秀国 / 更新日:2021年7月31日


アンネ=ゾフィー・ムターがジョン・ウィリアムズに作曲を委嘱した「ヴァイオリン協奏曲第2番」が7月24日(現地時間)タングルウッド音楽祭にて、ムター独奏、ウィリアムズ指揮ボストン響の演奏で世界初演された。翌日25日より、DG Stageで期間限定有料配信された映像を見てのレビュー。



 『ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン』のブルーレイをご覧になったリスナーならば、特典として収録していたジョン・ウィリアムズとアンネ=ゾフィー・ムターの対談映像の中で、ふたりがヴァイオリン協奏曲とおぼしき新作の誕生を匂わせるような発言をしていたのを、覚えておられるかもしれない。「曲を書くとしたら、君(=ムター)の印象に基づくポートレートにしたい」とか、「ベルクの協奏曲はオケが厚すぎて独奏ヴァイオリンが鳴らない」とか、かなり具体的な内容を語っていたので、対談映像という形で公表した以上、おそらく実現に向けた計画が進行しているのだろうと予測することは出来た。

 ふたりの対談は、2020年1月ウィーン・フィルでの共演の際に収録されたので、それから約1年半を経て、ムターのための新作、すなわち「ヴァイオリン協奏曲第2番」が初演されたことになる。独奏ヴァイオリンとオーケストラのための演奏会用作品をウィリアムズが書いたのは、「ヴァイオリン協奏曲第1番」(1976)、「ツリーソング」(2000、ギル・シャハムのための)、「マーキングス」(2017、ムターのための)に次いで、これが4作品目のはずである。

 ウィリアムズが演奏会用の協奏曲を書く時は、原則として映画音楽作品のようなキャッチーなメロディは封印し、場合によってはかなり調性感の薄い音楽も書くので、この作品が『シンドラーのリスト』のような曲ではなく、玄人好みの曲に仕上がるであろうことは、予め想像がついた。で、実際にその通りだったのだが、それだけでなく、もしかしたらウィリアムズがこの純音楽のジャンルに新しい方向性を見出し始めたのではないかというのが、これまで彼の作品を聴いてきた一(いち)ファンとしての印象である。

 演奏時間約35分の「ヴァイオリン協奏曲第2番」は、第1楽章<Prologue>、第2楽章<Rounds>、第3楽章<Dactyls>、第4楽章<Epilogue>。独奏ヴァイオリンに加え、ハープがかなり重要な役割を果たすのは、ムターのために書いた「マーキングス」の方法論を踏襲している。

 そのハープが、第1楽章冒頭で『未知との遭遇』の5音モティーフのはじめの3音を導入するのを聴いて、思わずのけぞってしまった。はじめの3音だけとはいえ、指揮台で振っているのがウィリアムズ本人なのだから、「この3音は映画と関係ありません」と否定するのは無理である。でも、見方を変えれば、たった3音だけで代表作のひとつと自分の存在をたちどころに伝えることができる作曲家なんて、そうそう存在するものではない。この3音から主題となるべき素材がオケによって導き出され、独奏ヴァイオリンが第1主題部と思しき部分を演奏し始めるのだが、美しいとは言え、1度聴いただけでとても覚えられるような旋律ではない(これに比べればベルクのほうが、ずっと易しい)。この部分がひとしきり演奏されると、オケだけのセクションに移るのだが、その響きは紛れもなく『スター・ウォーズ』、それも『帝国の逆襲』や『フォースの覚醒』以降の暗いロマンを秘めた漆黒の響きである。このセクションは明確な主題を持った音楽ではないので、サントラをある程度聴き込んでいないと、その特徴に気づかないかもしれない。その後、より優美な第2主題部を独奏ヴァイオリンが導入するが、第1主題部をシリアスな芸術音楽の象徴、第2主題部をヴァイオリンの美の象徴と考えれば、このプロローグはやっぱりムターのポートレートか、あるいはヨーロッパの伝統を継承する何かを表現しているのだろう、という想像はつく。というのは、他の楽章についても言えるのだが、このヴァイオリン協奏曲は、ウィリアムズのこれまでの協奏曲と異なり、“アメリカ”を感じさせる要素がほとんど存在しないからである。

