前島秀国の音楽日記をイッキ見

映画『マエストロ:その音楽と愛と』を観て(その2)


前島秀国 / 更新日:2023年12月20日


レナード・バーンスタインの生涯を描いたNetflix映画『マエストロ:その音楽と愛と』のレビューの続き。こちらはサントラ盤のレビューを兼ねている。映画本編のレビューは(その1)を参照のこと。ネタバレ全開で書く。



(その1)でも書いたように、この映画は『マエストロ:その音楽と愛と』というより「フェリシアとレニー、ときどきバーンスタインの音楽」と呼ぶのがふさわしい作品だが、そのバーンスタインの音楽に関しては、非常に面白い選曲と使われ方がなされている。有名な《キャンディード》序曲はエンドロールで流すだけだし、《ウエスト・サイド・ストーリー》に至っては映画第2幕で描かれる夫婦の不和の始まりを告げる音楽として、文字通りの<プロローグ>が用いられているにすぎない。有名曲中心にレコード会社がコンパイルするようなベスト盤とは完全に一線を画しているが、そのかわり、レナード・バーンスタインという作曲家の多様性が見事に浮かび上がってくる選曲だと思った。それだけでも、この映画が製作された意義が充分に存在する。たとえ映画本編で描かれる人間ドラマに共感できなくても、サントラ盤の収録曲(物語順に配列されている)を聴けばバーンスタインの音楽的業績をたどることがある程度可能なので、映画本編を繰り返して観るより、サントラ盤を聴いているほうがずっと楽しい。

映画第1幕の冒頭に登場する『波止場』組曲(もともとエリア・カザン監督の同名映画のスコアとして書かれたもの)については、すでに(その1)で触れた通りだが、この第1幕で絶大な効果を発揮しているのは、バーンスタインの作品の中では比較的知名度の低いバレエ《ファンシー・フリー》と、映画化された『踊る大紐育』に比べて原曲が知られているとは言い難いミュージカル《オン・ザ・タウン》の音楽である。特に英語の「fancy-free」が「恋に自由奔放」という意味だと知れば、《ファンシー・フリー》の選曲に裏の意味――レニーは必ずしも理想の夫ではなく、生涯を通じて“男癖”を隠さなかった――が込められていることがわかるだろう。

ニューヨーク・フィル・デビュー直後、ジェローム・ロビンズ(マイケル・ユーリー)らが集うロフトでレニーとコープランド(ブライアン・クラグマン)が《ファンシー・フリー》の<バリエーション1(ギャロップ)>を連弾するシーンは、短いながらも鮮烈な印象を与えるし、フェリシアが初めて登場するシーンでは、《オン・ザ・タウン》の<ロンリー・タウン(パ・ド・ドゥ)>が非常にインパクトのある形で流れてくる。原曲の《オン・ザ・タウン》において、このパ・ド・ドゥは主人公ゲイビーが「愛がなければニューヨークは孤独な街」と歌った後に流れてくるナンバーなので、多少大げさな音楽に聴こえるにしても(映画館での上映ではかなりの大音量で流れてくる)、フェリシアに恋の予感を感じさせるテーマの役割はしっかりと果たしていると言えるだろう。もし、同じような文脈で書かれた《ウエスト・サイド・ストーリー》の<何か起こりそう Something’s Coming>を使ったら、おそらくほとんどの観客は映画化された『ウエスト・サイド物語』の場面を即座に想起してしまうに違いない。その意味でも、原曲の文脈を踏まえながら物語の流れに配慮した絶妙な選曲である。それから映画の第1幕中盤、クーセヴィツキー(ヤセン・ペヤンコフ)との会食を抜け出したレニーとフェリシアがブロードウェイの劇場に駆け込み、《ファンシー・フリー》の<3人の水夫の登場>のダンスを眺める――そのうち、レニーが水夫のひとりとして踊り始める!――シーンは、理屈抜きに楽しい。これだけでもこの映画を観る価値があるが、そのシーンの終わり、3人の水夫が《オン・ザ・タウン》の有名曲<ニューヨーク・ニューヨーク>を歌い始めた瞬間、映画は躊躇なく次の場面に移ってしまう。音楽ファンなら、歌をフルバージョンで聴かせろと不満を覚えるかもしれないが、そもそもクーパー監督はこの映画をバーンスタインの名曲紹介にする演出意図を持ちあわせていないので、歌をひとくさり聴かせればそれで十分と判断したのだろう。

