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スティーヴ・ライヒ85歳記念の最新作を聴く


前島秀国 / 更新日:2021年10月26日


10月3日に85歳の誕生日を迎えたスティーヴ・ライヒの最新作「Traveler's Prayer」が、10月16日(現地時間)コリン・カリー・グループとシナジー・ヴォーカルズ(指揮はカリー)のアムステルダム・コンセルトヘボウ「Steve Reich 85!」公演で世界初演された。10月現在、オランダの公共ラジオNPO Radio 4の公式サイトとYoutubeでライブ映像が無料配信されている。



スティーヴ・ライヒ・アンド・ミュージシャンズ(指揮者を置く時はスティーヴ・ライヒ・アンサンブル)が実質的に活動を停止している現在、ライヒ作品の演奏の第一人者と言えば、おそらく誰もが打楽器奏者コリン・カリーの名前を挙げるだろう。2017年のコリン・カリー・グループ&シナジー・ヴォーカルズの来日公演でカリーが指揮した「テヒリーム」の演奏をその場で聴いたか、あるいはその公演のNHK-BSでの放送を見た読者なら、不当にもこれまで“宗教臭い”というレッテルが貼られてきた「テヒリーム」が、あまりにもスリリングかつエモーショナルな音楽に聴こえてきて驚かれたはずである(ライヒ自身、「テヒリーム」を自分の最高傑作とみなしている)。その公演後、ライヒがカリーのために新作の作曲を計画しているという話を耳にしたが、ようやくその作品がライヒ生誕85年記念の一環として世界初演された。

曲名の「Traveler's Prayer(旅行者の祈り)」というのは、何らかの交通機関を使う旅行者が、旅の安全を祈願して暗誦する祈りのことで、その中からライヒは次の3つを選んで歌詞に用いた。まず、出エジプト記23:20「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」(新共同訳)、それから創世記49:18「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。」(新共同訳)、そして詩篇121「あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」(新共同訳)となっている。

この歌詞だけ見てみると、ライヒがコリン・カリー・グループとシナジー・ヴォーカルズのツアー演奏の無事と成功を祈った作品と解釈することも出来る。長年、ライヒが彼ら彼女らに寄せる全幅の信頼から考えれば、そういう個人的な作品を作曲したとしても、べつだん不思議なことではない。しかしながらライヒは、この作品を昨年のパンデミックの真っ最中に作曲した。「(新型コロナ)ウィルスが、歌詞の言葉の重みを変えた」と彼自身が作曲ノートに書いているように、「旅行者」あるいは「旅」の意味は、パンデミック以前と以後で全く変わってしまっている。特にロックダウンを実際に経験した欧米なら、なおさらだ。したがって、この作品は、ライヒが懇意にしている特定の演奏者のための祈りというより、もっと普遍的な祈り――敢えて言えば人類全体への祈り――と捉えるべきなのだろう。

で、この歌詞(ヘブライ語)を4人の歌手(ソプラノ2、テノール2)がカノンで歌っていくのだが、もし、作曲者の名前を伏せてこの作品を聴いたら、おそらくほとんどの人はルネサンス以前の声楽曲に現代的な伴奏パートを最小限に加えた作品と錯覚するのではないかと思う。これまでライヒのトレードマークとして親しまれてきたパルスの使用もないし、そもそも拍節感というものがほとんど存在しない。ライヒが影響を公言しているペロティヌスよりも、リズム感がさらに希薄である。ほとんど無時間的というか、まさにEternal(永遠なる主)を指向している音楽だ。こういう音楽をライヒが書くようになるとは、おそらくほとんどの人が予想していなかったと思う。

