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スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』を見て(その2)


前島秀国 / 更新日:2022年1月2日


レナード・バーンスタイン作曲、スティーヴン・ソンドハイム作詞の名作ミュージカルを、スティーヴン・スピルバーグ監督が再映画化した『ウエスト・サイド・ストーリー』を完成披露試写会で見てきた(12月23日、TOHOシネマズ日比谷Screen 1)。たいへん長くなったので、映画本編のレビュー(ネタばれ有)とサントラのレビュー(ネタばれ無)に分け、さらに本編のレビューを2つに分けて書き記す。以下、「その2」(ネタばれ有)。



「その1」で述べてきた“分断”は、すべて横方向のホリゾンタルな“分断”、つまり民族問題や移民問題に起因する“分断”だが、スピルバーグはそれだけでなく、縦方向のヴァーティカルな“分断”、すなわち経済的格差の問題もこの映画の中で示している。それを具体的に表現したのが、<プロローグ>が流れる本編冒頭のオープニングだ。

1961年版もスピルバーグ版も、ニューヨークの俯瞰の空撮で始まるところは同じだが、1961年版のカメラが下町の町並みから直ぐにバスケット・コートに切り替わるのに対し、スピルバーグ版のカメラは上空から垂直方向に降りてくると、なんと瓦礫の山を映し出す。しかも、その瓦礫の山の前には「リンカーン・センター建設予定地」という標識が立っているのだ(1961年版にも実は瓦礫の山が一瞬だけ登場するが、それが再開発予定地だということは一切言及されていない)。

ご存知のようにリンカーン・センターはアメリカを代表する“芸術の殿堂”だが、それはあくまでも富裕層のための“芸術の殿堂”であって、決して庶民のためのものではない。その芸術の殿堂を建てるために再開発が進むアッパー・ウエストサイド地区で、解体業か何かに就いている肉体労働者というのが、スピルバーグ版におけるシャークスとジェッツの基本設定である。つまり彼らはーーあくまでもこの映画が描いているところに従って言えばーー文字通り“底辺”で暮らすことを余儀なくされた人々なのだ。その彼らが瓦礫の中を走り回り、色鮮やかなペンキをぶち撒ける抗争を描いた映像は、もはや黒澤明の『どですかでん』と全く変わらない。

この如何ともし難いヴァーティカルな“分断”、すなわち経済的格差の問題をはっきり描いているのが、プエルトリコ系のアニータたちが歌う有名なナンバー<アメリカ>のシーンである。1961年版ではアパートかビルか何かの屋上で歌い踊るという設定になっているが、スピルバーグ版では、なんとアニータたちが洗い場で洗濯板をこすっているシーンから、このナンバーを歌い始める。しかもスピルバーグは、おそらくバーンスタインの原曲のオーケストレーションからヒントを得て、このシーンを着想したと思われるのである!

バーンスタインの原曲、すなわち1957年ブロードウェイ初演版の楽器編成では、<アメリカ>のイントロ部分で中南米の打楽器ギロが「ギコギコ」とリズムを刻む。バーンスタイン(と編曲者たち)がギロを入れた最大の理由は、おさらく音楽にラテンアメリカらしい音色とローカリズムと加えたかったからだろう。しかしながら、ギロは洗濯板に形状が似ているばかりか、主にジャズで用いられるウォッシングボード(文字通り「洗濯板」から生まれた楽器)と酷似した音を出す。そこにスピルバーグは注目し、原曲のギロを洗濯板が出す“ノイズ”と読み替えているのである(実際、このシーンを劇場で見ると、ギロの音がはっきり聴こえるようにミックスされている)。しかもソンドハイムの歌詞の中には「洗濯機が欲しい」「洗うものなんかあるのか?」といったやりとりが登場するので、<アメリカ>のナンバーを洗い場のシーンで始めるのは非常に論理的だし、また説得力がある。