このように、映画第1幕は《ファンシー・フリー》と《オン・ザ・タウン》を中心とした“音楽劇”と構成されているが、これに対して映画第2幕は、《ミサ曲》の作曲シーンと初演シーン以外、バーンスタインの音楽はほとんど流れてこない。そのかわり、この第2幕中盤においては、レニーが指揮するマーラーの交響曲第2番《復活》の最終楽章、「Langsamer Misterioso」とスコアに記された第629小節(合唱が「震えるのを止めよ!」と歌い始める)から最後までがカットなしで演奏され、しかもその演奏は――歌手、合唱、オケを映し出すインターカットを除き――1カットの長回しで撮影されている。

この《復活》演奏シーンは、1973年にバーンスタインがロンドン響を振ったイーリー大聖堂の演奏を現地でそっくりそのまま再現したもので、オリジナルの演奏を収めた映像は現在も配信やDVDなどで簡単に観ることが出来る。その映像を参照しながらレニーの指揮ぶりを“完コピ”したというクーパーの熱演は一見の価値があるが、音声はバーンスタイン自身の録音を使用せず、クーパーがロンドン響を振った新録音を用いている点に関しては、疑問に感じる観客も多いかもしれない。

映画ファンならご存知のように、クーパー監督は前作『アリー/スター誕生』の撮影において、共演のレディ・ガガと共に歌唱シーンをすべて同時録音したことで(つまり口パクを使わず、カメラの前で歌った声をそのままサウンドトラックで流す)、ハリウッドの音楽映画の撮影手法に絶大な影響を与えた。その結果、現在のハリウッドの撮影現場においては――たとえ『TAR/ター』のように俳優が指揮者を演じる映画であっても――演奏シーンの音楽を同時録音し、その音声をそのままサウンドトラックに用いるのが半ば常識となっている。今回の映画でも同じ手法で撮影に臨んだクーパー監督は――彼の指揮がバーンスタイン自身の録音を超えられないにせよーー自らロンドン響を振った演奏をそのまま撮影することで、音楽的な正しさ(つまりバーンスタイン自身の録音を使う)よりも映画的リアリズムを優先させている。したがって、サントラ盤に収録された《復活》のクーパーの演奏――それ自体はバーンスタインの録音をそっくり真似している――を音楽的に批評するのは、あまり意味がない。ただ、演奏の出来はともかく、バーンスタインのファンならば、彼の全レパートリーの中でもマーラー、とりわけ《復活》が大きな意味を持っていたという予備知識を持っているはずなので、このシーンを違和感なく受け入れることができるだろう。しかし、そうでない観客にとっては、この映画の中でほとんど唯一と言えるレニーの本格的な指揮シーンにおいて、なぜマーラーが演奏曲に選ばれたのか、なぜ《復活》が用いられているのか、いささか唐突に感じられるかもしれない。

クーパー監督がマーラーの《復活》を選んだのは、いろいろな理由が推測できるが、物語の内容に即してみれば、フェリシアとレニーの関係を象徴的に表す楽曲として選曲したと考えるのが妥当だろう。映画第1幕は、マーラーの交響曲第5番の<アダージェット>を振るレニー(物語の中ではカーネギーホールという設定だが、サントラ音声にはバーンスタインがウィーン・フィルを振ったDG録音が使われている)をフェリシアが舞台袖で見守るシーンで終わるが、このシーンでの<アダージェット>は、わかりやすく言えばフェリシアとレニーの“愛のテーマ”の役割を果たしている。そして、映画第2幕の《復活》のシーンでも、やはりフェリシアが舞台袖からレニーを見守っているのだが(演奏シーンが基本的に1カットの長回しで撮られているのは、キャメラがフェリシアの視点に同化しているからである)、<アダージェット>のシーンとの大きな違いは、レニーと別居していたフェリシアがわざわざ演奏に駆けつけたこと、つまり《復活》が文字通り“愛の復活のテーマ”の役割を果たしている点だ。だからこそ、この演奏シーンの直後に描かれるフェリシアの病状宣告がいっそう痛ましく感じられるのである。ましてや、《復活》の中で歌われるクロップシュトックの歌詞には「おお苦痛よ、すべてを支配するものよ」という言葉が出てくるのだから(ただし合唱の歌唱場面に字幕は付いていない)、皮肉としか言いようがない選曲である。

