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前島秀国の音楽日記をイッキ見

『ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン』について①


前島秀国 / 更新日:2020年10月14日


ジョン・ウィリアムズがウィーン・フィルを指揮した歴史的演奏会の記録が、CD+Blu-rayで発売された。国内盤リリースに深く関わったのでレビューを控えていたが、単独名義のアーティストによるアルバムTOP10入りの最年長記録更新とか、ニュース的な側面も出てきたし、どなたもお書きにならないので、触れることにする。



すっかりこの「音楽日記」をサボってしまっていたが、その理由のひとつは、『ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン』のライナー執筆と字幕監修に膨大な時間を割く必要があったのと、万が一、自分がコロナウイルスに感染したらリリースそのものに影響が出てくる可能性があったので、ほとんど家に引きこもっていたからである(そのため、都内で再開し始めた演奏会も、全部出席を見合わせていた)。

国内盤リリースに伴う作業は、実質的に5月の終わりから始めたが、ただの解説書きとはいえ、いろいろと判断を迫られる場面が多々あった。まず、このアルバムはクラシック・ファンと映画(音楽)ファンの両方が購入するだろうから、どちらにも満足していただけるような解説を書かなければならない。クラシック・ファンのほとんどは、おそらく『イーストウィックの魔女たち』や『シンデレラ・リバティー/かぎりなき愛』のような作品は見ていないと思う。逆に映画ファンには、クラシック界におけるウィーン・フィルの位置づけがどのようなものか、最初から説明してあげなくてはならない。

実は、かなり早い段階で原盤のオリジナル・ライナーノーツも読ませてもらったのだが、ウィーン楽友協会資料室長のオットー・ビーパ博士が執筆したライナーは、現地の演奏会評の抜粋でまとめられていた。僕はビーパ博士本人にも取材したことがあるし、とても尊敬している研究者なのだけど、ジョン・ウィリアムズに関しては、やはり専門外だという印象を受けた。となると、いちから全部自分で書き下ろすしかないのだが、元のサントラやウィリアムズが過去に指揮したボストン・ポップスの演奏を聞き直すのはもちろんのこと、場合によっては演奏曲の該当シーンを映画本編に当たって見直す作業をしなくてはいけない。これが、非常に時間がかかった。とても楽しい作業だったけれども。

それと共に大変だったのが、デラックス盤特典ブルーレイに収録されたジョン・ウィリアムズとアンネ=ゾフィー・ムターの対談映像の字幕翻訳である。ご覧いただくとおわかりになると思うが、ふたりともざっくばらんに本音を語り合っているだけでなく、音楽の本質に迫る重要な問題をいくつも取り上げている。当然、一言一句正確に訳したいところだが、日本語字幕には「1秒4文字」というやっかいな字数制限が厳然と存在する。書き言葉とは違うのである。なので、どうしても妥協しなければならない部分が出てくるが、少なくとも映画用語、音楽用語、作曲家名に関しては正確さを期したい。よく、劇場用映画のDVDやブルーレイにメイキング映像と称して作曲家のインタビューが収録されていることがあるが、あの手の映像の字幕のクオリティは概して非常に低い。なぜかというと、音楽の専門家のチェックが入らず、字数制限を守るために翻訳者が勝手に意訳してしまうからである。今回、そういうことは絶対に避けたかったので、コンマ数秒単位まで計算しながら、出来るだけ字数制限を越えないように訳していった(例外的に越えざるを得なかった字幕もいくつかある)。どうしても訳しきれなかったのは、「今度(ウィリアムズが)ウィーンに来たら、ウィンナーシュニッツェルも忘れずに食べに行きましょう」というムターのジョークくらいだが、本質的に音楽と関係ない話なので、これはバッサリ切り落とした。あと、彼女が触れているE-Musik(Ernste Musik、芸術音楽)とU-Musik(Unterhaltungsmusik、娯楽音楽)の話は、見る人が見れば、彼女が暗にアドルノを批判しているということがわかるのだけど、それをわかりやすく説明とするとなると、アドルノの『音楽社会学序説』まで引用しなくてはいけなくなるので、あとはリスナーの理解に委ねることにした。15年以上前にDVD『エンニオ・モリコーネ アリーナ・コンチェルト』の字幕を訳した時、本人が言っている「Musica assoluta」をそのまま「絶対音楽」と訳したら、モリコーネの熱心なファンでもある映画関係者から「そんな言葉が存在するのか!」と驚かれた記憶がある。でも、こういうものを変にわかりやすく意訳するのは、音楽DVDまたはブルーレイの字幕の場合、厳に慎むべきであるというのが、僕の基本的な考え方だ。(②に続く)