 第2楽章は、その名の通りロンド形式で書かれているので、音楽の形としては非常にわかりやすい。ただ、ここでも、最初のオケの序奏が『宇宙戦争』か何かのような外宇宙的神秘を感じさせるサウンド(オーケストレーションが本当に素晴らしい)で始まり、ややミニマルな音形も加えながら、楽章の中ほどで『未知との遭遇』のマザーシップ到来のような輝かしいクライマックスに達する。その間も、ムターのヴァイオリンはずっと歌い続けているのだが、カデンツァ風の短いソロの後、推進力を増したオケが演奏するのは、おなじみのウィリアムズ節が全開するチェイス・シーンか何かの音楽である。

 そして第3楽章だが、個人的にはこの楽章が最もユニークで、かつ非常にショッキングな音楽だと感じた。楽章名の<Dactyls>とは、英詩の強弱弱格のことを指すが、要するに「ズンチャッチャッ」、つまりワルツのリズムである。このワルツ楽章が、ウィリアムズのウィーン・フィル指揮の体験およびウィーン滞在の影響で書かれたことは、ほぼ間違いないと思う。しかしながら、そのワルツはラヴェルの「ラ・ヴァルス」のような洗練された諧謔というよりは、むしろかなりグロテスクな皮肉と評したほうが適切である。とにかく、オケがエネルギッシュかつダイナミックに「ズンチャッチャッ」を演奏し続けるので、しまいにはホラー映画の“悪魔のワルツ”のような様相を呈してくる(ある意味で、ベルクの「管弦楽のための3つの小品」第2楽章に非常に近い)。これがウィリアムズの滞在したウィーンの印象なのだとしたら、いったい彼はウィーンで何を見てきたのだろう?

 最後の第4楽章<Epilogue>は一種のエレジーというか、悲しい結末を迎えるラストシーンの音楽である。ベルクのヴァイオリン協奏曲へのオマージュであることは疑いないが、なぜこんなに悲しいのだろう? ジェダイか誰かが亡くなったのだろうか? それとも、パンデミックの犠牲者に捧げた悲歌なのだろうか? 独奏ヴァイオリンのソロが、ベルクと同じく、最後は天使の昇天のように終わるので、なおのことそういった印象を受ける。不思議な音楽である。

 映像配信で見ただけなので、おそらく現地で配られたであろうプログラム・ノートは読んでないし、したがってこの作品がどういう意図で書かれ、どういう内容を表現しようとしたのか、本当のところはまだわからない。しかしながら、この映像を見ただけでも、これまでウィリアムズがこれまでの純音楽作品の作曲で避け続けてきた映画音楽的な語法にある程度歩み寄りながら、映画音楽作曲でも委嘱作品の作曲でもない、“ウィリアムズ自身の音楽”を書く意欲を見せ始めたことは確かである。

 これだけの作曲家でありながら、ウィリアムズが交響曲(1966)を1曲しか書いておらず、しかも出版もせずに事実上、演奏禁止にしてしまっているのが非常に意外だが、それは“自分のため”ではなく、“誰かのため”の作曲――スピルバーグであれ、ルーカスであれ、ムターであれ――こそが自分の使命だという態度を、彼が半世紀以上にわたって頑なに守り続けてきたからだろう。その態度に少し変化が見えてきたのではないかと、今回の「ヴァイオリン協奏曲第2番」世界初演の映像配信を見て感じた。

 アンコールは、やはりムターの独奏とウィリアムズの指揮で『スター・ウォーズ クローンの攻撃』~「アクロス・ザ・スターズ」の改訂版。

久石譲指揮ワールド・ドリーム・オーケストラを聴いて(その2)


前島秀国 / 更新日:2021年4月26日


緊急事態宣言発令により、はからずもツアー最終日となってしまった久石譲指揮新日本フィル ワールド・ドリーム・オーケストラ(W.D.O.)の4月24日公演より、プログラム前半に演奏された久石の《交響曲第2番》(世界初演)の演奏評。



《交響曲第2番》は、もともと2020年9月にパリとストラスブールで世界初演が予定されていた作品だが、コロナ禍により世界各地での演奏が2022年4月以降に延期されたため、今回のW.D.O.公演が世界初演となった。第1楽章のタイトル「What the world is now?」に端的に表れているように、昨年のパンデミックの最中に久石が作曲した作品である。

