前島秀国の音楽日記をイッキ見

遅い低空飛行に終始したジョン・ウィリアムズ指揮ベルリン・フィル


前島秀国 / 更新日:2021年10月17日


日本時間10月17日午前2時よりベルリン・フィル・デジタル・コンサート・ホールでライブ配信された演奏(3日め)をリアルタイムで鑑賞した。こちらの期待が大きすぎたせいか、何とも言えない違和感だけが残った。ウィリアムズの年齢からくるテンポの遅さは仕方ないにしても、ウィーン・フィルの時に感じられたウィリアムズとのケミストリーの再来は、最後まで確認できなかった。



前半冒頭の「オリンピック ファンファーレとテーマ」と「未知との遭遇」は、ベルリン・フィルの機能美のデモンストレーションには誠に相応しい選曲で、実際、音楽的にはこれ以上望むべくもない正確な演奏だったが、何か喜びが感じられないのである。一言で言えば、面白くない。それがはっきりわかったのは、次に演奏された「遥かなる大地へ」の組曲だ。

演奏前には、マイクを握ったウィリアムズが恒例の楽曲解説をおこなったが(しかもかなり長かった)、その中で彼がさかんに強調していたのは、基本的に作曲者自身はこの映画をロマンティック・コメディだと捉えていること、特に「ドニーブルック・フェア」と呼ばれる乱闘シーンの音楽は、サイレント映画時代のパイ投げまで遡るコメディの音楽として作曲している、という点だった。にも拘わらず、実際の演奏が始まると、コミカルな要素は微塵も感じられなかった。最初のセクションからアイリッシュなテーマを全身全霊で演奏するオケは、あたかもアイルランド民謡を演奏するバンドに無理やりタキシードを着せ、土臭さをいっさい消した上で“芸術音楽”を演奏しているような違和感を覚えた。そして、「ドニーブルック・フェア」のセクションになると、チェロとコントラバスが16分音符のモティーフを凄まじい重量感で弾き始める。その勢いとキレのよさは、おそらく他のすべてのオケから羨望の眼差しを浴びることだろう、演奏面だけを見れば。だが、これは酔っ払ったアイルランドの荒くれ者が繰り広げるコミカルな乱闘シーンの音楽なのである。世界チャンピオンの座を掛けた超一流ボクサーの試合ではない。ベルリン・フィルの音楽的姿勢上、演奏にいっさい手を抜けないのは仕方ないにしても、この演奏ではまったく笑えない。こんなに真面目に演奏して、どうする? 演奏前、ウィリアムズが長々と曲の解説をした意味が、なんとなくわかったような気がした。優れた演奏なら、特に説明しなくても音楽の意図が伝わるものだから。

後半の最初に演奏された「スーパーマン」は、ウィリアムズの作品の中でも難曲として知られる(とりわけ金管セクションの負担が大きい)音楽だが、悠然たるテンポの遅さと相俟って、どうにも高揚感が感じられないのである。言うなれば、重爆撃機の低空飛行。その威容と轟音に圧倒されるのは確かだが、クラーク・ケントがスーパーマンに変身して軽やかに飛び立つような驚きと鮮やかさ、SF用語で言うところのセンス・オブ・ワンダーは全くない。はじめから「超人的なスーパーマンで当たり前だろ?」と言わんばかりの威圧的な演奏である。

「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の「オートバイとオーケストラのスケルツォ」も同様である。オケが上手すぎて、いつ主人公たちを乗せたサイドカーがひっくり返るか、つまり音やリズムを外すかわからないというハラハラドキドキ感が全くない。ナチスのオートバイ部隊を表現したセクションと、ショーン・コネリーとハリソン・フォードの珍妙なやりとりを表現したセクションの対比が全く感じられず、音楽全てが一糸乱れぬゴージャスな軍隊色に塗りつぶされている。スケルツォどころか、敵と味方の区別もあったもんじゃない。それは映画音楽じゃないと思うのだ。