僕が最初にこの作品を聴いた時、真っ先に連想したのはライヒのオペラ第2作「スリー・テイルズ」、特に第2幕「ビキニ」の部分だが、実際、「Traveler's Prayer」の薄いオーケストレーションは「ビキニ」に酷似しているし、それより何より、両者はともに旧約聖書のテキストを歌詞に用いているという共通点がある。かつてライヒは「声楽曲の作曲は、器楽曲の場合と全く違う。歌詞の意味を伝えなければいけないから」と僕に教えてくれたことがあるが、彼が旧約聖書のテキストに作曲する場合、基本的なアプローチはさほど大きく変わらないのかもしれない。もっとも、今回の場合は逆行カノンや転回など、今まで彼が用いなかった技法も使われているが、全体的な印象としては、やはり「永遠なる時間」の音楽である。

もうひとつ言えるのは、ライヒがこの作品ほど声の響きの美しさを歌手たちから引き出した作品は、他に「テヒリーム」しか存在しないのではないかという点である(実際、今回のコンセルトヘボウ公演では「Traveler's Prayer」の前に「テヒリーム」が演奏された)。ただし、スコアを見る限り、「Traveler's Prayer」は「テヒリーム」に要求されているマイクとPAの指定がない。明らかにライヒは、コンセルトヘボウのような響きの良いホール、つまり声楽が広い空間に美しく響き渡るコンサートホールを前提にして作曲している。どんな複雑なリズムも1音足りとも聴き逃さないようマイクで正確に拾って伝えるという、これまで彼が頑なに貫いてきた厳しい作曲態度からは、絶対に「Traveler's Prayer」のような声楽曲は生まれない。わかりやすく言えば、「Traveler's Prayer」はホールを楽器の一部とみなし、その響きを前提条件として書かれた、初のライヒ作品なのではないかと思う。当然のことながら、生演奏で聴かなければ意味がない作品である。だからこそ、ライヒがこの作品の歌詞に託した作曲意図が伝わってくるのだ。演奏者も聴き手も、平穏無事に演奏会場を訪れる「旅」が出来る世の中に戻って欲しいという、祈りのメッセージが。

なお、スコアに明記されているように、「Traveler's Prayer」は東京オペラシティ文化財団が共同委嘱者に名を連ねており、ライヒ自身もここ最近のインタビューで「東京でも演奏予定がある」と明言しているので、それほど遠くない将来、この作品を東京でも生の響きで聴ける日が訪れるのではないかと思う。

YoutubeでのURL:
https://youtu.be/xPw5GBJGUvU

遅い低空飛行に終始したジョン・ウィリアムズ指揮ベルリン・フィル


前島秀国 / 更新日:2021年10月17日


日本時間10月17日午前2時よりベルリン・フィル・デジタル・コンサート・ホールでライブ配信された演奏(3日め)をリアルタイムで鑑賞した。こちらの期待が大きすぎたせいか、何とも言えない違和感だけが残った。ウィリアムズの年齢からくるテンポの遅さは仕方ないにしても、ウィーン・フィルの時に感じられたウィリアムズとのケミストリーの再来は、最後まで確認できなかった。



前半冒頭の「オリンピック ファンファーレとテーマ」と「未知との遭遇」は、ベルリン・フィルの機能美のデモンストレーションには誠に相応しい選曲で、実際、音楽的にはこれ以上望むべくもない正確な演奏だったが、何か喜びが感じられないのである。一言で言えば、面白くない。それがはっきりわかったのは、次に演奏された「遥かなる大地へ」の組曲だ。