サントラ・ライナーを執筆しているわけではないので、これ以上の分析は止めておくが、映画本編を見た上でサントラを聴き、また本編を見直せば、バーンスタインの音楽を用いてフェリシアとレニーの“夫婦善哉”を描くというクーパー監督の演出意図は――遺族が望んでいるような人物像を描いているという意味において――ある程度成功を収めていることがわかる。ただ、一観客として言わせてもらえば、我々観客はバーンスタイン・ファミリーの“家族の肖像”を期待していたわけではない。そんな家族の内輪話より、例えばハーバード大学のノートン講座の準備のためにノーム・チョムスキーの協力を仰いだとか、レニーとフェリシアがブラックパンサー党と関わりを持ったとか、そういうバーンスタインの文化的、政治的、社会的側面を描いてほしかった。ベートーヴェンやモーツァルトやワーグナーを描いた映画が数多く製作されているように、バーンスタインという音楽家も、たかだか1本の映画で語り尽くせるような人物ではないことは十分承知しているけれど。

映画『マエストロ:その音楽と愛と』を観て(その1)


前島秀国 / 更新日:2023年12月20日


レナード・バーンスタインの生涯を描いたNetflix映画『マエストロ:その音楽と愛と』を劇場公開初日に観たが、期待を大きく裏切る内容だったので、少し時間を置いてもう一度観に行った。ネタバレ全開で書く。まず、映画本編のレビュー。



レナード・バーンスタインを演じるブラッドリー・クーパーが自ら監督と共同脚本を手がけた『Maestro』は、くどいようだが『マエストロ:その音楽と愛と』という邦題がついている。確かにそういう内容なのだが、より正確には「フェリシアとレニー、ときどきバーンスタインの音楽」と呼ぶべきだ。妻フェリシア・モンテアレグレを演じたケリー・マリガンがエンドロールのキャスト表のトップにクレジットされていることからもわかるように、クーパー監督はあくまでもこの作品を妻フェリシアを主人公に据えた“愛妻物語”として描いている。バーンスタインの音楽的キャリアや業績をくまなく追うような伝記映画や、名曲誕生秘話に迫る音楽映画を期待して観ると、しっぺ返しを食らうだろう。映画の中でのプライオリティは、あくまでもフェリシア、レニー、そして音楽の順である。逆ではない。

本編そのものは、テレビの取材に応じる晩年のレニーを描いたプロローグとエピローグをのぞくと、おおまかに3幕仕立てで構成されている。まず、レニーがブルーノ・ヴァルターの代役としてニューヨーク・フィルを振りセンセーショナルなデビューを飾った1943年から、フェリシアとの出会いと結婚を経て、“よきパパ”となる1960年代までを描いた第1幕で、この部分はモノクロ・スタンダード(1:1.33)で撮影されている。次はレニーとフェリシアの不和と別居、和解、そしてフェリシアの闘病生活と死までを描く1970年代の第2幕で、この部分はカラー・スタンダード。そして、第3幕と呼ぶにはあまりにも短い1980年代のエピソードでは、タングルウッドでの指揮の指導および学生とのアヴァンチュールが描かれているが、この部分はカラー・ヴィスタ(1:1.85)で撮影されている。このように、時代を追って撮影フォーマットが明確に変化していくので、おおざっぱな時間の経過はわかるのだが、具体的な年代や場所を説明するタイトルは画面上にいっさい登場しない。バーンスタインに関する知識をある程度持ち合わせている音楽ファンが見れば、第1幕の終わりでレニーがニューヨーク・フィルを指揮してマーラーの交響曲第5番を演奏しているので、それが1960年代だとわかるし、第2幕に入るとレニーが台詞の中で「ドイツ・グラモフォン」と口にするので(ただし日本語字幕はついていない)、物語が(DGと録音プロジェクトを開始する)1970年代に入ったと理解できるだろうが、そこまで即座にわかる観客はむしろ少数派に属するだろう。あるいは、撮影スタイルとフィルムの質感で時代をある程度特定できる熱心な映画ファンならば理解に困らないかもしれないが、そうでない現代の若い観客には少々不親切な演出というべきである。にもかかわらず、クーパー監督が時代や場所を明示しない演出スタイルにこだわったのは、この映画を“偉人の年代記”ではなく、フェリシアとレニーを中心に描いた“ホームムービー”にしたかったからであろう。むろん、そこにバーンスタインの遺族の意向(音楽使用権の許諾を含め、この映画の製作に全面協力している)が反映しているのは、ほぼ間違いない。