後半最後の『スター・ウォーズ』3曲は、やや高揚感を感じさせる演奏だったが、どんな音符も一音たりとも疎かにしない生真面目な姿勢が裏目に出てしまったような気がした。我々は、ジョン・ウィリアムズという類まれな作曲家の映画音楽の真髄が聴きたいのであって、すべての音符を見逃さないスコア・アナリーゼを望んでいるのではない。コメディも、ファンタジーも、アクションも、すべて等しく全力投球で演奏するベルリン・フィルを聴いていると、どの曲も大して代わり映えしない印象すら受けた。唯一の例外は、比較的オーケストレーションで書かれたチェロと管弦楽のための「エレジー」(実のところ『セブン・イヤーズ・イン・チベット』のモティーフを素材にしている)だが、あとはベルリン・フィルらしい重低音に支えられた、五度音程の跳躍と威勢のいいファンファーレがひたすら鳴り響き続けるマーチ集である。

指揮のテンポの遅さは、これはもう仕方ない。だとしても、昨年1月のウィーン・フィルとの演奏で感じられた祝祭感が完全に欠如しているのは、いったいどういうことだろうか? ウィーン同様、聴衆の熱気は大変なものだったが、4Kカメラで撮影された鮮明な映像から判断する限り、どうもオケのメンバー全員が今回のウィリアムズとの共演を手放しで喜んでいるようには見えなかった。演奏前、ウィリアムズを盛んに褒め称えるオケのメンバーのインタビューが、くどいほど流れたにも拘わらず。

譜面を正確に演奏することにかけては、おそらくベルリン・フィルを凌駕する団体は存在しない。それは疑うべくもない事実なのだが、何かが欠けている。チャーム、色気、祝祭感、華やかさなど、表現は人によって異なるだろうけど、僕が思うに、このオーケストラの劇音楽に対する取り組み方、わかりやすく言えばエンタテインメントに対する取り組み方が、この演奏の欠如感の最大の原因ではないかと思う。

演奏の細部や正確さについて言えば、ウィーン・フィルより今回のベルリン・フィルのほうが圧勝だ。それでも、ウィーン・フィルのほうが圧倒的に楽しく、何度でも鑑賞する気になるのは、ウィーン・フィルがオペラのオーケストラを母体にしていることと無縁ではない。ウィーン・フィルには、劇音楽(オペラ)のどこをどう面白く演奏すべきか、エンタテインメントとしてのツボが骨の髄まで染み込んでいる。その経験が、ウィリアムズのような映画音楽を演奏した時に――オペラか映画音楽かという違いはあれど、喜劇や悲劇のようなドラマを表現する劇音楽として――最大限に発揮されたのではないか。ましてや、ウィリアムズが属するオールド・スクールのハリウッド映画音楽の源流は、コルンゴルトやスタイナーのようなウィーンの作曲家まで遡ることが出来るわけだし、その意味ではウィリアムズの映画音楽もれっきとしたオペラの末裔だ。それが、ウィーン・フィルとの共演を包み込んでいた“魔法”である。その“魔法”が、今回の演奏には微塵も感じられなかった。「ハリー・ポッターと賢者の石」の「ニンバス2000」に聴かれる木管セクションのアンサンブル能力の見事さは、“魔法”というより、高度な“科学”のメカニズムを連想させた。あくまでもウィリアムズの譜面を“純音楽”として突き詰め、この上ない正確さで表現するというストイックな姿勢はそれなりに高く評価したいが、だからといって、ウィリアムズの音楽の本質が新たに明らかにされるということはなかった。

結局のところ、映画音楽は――かつてコルンゴルトが言ったように――歌のないオペラであるという事実を逆説的に証明したところが、今回のベルリン・フィル客演の最大の意義だったのかもしれない。アンコール終了後、舞台袖にウィリアムズが引っ込んでから10分以上スタンディング・オベーションが続いていたが、それでもマエストロは舞台に戻ってこなかった。