私見では、《交響曲第2番》は近年久石が演奏会用作品で好んで用いている変奏曲形式への関心と、数え歌もしくはわらべ歌のようなシンプルな旋律からいかにシンフォニックな音楽を構築していくかという実験を試みた作品だと思う。全体は3楽章からなるが、3つの楽章すべてが変奏曲形式で書かれた交響曲というのは、ほとんど皆無ではないかと思う。もともとミニマル・ミュージックはーー主題なりモチーフを繰り返しながらそれを変形していくという意味でーー変奏曲形式と相性がいいし、そもそもミニマル自体が変奏技法のひとつなのではないかとみなすことも出来る。とは言え、それぞれの楽章の変奏形式に工夫を凝らし、飽きがこないように構成しなければ、交響曲として成立しない。その危険を敢えて承知した上で変奏曲形式にこだわりつつ、ミニマリストならではの交響曲を書き上げたところに、作曲家としての久石の野心が見える。

第1楽章「What the world is now?」は、全曲の中で最も凝集度の高い変奏曲として書かれており、リズムを重視した推進力あふれる音楽という意味では、ベートーヴェン的なアプローチと言えるかもしれない。最初にチェロで変奏動機がはっきり導入されるので、音楽の流れ自体は非常に追いやすい。ただし、実際の変奏プロセスは大変に濃密であり、オーケストラ内で複数の変奏が同時多発的に起こっているような印象すら受ける。にもかかわらず、楽章全体を貫くリズムは常に淀みなく進んでいくので、いわば車窓の眺めに見惚れているうち、気がついたら目的地に着いていた、という感じである。その眺めは自然の風景というより、オーケストラという“工場”のあちこちから色鮮やかなライトが明滅する“工場夜景”と表現したほうが適切かもしれない。しかもその“工場”は、夜間にも関わらずフル回転しているのである。

ユーモアにあふれた第2楽章「Variation 14」は、いわばスケルツォ楽章の役割を果たしている。テーマと14のヴァリエーションで構成されており、形式的には伝統的な変奏曲に最も近い(つまり各変奏のキャラクターがはっきりしている)。個人的には、いくつかのヴァリエーションでガーシュウィンやバーンスタインの匂いを感じた。その理由のひとつは、それらのヴァリエーションで中南米風の打楽器が活躍するからだと思う。厳密にはワールド・ミュージックではないけれど、南国な日差しを思わせるカラフルなオーケストレーションの効果は絶大で、理屈抜きに楽しく、ノレる。昨年の「Music Future Vol.7」で室内オーケストラ・ヴァージョンを聴いた時、このキャッチーな楽章は久石の近年の代表作のひとつになるのではと確信したが、今回の正式な世界初演を聴いても、その確信は全く変わらなかった。

そして、全曲の中で最も長い第3楽章「Nursery rhyme」(約15分)は、驚くべきことに《かごめかごめ》風のわらべ歌(厳密には全く同じではなく、多少変形が加えられている)を主題を用いた変奏曲として書かれている。常識的に考えれば、この種のわらべ歌を主題にして管弦楽のための変奏曲を書く場合、意識的にせよ無意識的にせよ、子供の声域に近い音域で最初に主題を導入するだろう。ところが、久石はその裏をかき、子供の声域から最も遠いコントラバスのソロで主題を重々しく導入するのである! その主題はわらべ歌というより、まるで哀歌か何かのように足を引き摺りながら、低弦部によって変奏が加えられていく。この部分を聴いて、僕は即座にヘンリック・グレツキあるいはアルヴォ・ペルトの音楽を思い起こした。つまり、ホーリー・ミニマリズム特有の“東欧の悲しみ”が、このアダージョの変奏部分にはっきりと現れている。我々日本人は、変奏主題が《かごめかごめ》に由来すると認識するので、いっそう大きなショックを受けるかもしれない。だが、そうした文化的背景を持たない海外のリスナーが聴けば、また違った印象を受けるだろう。