とはいえ、いわゆる“音楽映画”を期待していた観客には、少なくとも第1幕はそれなりに楽しめるかもしれない。物語の冒頭、レニーが代役依頼の電話をベッドルーム(男性の恋人と寝ている!)で受けると、有名な『波止場』組曲の<アレグロ>がダイナミックに鳴り響き、その音楽に突き動かされるようにしてレニーが寝室を飛び出していくと、あっという間にカーネギーホールに舞台転換し(編集による場面転換ではなく、寝室とホールがひと続きのセットで繋がっているように撮影している)、プログラム1曲目のシューマン《マンフレッド》序曲を振り始めるまでを長回しで一気に撮影したシークエンスは、実に鮮やかで見事な演出というべきだ。レニーとフェリシアの出会いと恋を、バレエ《ファンシー・フリー》と(その派生作品の)ミュージカル《オン・ザ・タウン》の音楽に重ねながら描いた部分も同様。つまり、バーンスタイン自身の音楽をフィルム・スコア(わかりやすく言えば劇伴)に用いた“音楽劇”として構成されているので、ブロードウェイで成功を収めた音楽家の生涯を描く映画の演出としては理に適っているし、なによりも聴いていて楽しい。ただし問題なのは、映画として見た場合、その第1幕で描かれるレニーとフェリシアの“愛情物語”が、あまりにも古臭くて面白くない点だ。もちろん、レニーの“男癖”も多少は描かれているが、基本的にはセレブ同士が出会って恋に落ち、結婚し、子供に恵まれる、ただそれだけの過程――伝記的事実としてはそうなのだろうが――を1時間近くも見せつけられるのだから、はっきり言って苦痛以外のなにものでもない。特に深い知り合いでもないのに出席せざるを得なくなった披露宴で見せられる新郎新婦のホームビデオが全く面白くないのと、本質的には同じである。

ところが第2幕になると映画はがらりとスタイルを変え、イングマール・ベルイマンの家庭劇のような“ある結婚の風景”を生々しく描いていく。夫婦の不和の原因となるのは、言うまでもなくレニーの“男癖”だが、第1幕で目まぐるしく動いていたキャメラは第2幕になると完全に静止し、まるでバーンスタイン邸に隠された監視カメラのように、夫婦喧嘩の生々しい有り様を長回しで粘り強く映し出していく。しかも驚くべきことに、これらのシーンにおいて、バーンスタインの音楽はほとんど流れてこない。いわゆる“音楽映画”を期待していた観客は、おそらくこの第2幕で挫折するだろうが(実際、筆者の見た映画館ではこの第2幕で数人が退場した)、映画としては、実はこの第2幕ががぜん面白い。肺がんに冒されたフェリシアがみるみるうちに衰弱し、レニーが指揮の仕事をキャンセルしてまで看病に専念するくだりは、“難病もの”につきもののお涙頂戴的展開と言ってしまえばそれまでだけど、映画の中にも登場する長女ジェイミー(マヤ・ホーク)らの証言に基づいて再現されたと思われるエピソードの数々は、それなりの真実味をもって胸に迫ってくる。特にフェリシアが病状を宣告される長回しのシーンにおいて、絶望のどん底に突き落とされる彼女の表情と感情の変化を見事に表現したマリガンの迫真的な演技は、この映画の中で最もエモーショナルな見どころと言えるだろう。このようなリアルな人間ドラマが、第1幕には決定的に欠けていた。