アン・セット・シスは新たなる希望 A New Hopeである


前島秀国 / 更新日:2021年10月18日


山中惇史と高橋優介によるピアノ・デュオ、アン・セット・シスがアルバム『ジョン・ウィリアムズ ピアノ・コレクション』発売を記念し、10月15日に浜離宮朝日ホールでデュオ・リサイタルを開催した。プログラムはCDとほぼ同じだが、CD未収録の編曲も今回新たに披露された。その演奏を聴き、終演後、彼らと少し話してみて。



客電を完全に落とした暗闇の中から、アン・セット・シスの演奏する「Opening」(山中作曲)が神秘的に響いてくる。なるほど、当夜のコンサートという“映画”の幕開けにふさわしいオープニングだ。CDを聴いた時も感じたが、彼らは単にウィリアムズの映画音楽のトランスクリプションを演奏するのではなく、ある世界観の中で統一された物語(あるいは物語たち)を観客に届けようとしている。いまの若い世代らしい、聡明なコンサートの作り方である。

『ハリー・ポッター』の組曲に関しては、先に投稿したCDレビューと重なる部分も多いので、『スター・ウォーズ』の組曲を中心に話を進めたい。

当夜の演奏では、CDに収録された「メイン・タイトル」「ルークとレイア」「アナキンのテーマ」に加え、CD未収録の「フラッグ・パレード」(『エピソード1 ファントム・メナス』)を合わせた計4曲の形で披露された。

Youtubeなどに無数にアップされている「スター・ウォーズのテーマを弾いてみました」の類のアマチュア演奏を除けば、「メイン・タイトル」を本気で弾いたアーティストとして、10年ほど前に録音をリリースしたインゴルフ・ヴンダーの例が思い浮かぶ。だが、所詮2手なので、限界はあった。とりあえず主要なメロディは追えているものの、ショパンのようにウィリアムズは弾けないな、というのが僕のヴンダー盤の感想だったが、当夜のアン・セット・シスは当然のことながら2台ピアノなので、ほぼ3管編成の原曲の醍醐味を過不足なく置き換えていた。ウィリアムズ本人が指摘しているように、この曲は一種の軍隊行進曲として書かれているのだが、彼らの2台ピアノの演奏を聴いていると、シューベルトの「3つの軍隊行進曲」が自然と思い浮かんできて、自分でもびっくりした。より正確に言えば、彼らの演奏はリスト編曲のシューベルトくらいの難易度だけど。

しかし、それよりも驚いたのは、高橋と山中がそれぞれソロを披露した部分である。ドビュッシーか何かのような色彩豊かで繊細なタッチで弾かれた「ルークとレイア」(高橋)の冒頭は、ほとんど印象派のピアノ音楽の世界である。「アナキンのテーマ」(山中)に至っては、もう完全に後期ブラームスの小品集の世界、つまり曖昧な調性感の中でひたすら内的な世界を綴っていく、滋味と若干の苦々しさを含んだ“晩年の音楽”に仕上がっている。『スター・ウォーズ』の音楽を聴いてそんなことを感じるとは、当夜の会場に足を運ぶまで、夢にも思わなかった。

そして、組曲の最後に「フラッグ・パレード」が2台ピアノで演奏されたが、本編をご覧になった読者ならご存知のように、この楽曲が流れるポッドレースのシーンは『ベン・ハー』の戦車戦のシーンを踏まえているので、ウィリアムズの音楽も『ベン・ハー』のミクロス・ローザの音楽(チルクス・パレード)を強く意識した楽曲(というより完全なオマージュ)として書かれている。パーカッシヴな奏法を多用する彼らの「フラッグ・パレード」の演奏を聴いていると、ローザというより、むしろローザが多大な影響を受けたバルトーク(ふたりともハンガリー人である)が透けて聴こえてきたので、自分でも面食らってしまった。ウィリアムズの曲もローザの曲もさんざん愛聴しているのに、なぜ今まで、気づかなかったのだろう! それを教えてくれた彼らの演奏は、少なくとも僕にとっては啓示であった。