かくして、アニータたちは洗い場を飛び出し、アメリカン・ドリームを実現したいと街中でダイナミックに歌い踊るわけだが(アニータ役のアリアナ・デボーズが本当に素晴らしい!)、彼女たちの背後、はるか遠く彼方にエンパイア・ステート・ビルが蜃気楼のように映し出される(画面の前景で繰り広げられるダンスが圧巻なので、もしかしたら気付かない観客も多いかもしれないが、画面の奥まで注意して見るとわかる)。言うまでもなく、エンパイア・ステート・ビルはアメリカそのもの、つまりアメリカン・ドリームの象徴的存在だが、どう考えてもアニータたちの手には届かない。音楽とダンスが躍動感に溢れれば溢れるほど、ヴァーティカルな“分断”つまり経済的分断の凄まじさが逆に強調されてくる。その厳しい現実を、スピルバーグの映像は容赦なく突きつけているのである。

スピルバーグ版は、原曲がブロードウェイで初演された1957年当時を舞台設定に用いているが、ここまでお読みいただいたらおわかりのように、スピルバーグがこの映画で描いているのは60年以上前にあった“分断”ではなく、今の世の中に厳然として存在する“分断”である。その“分断”は、60年前よりもさらに酷くなっているかもしれない。それを示すため、今回のスピルバーグ版では、1961年版でアニータを演じたリタ・モレノが新キャラクターのヴァレンティーナ(原曲に登場するドラッグストア店主ドクの未亡人という設定だが、実質的にはドクを女性に置き換えた役柄)を演じ、<サムウェア>をソロ・ナンバーとして歌う。現在90歳のモレノが「平穏で静かで開かられた、私たちのための場所がどこかにあるはず」と歌う<サムウェア>は、もはや希望の歌というより、怒りと絶望と諦念が入り混じった警告の歌のように聴こえてくる。モレノが1961年版でアカデミー助演賞を獲得してから60年あまり、<サムウェア>の歌詞が実現されるどころから、その逆に向かっているとしか思えない世界の現状を、おそらく彼女は誰よりも痛感しているはずだ。そんなモレノの魂の歌は、どんな名歌手や美声の持ち主でも太刀打ち出来ない迫真性に満ち溢れている。正直に告白すると、彼女の歌唱シーンで、僕は初めて泣いた。

他のキャストについては、サントラ盤のレビューで詳しく述べたいと思うが、ここではひとりだけ、トニー役を演じたアンセル・エルゴートについて触れておきたい。スピルバーグ版のキャストの中で唯一知名度があるエルゴートだが、カメラのアングルによっては若き日のマーロン・ブランドそっくりに見えるエルゴートの好演を見て、僕は即座にブランド主演の『波止場』を思い浮かべた。あの映画も舞台はニューヨーク(ロケ地は対岸のニュージャージーだが)、物語は労働者同士の抗争と殺人、しかも音楽は他ならぬバーンスタインと、いくつかの点で『ウエスト・サイド・ストーリー』と共通点がある。おそらくスピルバーグは、そうしたアメリカ映画の伝統を踏まえた上で、この映画を作ったのではないかと思う。若い世代が見ることのなくなった古き良きアメリカ映画を、忘却という“分断”の向こう側に置き去りにしないために。

そして、あの最後の銃声。あんなに腹の底まで響く銃声を劇場で聴いたのは、マイケル・チミノ監督『天国の門』の70ミリ上映を見て以来だ。『天国の門』も今回のスピルバーグ作品と同様に移民問題と“分断”に焦点を当てた作品だが、40年前のハリウッドではタブーとされていたテーマだったので、結果的にチミノは映画界から抹殺された。それから40年、スピルバーグの『ウエスト・サイド・ストーリー』は、エンタテインメントの枠の中にギリギリ踏み留まりながら、もはや“分断”をタブーとして片付けられなくなった世界の現状を真正面から描いている。

スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』を見て(その1)


前島秀国 / 更新日:2022年1月2日


レナード・バーンスタイン作曲、スティーヴン・ソンドハイム作詞の名作ミュージカルを、スティーヴン・スピルバーグ監督が再映画化した『ウエスト・サイド・ストーリー』を完成披露試写会で見てきた(12月23日TOHOシネマズ日比谷Screen 1)。たいへん長くなったので、映画本編のレビュー(ネタばれ有)とサントラのレビュー(ネタばれ無)に分け、さらに本編のレビューを2つに分けて書き記す。ますは、「その1」(ネタばれ有)。



スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』は、一言で要約すると“分断”の映画である。ジェローム・ロビンズとロバート・ワイズが1961年に映画化した『ウエスト・サイド物語』(以下、1961年版と略)が、1957年にブロードウェイで初演された舞台版が、あるいは原作となったシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」が、社会の“分断”を扱っていたという意味で、今回のスピルバーグ版も“分断”という問題を真正面から扱っている。だが、それだけではない。今回のスピルバーグ版の脚色も手掛けたトニー・クシュナーが脚本を執筆したスピルバーグの過去作、すなわち『ミュンヘン』と『リンカーン』が民族の“分断”や政治の“分断”を描いていたという意味でも、この映画は紛れもなくスピルバーグの作品である。そしてもうひとつ、映画作家としての彼が危機感を抱いている“分断”、すなわち現代の若い世代が過去の名作を見なくなり、映画館に足を運ばなくなったという意味での“分断”も、この映画は暗に描いている。論点を明確にするため、まずは1961年版とスピルバーグ版の最大の違いを指摘しておこう。

70mm映画全盛時代に作られた1961年版は、現代の視点で見直すと、基本的にはブロードウェイの舞台の臨場感を70mmの巨大なスクリーンで再現しようとした一種のライブビューイング作品である。ニューヨークの現地ロケは本編冒頭の<プロローグ>などごく一部に限られ、大半はスタジオのセットの中で演じられている。有名なダンス・ナンバー<ダンス・アット・ザ・ジム>は、1961年版では極端なローアングルで撮影され、カメラはほとんど動かない。正月にNHK BSで放映される8K版または4K版を見ればわかるように、1961年版は客席の最前列で“ショー”を見る視点で作られている。セットの書き割りもバレバレだし、プエルトリコ側の登場人物を演じるキャストたちは、極端なまでに黒さを強調した不自然なメイクをしている。そのキャストが踊る1961年版のダンスは――ジェローム・ロビンズの振付は60年以上前の時点では非常に革新的だったけれど――現代の激しいダンスと比較したら、はっきり言って盆踊りレベルだ。どこが“ニューヨークの躍動感を表現した名作ミュージカル映画”なのか、大半の若い世代は途方に暮れてしまうだろう。今の観客は、もっとリアルな映画表現に慣れている。名作だから1961年版を見ろと言っても、土台無理な話なのだ。古い世代のノスタルジーを押し付けられても、若い観客は単に当惑するだけだろう。

おそらくスピルバーグは、1961年版が抱えるさまざまな問題を充分認識した上で、今回のリメイクを作ったのだと思う。<ダンス・アット・ザ・ジム>の比較で言えば、スピルバーグ版はとにかくカメラがよく動く。ライブビューイングのように舞台を眺めるのではなく、作品が描く世界観の中にカメラが入り込んでいくという、スピルバーグ得意の映像表現が最大限の効果を発揮している。そしてダンスの振付も、基本的にはジェローム・ロビンズのオリジナルを踏襲しながら、より複雑で激しいものにアップデートされ、現代のミュージカル映画として鑑賞に耐え得るリアルなダンス・シーンに仕上がっている。

だが、スピルバーグがカメラを動かせば動かすほど、リアルな表現を追求すればするほど、この作品が描く“分断”は、ますます深刻になっていく。しかも、その“分断”の亀裂は、ほとんど修復不可能なレベルにまで達しているのだ。

今回のスピルバーグ版では、プエルトリコから来た移民すなわちシャークス側のキャストが、かなりの分量のセリフをスペイン語で話す。日本語字幕版では、スペイン語の部分も全部訳されているが、アメリカで上映されたオリジナル版は、スピルバーグの演出意図により、スペイン語の部分に英語字幕が付けられなかったという。したがって、スペイン語を話せない英語話者の観客には、シャークスたちが正確に何を言っているのか全く理解できない。実際、物語に登場するシュランク警部補(だったと思う)は「スペイン語じゃわからない、英語で話せ」というセリフまで口にする。言葉が通じない状況は、無理解の第一歩、ひいては“分断”の第一歩である。かつてスピルバーグが5音のモティーフで地球人と宇宙人を“会話”させた『未知との遭遇』のような、あるいは地球外生命体に「Phone Home」と口にさせた『E.T.』のような、相手となんとか通じてうまくやっていけるという楽観主義は、もはやここには全く存在しない。驚くべきことに、今回のスピルバーグ版では、トニーとマリアが地下鉄に乗ってデートに出かけるというエピソードが登場するが、ふたりが教会の中に入ると、トニーは紙に記したスペイン語を辿々しく読み上げ、マリアに愛に告白する。ある意味で『E.T.』の「Phone Home」の再現もしくはヴァリエーションとも言えるが、それを聞いたマリアはトニーのスペイン語を一笑に付す。そういう問題じゃないと言わんばかりに。もはや、言葉が通じる通じないの問題ではない。実際、ふたりはデートの最中も、お互いの立場を巡って口論を始める有様である。それが、リアルな現実の姿なのだ。今回のスピルバーグ版が日本語吹替上映されるのかどうか知らないが、もしも監督の演出意図を踏まえた上で吹替版を作るとしたら、スペイン語の部分を(多くの日本人が話せない)アジア近隣諸国の言語に置き換えるべきだろう。そうすれば、スピルバーグの問題意識が我々日本人にもはっきり伝わるはずである。