映画的に見れば、この第2幕のフェリシアの死をもって物語が完結しているので、第3幕のタングルウッドのエピソードは蛇足どころか、映画そのものを竜頭蛇尾にしてしまうような印象を持った。カズ・ヒロが手がけた特殊メイクのおかげもあり、指揮の指導シーンで完全にレニーになりきったクーパーの演技は、まるでマエストロが墓から蘇ったのではないかと錯覚させるほどの説得力を持っているが、その直後、先ほどまで指導していた男子学生とレニーがダンスパーティでチークダンスを踊るシーンを見せつけられると、第2幕までの美しい“愛妻物語”が完全にふっとんでしまい、映画を観ているこちら側としてはレニーのダメさ加減に混乱を覚えてしまう。そうした人間的矛盾こそがレナード・バーンスタインというマエストロの実像だと言わんばかりだ。しかもそのダメさ加減は、クーパー監督の前作『アリー/スター誕生』で彼が演じたカントリー・ロック歌手のキャラクターの焼き直しに他ならないので、これはバーンスタインの物語がどうのこうのというより、映画監督としてのクーパーの持ち味というか、作家性なのだろう。

以上が劇場で最初に観た時の印象だが、その後、サントラ盤を聴き込んでからもう一度劇場で観ると、多少違った見方をすることができた。それを(その2)で綴る。

ドゥダメル指揮『ウエスト・サイド・ストーリー』サントラ盤を聴いて


前島秀国 / 更新日:2022年2月11日


スティーヴン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』のサントラ盤は、グスタボ・ドゥダメル指揮ニューヨーク・フィルとロサンゼルス・フィルが演奏しているが、サントラ扱いの商品のため、クラシック側の人間が書いたレビューは案外少ないのではないかと思う。昨年12月の配信開始後すぐに聴いたが、このたび国内盤がリリースされたので、いくつかの既存録音と比較した上でレビューをアップする。本編ネタバレなし。



ちょうどいい機会だったので、まずは今回のサントラ盤との比較のために、現在入手可能なさまざまな録音を聴き直してみた。その結果、原曲のミュージカルを過不足なく録音した決定盤は、未だに存在していない、というのが僕の率直な感想である。“原典”として最初に参照されるべきは、1957年に録音されたオリジナル・ブロードウェイ・キャスト盤だが、なんといっても録音が古いし、キャストの歌唱(特にアンサンブル)もやや荒い。もともとこの作品をオペラとして構想していたという作曲者自身の自作自演盤(1985年)は、主要キャストをオペラ歌手が歌っているが、この作品の内容からして、本当にベルカント唱法がふさわしいのか、少なくとも僕自身は今でも疑問を抱いている。2009年の再演に基づくブロードウェイ・キャスト盤は、プエルトリコ側の登場人物の視点を重視し、一部のソング・ナンバーをスペイン語の訳詞で歌っているが、いわゆるポリティカル・コレクトネスの立場からは容認されるにしても、原曲のソンドハイムの歌詞は英語で書かれているので、少しやり過ぎなのではないかという印象を受けた。そのほか、全曲をほぼカットなしで演奏した演奏会形式のライヴ録音がいくつか出ているが、いずれもクラシック色が強すぎて、ミュージカルらしい躍動感が出ていない。といった具合に、どの録音もあちら立てればこちら立たぬといった状態である。

その中でも、最も多くの問題を抱えた録音が、1961年版の映画のサントラ盤だろう。録音は劣悪だし(金属系の楽器をのぞいて14000Hz以上の高音域がほとんど録音されていない)、バーンスタインの作曲意図に反して改竄されたオーケストレーションは弦楽器が多すぎるし、何よりも問題なのはジョージ・チャキリスをのぞいてキャスト本人が歌った録音ではない、つまり吹替歌唱だという点である(マリア役、それにアニータ役の一部を歌ったマーニ・ニクソンの歌唱自体は素晴らしいが)。にも関わらず、この1961年盤が現在も代表的録音として聴かれ続け、この作品のイメージ作りに影響を及ぼし続けているのが現状だ。映画のサントラ盤として歴史的価値を有しているのは事実だが、だからといって、バーンスタインの原曲のミュージカルの魅力と真価を余すところなく収めた録音とは言えないと思う。