演奏前には、マイクを握ったウィリアムズが恒例の楽曲解説をおこなったが(しかもかなり長かった)、その中で彼がさかんに強調していたのは、基本的に作曲者自身はこの映画をロマンティック・コメディだと捉えていること、特に「ドニーブルック・フェア」と呼ばれる乱闘シーンの音楽は、サイレント映画時代のパイ投げまで遡るコメディの音楽として作曲している、という点だった。にも拘わらず、実際の演奏が始まると、コミカルな要素は微塵も感じられなかった。最初のセクションからアイリッシュなテーマを全身全霊で演奏するオケは、あたかもアイルランド民謡を演奏するバンドに無理やりタキシードを着せ、土臭さをいっさい消した上で“芸術音楽”を演奏しているような違和感を覚えた。そして、「ドニーブルック・フェア」のセクションになると、チェロとコントラバスが16分音符のモティーフを凄まじい重量感で弾き始める。その勢いとキレのよさは、おそらく他のすべてのオケから羨望の眼差しを浴びることだろう、演奏面だけを見れば。だが、これは酔っ払ったアイルランドの荒くれ者が繰り広げるコミカルな乱闘シーンの音楽なのである。世界チャンピオンの座を掛けた超一流ボクサーの試合ではない。ベルリン・フィルの音楽的姿勢上、演奏にいっさい手を抜けないのは仕方ないにしても、この演奏ではまったく笑えない。こんなに真面目に演奏して、どうする? 演奏前、ウィリアムズが長々と曲の解説をした意味が、なんとなくわかったような気がした。優れた演奏なら、特に説明しなくても音楽の意図が伝わるものだから。

後半の最初に演奏された「スーパーマン」は、ウィリアムズの作品の中でも難曲として知られる(とりわけ金管セクションの負担が大きい)音楽だが、悠然たるテンポの遅さと相俟って、どうにも高揚感が感じられないのである。言うなれば、重爆撃機の低空飛行。その威容と轟音に圧倒されるのは確かだが、クラーク・ケントがスーパーマンに変身して軽やかに飛び立つような驚きと鮮やかさ、SF用語で言うところのセンス・オブ・ワンダーは全くない。はじめから「超人的なスーパーマンで当たり前だろ?」と言わんばかりの威圧的な演奏である。

「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の「オートバイとオーケストラのスケルツォ」も同様である。オケが上手すぎて、いつ主人公たちを乗せたサイドカーがひっくり返るか、つまり音やリズムを外すかわからないというハラハラドキドキ感が全くない。ナチスのオートバイ部隊を表現したセクションと、ショーン・コネリーとハリソン・フォードの珍妙なやりとりを表現したセクションの対比が全く感じられず、音楽全てが一糸乱れぬゴージャスな軍隊色に塗りつぶされている。スケルツォどころか、敵と味方の区別もあったもんじゃない。それは映画音楽じゃないと思うのだ。

後半最後の『スター・ウォーズ』3曲は、やや高揚感を感じさせる演奏だったが、どんな音符も一音たりとも疎かにしない生真面目な姿勢が裏目に出てしまったような気がした。我々は、ジョン・ウィリアムズという類まれな作曲家の映画音楽の真髄が聴きたいのであって、すべての音符を見逃さないスコア・アナリーゼを望んでいるのではない。コメディも、ファンタジーも、アクションも、すべて等しく全力投球で演奏するベルリン・フィルを聴いていると、どの曲も大して代わり映えしない印象すら受けた。唯一の例外は、比較的オーケストレーションで書かれたチェロと管弦楽のための「エレジー」(実のところ『セブン・イヤーズ・イン・チベット』のモティーフを素材にしている)だが、あとはベルリン・フィルらしい重低音に支えられた、五度音程の跳躍と威勢のいいファンファーレがひたすら鳴り響き続けるマーチ集である。

指揮のテンポの遅さは、これはもう仕方ない。だとしても、昨年1月のウィーン・フィルとの演奏で感じられた祝祭感が完全に欠如しているのは、いったいどういうことだろうか? ウィーン同様、聴衆の熱気は大変なものだったが、4Kカメラで撮影された鮮明な映像から判断する限り、どうもオケのメンバー全員が今回のウィリアムズとの共演を手放しで喜んでいるようには見えなかった。演奏前、ウィリアムズを盛んに褒め称えるオケのメンバーのインタビューが、くどいほど流れたにも拘わらず。

譜面を正確に演奏することにかけては、おそらくベルリン・フィルを凌駕する団体は存在しない。それは疑うべくもない事実なのだが、何かが欠けている。チャーム、色気、祝祭感、華やかさなど、表現は人によって異なるだろうけど、僕が思うに、このオーケストラの劇音楽に対する取り組み方、わかりやすく言えばエンタテインメントに対する取り組み方が、この演奏の欠如感の最大の原因ではないかと思う。