スピルバーグが意図した“分断”の演出は、言語だけでなく、実は音楽にも波及している。1961年版を繰り返し見たり、あるいは舞台版の鑑賞に何度も足を運んだことのある観客ならば、スピルバーグ版で最初に歌われるナンバーがバーンスタインの音楽ではなく、原曲のミュージカルと全く関係ないスペイン語の歌だという事実に、衝撃を覚えるはずだ。そのナンバー、すなわち<プロローグ>の後にシャークスが歌う<ラ・ボリンケーニャ>は、19世紀末までスペイン領だったプエルトルコ独立運動の中から生まれた革命歌である(しかもスピルバーグは、現在プエルトリコで歌われている改訂版の歌詞ではなく、革命運動をはっきり表現した1868年版の歌詞をわざわざキャストたちに歌わせている)。プエルトリコは現在もアメリカの自治領なので、<ラ・ボリンケーニャ>は厳密な意味での“国歌”とは言えないが、スピルバーグが映画の中で国歌のようなアンセムをはっきり流したのは、『ミュンヘン』においてイスラエル首相ゴルダ・メイアがモサドの特殊部隊に暗殺指令を出すシーンで流したイスラエル国歌以来、おそらく初めてではないかと思う。これらアンセムが象徴しているのは、言うまでもなく民族の統合あるいは団結である。その問題がある限り、“分断”は簡単に埋められないという厳しい現実を、スピルバーグは映画の冒頭ではっきり示しているのである。(その2に続く)

スティーヴ・ライヒ85歳記念の最新作を聴く


前島秀国 / 更新日:2021年10月26日


10月3日に85歳の誕生日を迎えたスティーヴ・ライヒの最新作「Traveler's Prayer」が、10月16日(現地時間)コリン・カリー・グループとシナジー・ヴォーカルズ(指揮はカリー)のアムステルダム・コンセルトヘボウ「Steve Reich 85!」公演で世界初演された。10月現在、オランダの公共ラジオNPO Radio 4の公式サイトとYoutubeでライブ映像が無料配信されている。



スティーヴ・ライヒ・アンド・ミュージシャンズ(指揮者を置く時はスティーヴ・ライヒ・アンサンブル)が実質的に活動を停止している現在、ライヒ作品の演奏の第一人者と言えば、おそらく誰もが打楽器奏者コリン・カリーの名前を挙げるだろう。2017年のコリン・カリー・グループ&シナジー・ヴォーカルズの来日公演でカリーが指揮した「テヒリーム」の演奏をその場で聴いたか、あるいはその公演のNHK-BSでの放送を見た読者なら、不当にもこれまで“宗教臭い”というレッテルが貼られてきた「テヒリーム」が、あまりにもスリリングかつエモーショナルな音楽に聴こえてきて驚かれたはずである(ライヒ自身、「テヒリーム」を自分の最高傑作とみなしている)。その公演後、ライヒがカリーのために新作の作曲を計画しているという話を耳にしたが、ようやくその作品がライヒ生誕85年記念の一環として世界初演された。

曲名の「Traveler's Prayer(旅行者の祈り)」というのは、何らかの交通機関を使う旅行者が、旅の安全を祈願して暗誦する祈りのことで、その中からライヒは次の3つを選んで歌詞に用いた。まず、出エジプト記23:20「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」(新共同訳)、それから創世記49:18「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。」(新共同訳)、そして詩篇121「あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」(新共同訳)となっている。