今回のドゥダメル盤は、あくまでもスピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』のサントラ盤として録音されているので、映画本編で歌われていないナンバーは当然のことながらカットされている。また、録音セッションの一部を、編曲を担当したデイヴィッド・ニューマンが指揮しているし(といってもわずかだと思うが)、どこからどこまでの演奏がニューヨーク・フィルの担当部分で、どこからどこまでがロサンゼルス・フィルの担当部分(コロナ禍での追加セッション)なのか明確ではないので、そもそもこれをクラシックの録音として扱うのは不可能である。

そうした点を考慮した上で今回のサントラ盤を聴いた時、すぐに直感した。少なくとも、1961年版のサントラ盤を今後聴くことはないだろうし、また、その必要も全くないだろうと。歌手、バーンスタインの作曲意図を尊重したオーケストラの演奏(基本的に1957年ブロードウェイ初演版の編成を用いている)、そして録音のサウンドと、すべてにおいて今回のアルバムは他の録音を寄せ付けない高いレベルに達している。昨年12月の配信開始直後から30回以上は通して鑑賞したが、それでもまだ飽きない。とんでもない録音だと思う。

まず、今回のサントラ盤の最大の魅力は、3万人とも言われる候補の中からオーディションでマリア役の座を勝ちとったレイチェル・ゼグラーの歌唱だろう。《トゥナイト》で、天井知らずの高音がどこまでも伸びていくのを聴いた時、本当に驚いた。今まで聴いてきたマリア役の歌唱――特に熟女がティーンエイジャー役を演じる虚構――は、いったい何だったのだろうと。録音当時、ゼグラーは18歳か19歳だったと思うが、その声は若さだけでなく、一瞬にしてリスナーを虜にするチャーミングな魅力を備え、歌い方は純真そのものながらも、表現に説得力がある。数年前、さる著名歌手(敢えて名前を伏す)がマリア役を歌ったスタジオ録音が鳴り物入りでリリースされた時、単に高い音が出るだけで歌唱表現に魂が全くこもっていなかったのとは大違いだ。おそらくゼグラーは、2009年ブロードウェイ・キャスト盤でマリア役を歌ったジョセフィーナ・スカリオーネの表現(彼女も大変素晴らしい)を参考にしながら録音したのではないかと推測されるが、後述するドゥダメルの速めのテンポ設定のおかげもあり、よりドラマティックで勢いがある。

もうひとり、アニータ役のアリアナ・デボーズも非常に感心した。《アメリカ》では、いかにもラテン的なバイタリティでナンバー全体を華やかにし、上述のゼグラーとのデュエット《ア・ボーイ・ライク・ザット/アイ・ハブ・ア・ラヴ》では、押しの強い迫力と芝居の巧さで聴く者を唸らせる。こういう演奏を聴くと、アメリカのエンタテインメントの底力はとてつもないものだと、改めて感服するほかない。

トニー役のアンセル・エルゴートは、今回のスピルバーグ版で《クール》がトニー役のナンバーに変更されたこともあり、結果的に他のキャストと比較にならないほど多くのナンバーを歌っている。そのため、録音のプレッシャーも相当なものだったと推察されるが、映画『ベイビー・ドライバー』で強い印象を残したエルゴートがここまで歌えたことに、むしろ驚いた。本業のミュージカル歌手のように朗々と歌おうとせず、等身大のヴォーカルで素直に歌っているところが、逆に好感が持てる。高い音域でわずかに声が潰れるのが気にはなるが、別の見方をすれば、そこにリアルなトニーの姿があると聴くことも可能だ。映画本編での彼の魅力と併せて評価すべきだろう。