このように、アン・セット・シスのふたりは、敬愛するウィリアムズを愛情込めて編曲・演奏しながらも、その音楽がどこから来たのか、つまりウィリアムズに至る音楽の伝統を強く意識しながら、このプログラムを練り上げ、録音し、実演に漕ぎ着けている。クラシックのピアニストとして、ウィリアムズに対するこれ以上の愛情表現は他にない。ウィリアムズの音楽を無理に“ショパン”にするのではなく、シューベルトでありブラームスでありバルトークであり、あるいはプロコフィエフであるウィリアムズの源流を音楽的にしっかり掬い取った上で、クラシックの文脈でも違和感がない作品として演奏しているのである。終演後、ふたりと直接話してみてわかったが、かつてウィリアムズのシンフォニックな映画音楽が「ポップス」「軽音楽」といった不当なレッテルを貼られていたダークサイドの暗黒時代を、彼らは全く知らずに育ってきている。うらやましい。なんと素晴らしいことだろう! 今後、ウィリアムズの映画音楽をクラシック・レパートリー化していく上で、彼らのような若い世代の演奏家こそ、新たなる希望(A New Hope)ではないかと感じた。

アン・セット・シス『ジョン・ウィリアムズ ピアノ・コレクション』


前島秀国 / 更新日:2021年10月13日


山中惇史と高橋優介のピアノ・デュオ、アン・セット・シスが、ウィリアムズの映画音楽のピアノ・トランスクリプション集『ジョン・ウィリアムズ ピアノ・コレクション』を録音した(編曲は山中)。CD封入の解説書の楽曲解説を書いた手前、アルバムのインプレッションの公表をこれまで控えていたが、本日無事リリースされたので、以下に僕の考えを綴る。



2ヶ月以上前に音源を初めて聴いた時、まず純粋に驚いた。このアルバムが、よくあるレコード会社主導の企画のような、単純な「ジョン・ウィリアムズ名曲集」ではなかったからである(もし、レコード会社がその種のアルバムを望んでいたら、この選曲では絶対にOKを出さないだろう)。確かに『ハリー・ポッター』や『スター・ウォーズ』のような有名曲は演奏されているが、アルバムをじっくり聴いてみると、日本で全く知られていないテレビ番組のテーマ曲とか、映画本編で未使用に終わった楽曲(サントラには収録)とか、要するに「知られざるジョン・ウィリアムズ」と呼ぶべき楽曲が少なからず収録されており、それがアルバム全体にユニークな個性をもたらしているのである。アン・セット・シスが、映画そのものやテーマ曲の知名度に拘っていないことは明らかだ。彼らは、いわゆる「映画音楽集」とは全く異なる構成原理でこのアルバムを録音している。

それがいちばんわかりやすく表れているのが、アルバムの前半に演奏されている『ハリー・ポッター』シリーズからの5曲だろう。

まず、誰でも知っている「ヘドウィグのテーマ」は、原曲ではチェレスタがテーマ旋律を導入するので、これをピアノ(の高音域)に置き換えて演奏するのは、音楽的にも非常に理に適っている。山中の編曲譜を見ていないので正確にはわからないが、第1ピアノがテーマ旋律を歌うかたわら、第2ピアノがアルペッジョの音形――フクロウのヘドウィグの飛翔を表現している――を繰り返す。原曲の管弦楽版では、このアルペッジョはどちらかというと背景的な伴奏音形のように聴こえてくるのだが、今回の山中の編曲版では、わざわざもう1台のピアノにアルペッジョを弾かせることで、アルペッジョの存在感が原曲以上にはっきりと伝わってくる。このセクションだけで、彼らは2台ピアノでジョン・ウィリアムズを演奏する意味を見事に表現していると感じた。