映画『海の上のピアニスト』イタリア完全版(9月4日公開)を見て


前島秀国 / 更新日:2020年8月23日


エンニオ・モリコーネが音楽を手掛けたジュゼッペ・トルナトーレ監督『海の上のピアニスト』4Kデジタル修復版(121分)が8月21日より公開される。それを記念し、これまで日本未公開だったイタリア完全版(170分、HDリマスター)も9月4日からの公開が決まった。今回、イタリア完全版をオンライン試写で見た。



※7月6日追記:エンニオ・モリコーネ氏は現地時間7月6日、入院先の病院で91歳で亡くなりました。ご冥福をお祈り申し上げます。
『ニュー・シネマ・パラダイス』から『ある天文学者の恋文』まで、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の長編劇映画の音楽をすべて手掛けている巨匠エンニオ・モリコーネが、2019年のファイナル・コンサートを終えてから約1年が経過しようとしている。当然のことながら映画音楽の作曲活動も引退しているので、今後、彼がスコアを作曲した新作劇映画が見られることも、ない。非常に残念であるが、今年11月で92歳を迎える高齢を考えれば、仕方ないことであろう。そんな折、1999年に劇場公開されたトルナトーレ監督『海の上のピアニスト』の4Kデジタル修復版(インターナショナル版)と、それよりも上映時間が約50分長いイタリア完全版が相次いで公開されることになった。

イタリア完全版の存在は、実は1999年のインターナショナル版公開の頃から知っていた。当時、日本でもこの映画のサントラ盤が発売されたが、それとは別に、イタリア完全版のサントラ盤(英語表記の『The Legend of 1900』ではなく原題の『La leggenda del pianista sull'oceano』がアルバムタイトル)が日本にも並行輸入され、インターナショナル版の本編に含まれていないトラックが多数含まれていたので、非常に驚いた記憶がある。今回、ようやくイタリア完全版を鑑賞し、モリコーネの音楽がインターナショナル版以上に重要な役割を果たしていることが確認できた。

イタリア完全版の特徴がよく現れている例を、ひとつだけ挙げてみる(以下、イタリア完全版のネタバレを含む)。

物語のはじめ、豪華客船ヴァージニア号の黒人機関士ダニ―・ブードマン(ビル・ナン)は、サロンのピアノの蓋の上に放置された赤子を発見し、ボイラー室に運んでくる。仲間の機関士たちが野次を飛ばす中、ダニーは自分が親代わりになって赤子を育てると宣言し、赤子を「ダニー・ブードマン・T・D・レモン・ナインティーンハンドレッド」と命名する。ここまではインターナショナル版と同じだが、その後、イタリア版ではダニーが泣き止まぬ赤子をあやすため、ゴスペル風のブルースを歌い始め、仲間たちもその歌に唱和するという、ちょっとしたミュージカル風のシーンが加えられている。

このゴスペル風ブルースは、もちろんモリコーネの作曲によるものだが、インターナショナル盤のサントラ(日本で発売されたもの)には収録されず、イタリア完全版のサントラのみ《Thanks Danny》(赤子に付けられたミドルネームのイニシャル「T・D」に因む)というタイトルで収録されている。おそらく、上映時間の都合でインターナショナル版からカットされたと推測されるが、この楽曲があるとないとでは、主人公ナインティーンハンドレッド(ティム・ロス)のキャラクターが大きく変わってくる。

《Thanks Danny》は、要するに機関士たちが赤子をあやすために歌った“子守唄”である。それを聴きながら成長したナインティーンハンドレッドは、ある意味で黒人音楽(から派生したジャズ)の“英才教育”を受けて育ったピアニストなのである。だから彼の中には、黒人音楽の血が自然と流れている。それが物語中盤、自分がジャズを生み出したと称するピアニストのジェリー・ロール・モートン(クラレンス・ウィリアムズ3世)と“ピアノ決闘”をする有名なシーンの伏線となっている。いくらナインティーンハンドレッドがピアノの神童だからといって、簡単にジャズの名手を打ち負かせるわけではない。それなりの生い立ちがなければ不可能なのだ。