アダージョの変奏が続いた後、第3楽章は途中からアップテンポになり、同じ主題を用いた変奏がエネルギッシュかつダイナミックに展開されていく。今までのアダージョの部分を4楽章形式の交響曲の緩徐楽章とみなせば、この《交響曲第2番》は実質的に4楽章形式で書かれた作品と捉えることも出来るし、あるいは、アダージョの部分が伝統的なソナタ形式の主題提示部、アップテンポの精力的な変奏部分が展開部と考えることも出来る。要は、その2つの側面を備えているわけで、これは非常に面白い作曲上のアイディアだと思った。アップテンポの部分が巨大なクライマックスを築き上げた後(ここで曲が終わったと感じた聴衆も少なからずいたようである)、改めて変奏主題がマエストーソでーー楽譜にそう指示されているかどうかわからないがーー再現し、荘重かつ誇り高く変奏主題が演奏される。そしてコーダでは、変奏主題は再びコントラバスの静かなソロに回帰していく。

大変にドラマティックな構成を持つ楽章であり、それが変奏曲であることを意識しなくても、音楽から伝わってくる物語性に圧倒された。もし、僕が海外の音楽評論家だったら、例えばこんな風に書くかもしれない。「久石は、江戸時代から伝わる童謡主題を悲痛に導入することで、第2次世界大戦で日本人が受けた悲しみを前半部のアダージョで象徴した後、主題のエネルギッシュな変奏によって20世紀後半の日本の経済的成長と躍進をダイナミックに表現し、さらにその主題をサムライのようなマエストーソで今一度再現することによって、日本人のアイデンティティの在り処を問いかけているのかもしれない」。これはあくまでもひとつの解釈だが、聞き手は自分の関心と音楽的経験に応じて、この楽章からさまざまなストーリーを引き出すことが可能である。

同時にこの《交響曲第2番》は、オーケストラにとってのリトマス試験紙のような性格を持つ作品として書かれているのではないか、という印象も受けた。今回世界初演したW.D.O.すなわち新日本フィルは、どの楽章も精緻に、かつ真摯に演奏していたが、普段からミニマルを得意としているオケならば第1楽章は全く違った感触になるだろうし、ラテン的な性格の強いオケならば第2楽章はもっと“遊び”が出てくるだろう。第3楽章の東欧的なアダージョに敏感に反応するオケもあるだろう。したがって、今後予定されている世界各地の演奏で、ずいぶんと性格が変わってくる可能性がある。そういう意味では、今後の再演で《交響曲第2番》がどのように成長していくのか、大いに期待したい。

久石譲指揮ワールド・ドリーム・オーケストラを聴いて(その1)


前島秀国 / 更新日:2021年4月26日


毎夏ツアー公演を開催している久石譲指揮新日本フィル ワールド・ドリーム・オーケストラ(W.D.O.)が、2019年以来となる演奏会を3都市で開いた。東京で予定されていた3公演のうち、緊急事態宣言の発令で4月25日と27日の公演は中止。はからずもツアー最終日となった24日が幸運にも聴けたので、レポートする。



この演奏会に限らないが、今回の緊急事態宣言の突然の発令と要請により、GW前の週末に都内で公演を予定していた多くの演奏団体とその関係者は、非常に苦しい対応を迫られることになった。もともとワールド・ドリーム・オーケストラ(以下、W.D.O.と略)は、千穐楽の4月27日に有料ライブ配信を予定していたのだが、会場の東京芸術劇場が東京都の緊急事態措置の一環として4月25日から臨時休館に入ったため、たとえ無観客であっても公演が不可能となった。4月24日と25日に公演を予定していたすみだトリフォニーホールも同様である。ならば、かろうじて公演が可能となった4月24日のトリフォニー公演を映像収録して配信すればいいじゃないかと思うかもしれないが、そもそも配信用の映像収録というものは、スマホやデジカメで撮るような簡単なものではない。それに、W.D.O.はここ数年ーー著名な海外オーケストラの来日公演を含めてーー日本で最もチケットの入手が困難なオーケストラ公演となっている。24日公演のチケットも当然のことながらすべて完売し、事実、当日の着席率はほぼ100%に近かった。そういう状況の中で、仮に映像機材と収録スタッフが確保できたとしても、カメラ席を急遽設定することは物理的に不可能である。つまり「無観客開催もしくはオンラインの活用」と突然言われても、それはあくまでも現場の実情を知らないお役所の発想に過ぎない。

ともかく、京都1回、神戸1回、東京3回の計5公演を予定していたのが計3公演に減り、しかもライブ配信も行われなかったW.D.O.公演だが、このままでは誰もレポートを残さないことになってしまう(公演記録用の映像収録だけは行われたが、簡易的なものなので配信等はされないとのこと)。交響曲のような大作の世界初演のレポートは、本来ならば少し時間をかけて自分の考えを書きたいところだが、そうも言ってもいられないので、ここに間に合わせのレポートを書き記しておく。