「ヘドウィグのテーマ」の次のセクション、すなわち8分音符のリズムを細かく刻むテーマのセクションは、原曲の管弦楽版では木管――確かコーラングレ、クラリネット、ファゴットだったと思う――がテーマを導入するのだが、アン・セット・シスの演奏は、わざわざピアノで「木管らしいニュアンス」を表現しようなどという小賢しい技は使っていない。あくまでもピアノにふさわしい、明確なタッチでこの第2主題部を鮮やかに導入している。原曲の管弦楽版の印象とは異なるかもしれないが、ピアノ音楽としての論理はしっかり貫かれている。だから、ピアノでやる意味があるのだ。

ここまでの約100小節でこの調子だから、細かく見ていくと面白すぎてキリがない。小煩いサントラ・ファンは「なぜ有名曲の『ニンバス2000』が入っていないのか?」とか、些細なツッコミを入れてくるかもしれないが、5曲全体を通して聴けばわかるように、そもそも山中たちは「ハリー・ポッター名曲集」を全く意図していない。あくまでも、2台ピアノのための性格小品集あるいは組曲として聴き応えのあるものにするため、本盤収録の5曲を選曲しているのである。少なくとも、僕はそう感じた。でなければ、映画本編でボツになった「ダイナゴン横丁」をわざわざ中間楽章に含めたりしないはずだ。このユーモラスでこっけいな楽曲は、5曲全体の中でスケルツォ楽章的な役割を果たしているので、これがあるのとないのとでは、組曲としての面白さがずいぶん変わってくる。

しかも、5曲のうちの3曲は、最初に触れた「ヘドウィグのテーマ」が直接的に登場するか、あるいはそこから派生したテーマが登場するので、結果として組曲全体に有機的な統一感がもたらされている。映画の物語とは違うかもしれないが、これはこれでひとつの物語、つまり音楽的論理に基づくピアノ組曲としての物語を持っている。曲の知名度だけで選曲していったら、今回の組曲のような音楽的充足感は全く得られなかったはずである。

このまま全曲に触れていくとライナーノーツ以上の長さになってしまうので、多くの評者があまり触れないであろう、アルバム収録の山中のオリジナル曲について触れておく。

アルバムで演奏されているウィリアムズ作品の組曲(あるいは、かたまり)の前後には、山中が書き下した「Opening」、3つの「Intermission」、それに「Song for John」の計5曲が併録されている。このうち、演奏時間各1分弱の「Opening」と「Intermission」は、2つの和音で構成されたモティーフ(あるいはテーマ)が発展していく形で構成されている。音楽的には一種のヴァリエーションと言ってもいいかもしれないが、ウィリアムズ作品の合間にこうしたモティーフをサンドイッチしていく構成は、実のところ、非常に映画音楽的な手法ではないかと感じた。ウィリアムズ自身の映画音楽でも、例えば(本盤では演奏されていないが)『未知との遭遇』や『ジョーズ』に聴かれるような、ごく限られた音数のモティーフで映画全体に統一感をもたらした実例がある。もちろん、作曲家としての山中はウィリアムズの語法をそのまま継承しているわけではないので、モティーフそのものは非常に現代的に書かれているが、ある程度、映画音楽の手法に慣れ親しんだリスナーならば、山中が意図した構成を素直に受け入れることが出来るのではないかと思う。だから、最後の「Song for John」を聴いた時、僕は「ああ、これは巨匠にオマージュを捧げた“エンドロールの音楽”の曲なのだ」と直感的に察知した。

このアルバムを聴いていると――ちょうどサントラを聴きながらまだ見ていない映画のシーンを思い浮かべるように――さまざまな空想に駆られる。「例えばこの『ハリー・ポッター』の組曲を、『くるみ割り人形』2台ピアノ版と同じプログラムで演奏してみたらどうなるだろうか?」「ウィリアムズが原曲でもピアノを効果的に用いた楽曲――例えば『E.T.』や『帝国の逆襲』や『サブリナ』など――をこのアン・セット・シスが演奏したらどうなるだろうか?」などなど。今後、彼らがさらなるウィリアムズ作品集を作り上げていくのかわからないが、ともかくも今週10月15日に浜離宮朝日ホールで同じプログラムを披露するというので、僕はとても楽しみにしている。
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