この《Thanks Danny》(と黒人音楽)が、ナインティーンハンドレッドの生い立ちにどれほど大きな影響を与えているか。そのことをはっきり示すのが、三等船客たちに囲まれた彼が物思いに耽りながら、アップライト・ピアノを演奏するシーンである(このシーンはイタリア完全版、インターナショナル版ともに含まれている)。そこで彼が弾いているのは、他ならぬ《Thanks Danny》のピアノ・ヴァージョン、サントラ盤では《ダニーズ・ブルース》というタイトルが付された楽曲だ。ナインティーンハンドレッドが生まれて初めて耳にした《Thanks Danny》は、成長した彼の記憶の中にずっと留まり続け、それを《ダニーズ・ブルース》として演奏することで、彼が幼い頃に事故死した育ての父ダニーへの忘れ得ぬ想いを表現している。イタリア完全版では、そうした音楽の意味がはっきり伝わってくるのだが、《Thanks Danny》の歌唱場面がカットされたインターナショナル版では、ナインティーンハンドレッドが突然《ダニーズ・ブルース》を弾き始めるので、観客にはその楽曲が何を意味するのか全くわからず、かなり唐突な印象を受ける。

このように、たった1曲あるかないかの違いで、映画そのものの印象が大きく変わってくる。そこに、イタリア完全版でモリコーネとトルナトーレ監督がこだわり抜いた音楽の使い方、ひいては映画音楽の面白さを感じることが出来るだろう。

他にもまだまだ例を挙げることが出来るが、あとは実際に本編をご覧になって、観客それぞれがその面白さを発見していくのがよい。順番としては、やはり最初にインターナショナル版(4Kデジタル修復版)を先に見て、それからイタリア完全版をじっくり鑑賞したほうが、両者の違いをより明確に感じ取ることが出来ると思う。

ちなみに、トルナトーレ監督はモリコーネを題材にしたドキュメンタリー映画『Ennio, The Mestro(The Glance of Music)』を完成させたそうで、おそらく日本でも近いうちに見れるはずである。

最後にして最初のレクイエムーーヨハン・ヨハンソンの遺作(4)


前島秀国 / 更新日:2020年6月14日


CD(またはLP)+ブルーレイの形でリリースされた、ヨハン・ヨハンソンの遺作『Last and First Men』レビューの完結編。『Last and First Men』は、ヨハン・ヨハンソンの最後にして最初のレクイエムである。



ヨハン・ヨハンソンが「サーガ=歴史=物語」を表現する上で最も得意とした手法は、交響曲のような既存の形式やマックス・リヒターが『メモリーハウス』のような断章形式に頼った作曲ではなく、他ならぬフィルム・スコアの作曲であった。そこに、『Last and First Men』が映画音楽として書かれなければならなかった最大の理由が存在すると思う。“架空のサウンドトラック”のようなコンセプチュアル・アートではない、本物の映画音楽だ。

映像のテンポと音楽のテンポが一致している点については、すでに触れた。しかも、意外に思われるかもしれないが、『Last and First Men』は劇映画のサントラ(いわゆる劇伴)としての最低限の要素も備えているのである。

最もわかりやすいのは、超新星化が始まった太陽をたった一度のクラスター(密集和音)で表現した《The Sun》、あるいはその直前の場面のために書かれた《The Navigators》であろう。この場面では、第18世代の中でも特に優れたナビゲーター(宇宙飛行士)たちが星間探査中に死亡または発狂するという事故に遭遇し、その結果、恐怖に襲われた全人類が引きこもり状態に陥ってしまう。この部分の音楽で、ヨハンソンは弦楽器の不安な音形を約8分近くもねっとりと繰り返していくことで、第18世代が死の恐怖にじわじわと取り憑かれていくさまを見事に表現している。画面を見てみると、「コルドゥンとバニージャの人民蜂起記念碑」として知られる未来建築の廃墟が、さながらホラー映画の幽霊屋敷のように霧の中から現れる。音楽も映像も物語もホラー、いやオカルトだ。しかもこの部分、つまり死の恐怖を表現した音楽が、実は『Last and First Men』全曲における最大のクライマックスなのである(CDのサントラ音源は2chステレオだが、本編では音楽が5.1サラウンドのミックスで地響きを立てて鳴り響くだけでなく、さらにもう一捻りショッキングな演出が加えられている)。

だが、『Last and First Men』は単なるサントラ(劇伴)に終わらない、もうひとつ重要な特徴をそなえている。それは、音楽が物語をナラティヴに表現しているだけでなく、物語を伝えるナレーター(すなわち第18世代のメッセンジャー)と音楽が独特の関係で結ばれているという点だ。つまり、ナレーターの存在自体が音楽の構成要素のひとつであり、ひいては音楽の成立において重要な役割を果たしているのである。その手法は、すでにヨハンソンの過去の(非サントラの)アルバムにおいても姿を見せている。