2004年に久石と新日本フィルが始めたW.D.O.は、先述のようにここ数年チケットの入手が困難なこともあり、いわゆるクラシックのコアなファンにとっては縁遠い存在かもしれない。W.D.O.の歩みを紹介するのはここでは省略するが、ここ数年の活動内容に限って言えば、大編成を用いた久石の演奏会用作品の初演、久石が手掛けた商業用音楽(映画音楽などのエンタテイメント作品)の演奏、そして久石が作曲を手掛けた宮崎駿監督作品(現時点で長編が10本存在する)のサントラを物語順に沿って構成した交響組曲の初演、という3本柱でプログラムが構成されている。演奏会用作品は、当然のことながらミニマリストとしての久石が全力で作曲した芸術音楽なので、内容も相当にハードコアだ(もちろん、それは必ずしも難解な音楽ということを意味しない)。つまり、W.D.O.は「アートとエンターテイメント」の両輪で成り立っているプロジェクトなのであって、決してポップス・オーケストラなどではない。

当日の演奏順と異なるが、まずプログラム後半の曲から書いていく。

最初は、久石が昨年作曲した商業音楽を組曲化した《Asian Works 2020》(世界初演)。<Will be the wind>(LEXUS CHINAの委嘱)、<Yinglian>(香港映画『Soul Snatcher 赤狐書生』のラブテーマ)、<Xpark>(台湾の水族館Xparkの館内音楽の1曲)の3曲からなるが、これは先に述べたW.D.O.の「エンターテインメント」の部分にあたる。

そして、プログラム後半の目玉である、映画『もののけ姫』の音楽を交響組曲化した《Symphonic Suite “Princess Mononoke” 2021》。久石は、2016年のW.D.O.公演ですでに『もののけ姫』の交響組曲を演奏しているが、その時の結果に必ずしも満足がいかなかったようで、今回、新たに改訂を加えた2021年ヴァージョンを披露した。作曲家自身のプログラムノートによれば、改訂のポイントは大まかに3つあり、1つめは前回の組曲で割愛していた「世界の崩壊のクライマックス」を加えたこと(サントラの原曲はシンセサイザーを用いているが、これをコントラバスのグリッサンドなどに置き換えている)、2つめは組曲中盤に登場する主題歌のキーをソプラノ歌手が歌いやすいように変えたこと、3つめは久石が海外で演奏しているフィルムコンサート用のオーケストレーションを導入したことである。とりわけ、「世界の崩壊のクライマックス」(本編の物語ではシシ神殺しの部分にあたる)の音楽が加えられた効果は絶大で、これにより、宮崎監督が意図した「破壊と再生」の物語が組曲全体を通じてきわめて明確に伝わるようになった。主題歌のパートを歌ったのは、久石とはこれまで何度も共演を重ね、2016年時の交響組曲でもソプラノを披露した林正子(今回の組曲の最終曲「アシタカとサン」も、彼女がヴォーカル・ヴァージョンを歌った)。いまや日本を代表するオペラ歌手のひとりとなった林が歌う「もののけ姫」は、当然のことながら映画の時のカウンターテナーの印象とは大きく違う。よりエモーショナルで情念のこもった歌になっていた。

そして特筆したいのが、W.D.O.すなわち新日本フィルの気魄に満ちた演奏。オープニングの大太鼓の一打からこれまで聴いたことのないような緊張感を漂わせ、演奏全体を通じて何かに取り憑かれたような高揚感を放っていた。緊急事態宣言により、翌日以降の演奏を中止せざるを得なくなった急転直下の状況変化が無念と悔しさを積もらせ、だからこそ、この日の演奏で完全燃焼しなければならないという使命感にオケ全体が駆り立てられたのは、間違いないだろう。僕は『もののけ姫』の生演奏を比較的多く聴いているほうだと思うが、当夜のW.D.O.は過去の「もののけ姫」の演奏をすべて凌駕していただけでなく、およそオーケストラというものが表現しうる迫真性の限界にまで到達していたように思う。これが然るべき形で映像収録出来なかったのは本当に悔やまれるが、そうした不条理な状況は、まさに『もののけ姫』の世界そのものでもあった。(その2に続く)
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