この歌詞だけ見てみると、ライヒがコリン・カリー・グループとシナジー・ヴォーカルズのツアー演奏の無事と成功を祈った作品と解釈することも出来る。長年、ライヒが彼ら彼女らに寄せる全幅の信頼から考えれば、そういう個人的な作品を作曲したとしても、べつだん不思議なことではない。しかしながらライヒは、この作品を昨年のパンデミックの真っ最中に作曲した。「(新型コロナ)ウィルスが、歌詞の言葉の重みを変えた」と彼自身が作曲ノートに書いているように、「旅行者」あるいは「旅」の意味は、パンデミック以前と以後で全く変わってしまっている。特にロックダウンを実際に経験した欧米なら、なおさらだ。したがって、この作品は、ライヒが懇意にしている特定の演奏者のための祈りというより、もっと普遍的な祈り――敢えて言えば人類全体への祈り――と捉えるべきなのだろう。

で、この歌詞(ヘブライ語)を4人の歌手(ソプラノ2、テノール2)がカノンで歌っていくのだが、もし、作曲者の名前を伏せてこの作品を聴いたら、おそらくほとんどの人はルネサンス以前の声楽曲に現代的な伴奏パートを最小限に加えた作品と錯覚するのではないかと思う。これまでライヒのトレードマークとして親しまれてきたパルスの使用もないし、そもそも拍節感というものがほとんど存在しない。ライヒが影響を公言しているペロティヌスよりも、リズム感がさらに希薄である。ほとんど無時間的というか、まさにEternal(永遠なる主)を指向している音楽だ。こういう音楽をライヒが書くようになるとは、おそらくほとんどの人が予想していなかったと思う。

僕が最初にこの作品を聴いた時、真っ先に連想したのはライヒのオペラ第2作「スリー・テイルズ」、特に第2幕「ビキニ」の部分だが、実際、「Traveler's Prayer」の薄いオーケストレーションは「ビキニ」に酷似しているし、それより何より、両者はともに旧約聖書のテキストを歌詞に用いているという共通点がある。かつてライヒは「声楽曲の作曲は、器楽曲の場合と全く違う。歌詞の意味を伝えなければいけないから」と僕に教えてくれたことがあるが、彼が旧約聖書のテキストに作曲する場合、基本的なアプローチはさほど大きく変わらないのかもしれない。もっとも、今回の場合は逆行カノンや転回など、今まで彼が用いなかった技法も使われているが、全体的な印象としては、やはり「永遠なる時間」の音楽である。

もうひとつ言えるのは、ライヒがこの作品ほど声の響きの美しさを歌手たちから引き出した作品は、他に「テヒリーム」しか存在しないのではないかという点である(実際、今回のコンセルトヘボウ公演では「Traveler's Prayer」の前に「テヒリーム」が演奏された)。ただし、スコアを見る限り、「Traveler's Prayer」は「テヒリーム」に要求されているマイクとPAの指定がない。明らかにライヒは、コンセルトヘボウのような響きの良いホール、つまり声楽が広い空間に美しく響き渡るコンサートホールを前提にして作曲している。どんな複雑なリズムも1音足りとも聴き逃さないようマイクで正確に拾って伝えるという、これまで彼が頑なに貫いてきた厳しい作曲態度からは、絶対に「Traveler's Prayer」のような声楽曲は生まれない。わかりやすく言えば、「Traveler's Prayer」はホールを楽器の一部とみなし、その響きを前提条件として書かれた、初のライヒ作品なのではないかと思う。当然のことながら、生演奏で聴かなければ意味がない作品である。だからこそ、ライヒがこの作品の歌詞に託した作曲意図が伝わってくるのだ。演奏者も聴き手も、平穏無事に演奏会場を訪れる「旅」が出来る世の中に戻って欲しいという、祈りのメッセージが。

なお、スコアに明記されているように、「Traveler's Prayer」は東京オペラシティ文化財団が共同委嘱者に名を連ねており、ライヒ自身もここ最近のインタビューで「東京でも演奏予定がある」と明言しているので、それほど遠くない将来、この作品を東京でも生の響きで聴ける日が訪れるのではないかと思う。

YoutubeでのURL:
https://youtu.be/xPw5GBJGUvU
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