再び、ヨハンソンと僕の最後にして最初のインタビューから引用する。
「アルバム『IBM 1401 – A User’s Menual』では、ナレーターが1960年代のコンピューターのマニュアルを朗読しているのですが、そのナレーションがあたかも昔のアーカイヴ録音を発掘してきたような感じを生み出し、音楽の表現対象(注:IBMコンピューターのこと)と一体化するというわけです。同様にアルバム『オルフェ』でも、乱数放送の奇妙なナレーションが地上と冥界というふたつの世界をまたぐメッセンジャーの役割を果たしているのですが、そうしたナレーションが(地上と冥界を行き来する)オルフェの神話にピッタリだと感じました」

『Last and First Men』のティルダ・スウィントンのナレーションが、ほとんど感情を表さず、まさに「マニュアルを朗読」するように物語を淡々と伝えている最大の理由が、実はここにある。スウィントンくらいの大女優なら、人類第18世代のメッセンジャーという役柄を演じることぐらい簡単だろうし、あるいはスポメニックの廃墟映像に相応しい感動的なナレーションを吹き込むことだって可能だろう。だが、そのどちらかにも偏っていけない。少なくとも、ヨハンソンはそういうナレーションを望んでいなかった(ヨハンソンは、スウィントンのナレーションを自ら演出・録音している)。なぜなら、この作品が有する多義性――先に触れたような「物語=歴史=サーガ」を伝えるという多義性――が失われてしまうからである。

原作を読んだことのあるリスナーならおわかりかと思うが、実は映画に用いられたナレーションにおいて、ヨハンソンは原作の最も有名な箇所を敢えてカットしている。本編のラストに登場する「偉大なるは星々。人間などとるに足らぬ。だが、人間は清らかな魂、星によって生まれ、星によって死がもたらされる魂である」という言葉の後、原作は次のような感動的な言葉で締め括られる。「間違いなく言えるのは、少なくとも人間自身が音楽であり、しかも、嵐と星々の広大な伴奏と共に音楽を奏でる勇敢な主題であるという点だ。(中略)人間という音楽に美しいコーダをもたらすのは、結局のところ、我々自身だから」。

音楽家であるヨハンソンが、当然このラストの言葉を見逃すはずがない。これをカットしたのは、わざわざこの映画で使う必要がなかったからだ。つまり、ヨハンソンのスコアがまさにその“音楽”を奏でているのである。

この”音楽”をヨハンソン自身の死と結びつけてよいものなのか、僕には判断がつかない。いや、つけるべきではないのだろう。だが、事実として、ヨハンソンは2018年2月に現世から冥界に向かってしまい、彼自身が「ふたつの世界をまたぐメッセンジャー」になってしまった。そして、人類第18世代のメッセンジャーが第1世代の書き手をチャネラー(霊媒師)にしてメッセージを送り届けてきたように、ヨハンソンも補筆者のグロットマンを媒介にすることで、彼の最後のメッセージとなったこの作品を、我々に送り届けてきた。別の言い方をすれば、ヨハンソンは望むと望まざるとに関わらず、自らの生涯をこの作品の内容に組み入れることで、『Last and First Men』の作品世界と一体化してしまったのである。

映画の後半、死が目前に迫ってきたメッセンジャーは平静を装いながらも、こう語りかけてくる。「君たちに到達するのが困難になってきた。それどころか、君たちに話しかけることも困難になってきた」。僕はその言葉の中に、この作品を現世に残したまま冥界に旅立ってしまったヨハンソンの辛い心情を読み取らずにいられない。

それでも、メッセンジャーとなった彼はグロットマンを通じて『Last and First Men』をかろうじて送り届けてきた。それは、サントラとしての物語的要素を最低限備えながら、死の恐怖を見据えた上で人類の終わりを描き、過去のヨハンソンの音楽語法をほぼすべて投入しながら、人類の歴史=物語=サーガを総括して描いたレクイエム、すなわち「人間という音楽」である。しかもその音楽は、図らずも作曲者ヨハンソン自身のレクイエムとなってしまった。こんな音楽は、とても現世の人間には書けない。もし、例外があるとすれば、それはモーツァルト未完の遺作《レクイエム》だけだろう。

『Last and First Men』は、ヨハン・ヨハンソンの最後にして最初のレクイエムである(了)。
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