最初に書いたように、今回のサントラ盤はすべての録音セッションをドゥダメルが指揮しているわけではないので、純粋に彼の作品と呼ぶことは難しいが、少なくとも《プレリュード》や《ダンス・アット・ザ・ジム》などのオーケストラ・ナンバー(つまりオーケストラの聴かせどころ)に関しては、ドゥダメルが振っているはずである。その部分だけ聴いてみても――通常の2チャンネル・ステレオ再生だろうが、配信版のドルビー・アトモスだろうが――これが尋常ならざる演奏だということに気がつくはずだ。先に触れたゼグラーの歌唱と同様に若々しく、ポップスと呼ぶにはあまりにもゴージャスで輝かしい高揚感と、どこを切っても血が吹き出しそうなシャープな切れ味を備えながら、いささかもテンポは淀むことがなく、ドラマティックに畳み掛けてくる。もちろん、この演奏はあくまでも映画のサントラ用だから、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラの時のような“フィエスタ”状態で暴走することはない。しかも、すべての録音セッションはスピルバーグが立ち会っているはずなので(スピルバーグが撮影に先んじて音楽録音するプレスコの手法を用いたのは『未知との遭遇』以来だという)、特にテンポ設定に関しては、彼の意向もある程度反映されているのだろう。そうだとしても、バーンスタインの自作自演盤も含め、音楽がここまでクリアかつヴィヴィットに演奏されたことは、いまだかつて無かったのではないか。ドゥダメルはもちろんのこと、オーケストラ全員のミュージシャンシップが高くなければ、ここまで迫力ある演奏をすることは不可能である。これを聴いてしまうと、クラシック市場に溢れかえる《シンフォニック・ダンス》の演奏のほとんどが、単に若作りをした中年オヤジが粋がっているようなものにしか思えなくなってしまう。常設オーケストラ用に編曲された《シンフォニック・ダンス》そのものが“厚化粧”だと言い切ってしまう自信は今の僕にはないけれど、少なくとも今回の《マンボ》のソロ・トランペットの一吹き(本編の中でスピルバーグはわざわざトランペットのアップを映している)を聴いただけで、今まで《シンフォニック・ダンス》の演奏で散々聴かされてきた“ラテンの真似ごと”と、今回のような“本物”とで、音楽表現の生々しさにどれほど大きな差があるか実感できるはずである。

今回のサントラ盤は、ジョン・ウィリアムズの録音を長年手掛けてきたエンジニアのショーン・マーフィー以下、スピルバーグのサントラ録音チームが収録を手掛けている。アメリカの大作映画のサントラ録音は、フル・オーケストラのスタジオ収録に1週間以上かけることがザラだから(日本はどんな大作でも2日が限界)、今回のような映画では収録にも相当な時間をかけたのではないかと思う。ミキシングも相当いじっているはずだが、そのおかげでほぼすべてのパートがクリアに聴こえるだけでなく、スコアの中で何を強調したいのか、演出意図(演奏意図ではない)が明確に伝わってくる。つい先日も、ある日本の映画音楽作曲家と話したのだが、すぐれた映画監督の場合は、自分の映像表現を貫徹させるため、音楽のミキシングにも細かく注文を出してくることが多い。ましてや、スピルバーグのように音楽的素養が高く(コンサート・ピアニストだった母親の影響で、幼年時代はショパンかショスタコーヴィチしか聴いたことがなかったという)、自分でクラリネットも演奏するような監督の場合はなおさらである。したがって、今回のサントラ盤も、あくまでもスピルバーグが意図した録音、彼が聴かせたい録音と考えるべきだ。指揮者が音楽的責任をすべて負うクラシック録音とは違う。そうだとしても、これほどバーンスタインの音楽が生き生きと伝わってくると、今まで聴いてきた多くのクラシック録音はいったい何だったのだろうと、途方に暮れてしまった。

結論をまとめる。今後、バーンスタインの《ウエスト・サイド・ストーリー》を演奏する時は、それがミュージカルの全曲版であろうとクラシックの《シンフォニック・ダンス》であろうと、「今回のサントラ盤を知らずに演奏しました」は許されなくなる。この曲の演奏史は、今回のサントラ盤以前と以後で完全に分断されてしまった。今後は、これが演奏の基準となるだろう。ものすごくハードルが高くなったことは事実だが、バーンスタインの音楽がベートーヴェンやモーツァルトと同じように、いつの時代に聴いても生々しいアクチュアリティを持った音楽として残っていくためには、今回のサントラ盤の方法論を継承していくしか、しばらくは手段がないと思う。
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