演奏の細部や正確さについて言えば、ウィーン・フィルより今回のベルリン・フィルのほうが圧勝だ。それでも、ウィーン・フィルのほうが圧倒的に楽しく、何度でも鑑賞する気になるのは、ウィーン・フィルがオペラのオーケストラを母体にしていることと無縁ではない。ウィーン・フィルには、劇音楽(オペラ)のどこをどう面白く演奏すべきか、エンタテインメントとしてのツボが骨の髄まで染み込んでいる。その経験が、ウィリアムズのような映画音楽を演奏した時に――オペラか映画音楽かという違いはあれど、喜劇や悲劇のようなドラマを表現する劇音楽として――最大限に発揮されたのではないか。ましてや、ウィリアムズが属するオールド・スクールのハリウッド映画音楽の源流は、コルンゴルトやスタイナーのようなウィーンの作曲家まで遡ることが出来るわけだし、その意味ではウィリアムズの映画音楽もれっきとしたオペラの末裔だ。それが、ウィーン・フィルとの共演を包み込んでいた“魔法”である。その“魔法”が、今回の演奏には微塵も感じられなかった。「ハリー・ポッターと賢者の石」の「ニンバス2000」に聴かれる木管セクションのアンサンブル能力の見事さは、“魔法”というより、高度な“科学”のメカニズムを連想させた。あくまでもウィリアムズの譜面を“純音楽”として突き詰め、この上ない正確さで表現するというストイックな姿勢はそれなりに高く評価したいが、だからといって、ウィリアムズの音楽の本質が新たに明らかにされるということはなかった。

結局のところ、映画音楽は――かつてコルンゴルトが言ったように――歌のないオペラであるという事実を逆説的に証明したところが、今回のベルリン・フィル客演の最大の意義だったのかもしれない。アンコール終了後、舞台袖にウィリアムズが引っ込んでから10分以上スタンディング・オベーションが続いていたが、それでもマエストロは舞台に戻ってこなかった。

アン・セット・シスは新たなる希望 A New Hopeである


前島秀国 / 更新日:2021年10月18日


山中惇史と高橋優介によるピアノ・デュオ、アン・セット・シスがアルバム『ジョン・ウィリアムズ ピアノ・コレクション』発売を記念し、10月15日に浜離宮朝日ホールでデュオ・リサイタルを開催した。プログラムはCDとほぼ同じだが、CD未収録の編曲も今回新たに披露された。その演奏を聴き、終演後、彼らと少し話してみて。



客電を完全に落とした暗闇の中から、アン・セット・シスの演奏する「Opening」(山中作曲)が神秘的に響いてくる。なるほど、当夜のコンサートという“映画”の幕開けにふさわしいオープニングだ。CDを聴いた時も感じたが、彼らは単にウィリアムズの映画音楽のトランスクリプションを演奏するのではなく、ある世界観の中で統一された物語(あるいは物語たち)を観客に届けようとしている。いまの若い世代らしい、聡明なコンサートの作り方である。

『ハリー・ポッター』の組曲に関しては、先に投稿したCDレビューと重なる部分も多いので、『スター・ウォーズ』の組曲を中心に話を進めたい。

当夜の演奏では、CDに収録された「メイン・タイトル」「ルークとレイア」「アナキンのテーマ」に加え、CD未収録の「フラッグ・パレード」(『エピソード1 ファントム・メナス』)を合わせた計4曲の形で披露された。

Youtubeなどに無数にアップされている「スター・ウォーズのテーマを弾いてみました」の類のアマチュア演奏を除けば、「メイン・タイトル」を本気で弾いたアーティストとして、10年ほど前に録音をリリースしたインゴルフ・ヴンダーの例が思い浮かぶ。だが、所詮2手なので、限界はあった。とりあえず主要なメロディは追えているものの、ショパンのようにウィリアムズは弾けないな、というのが僕のヴンダー盤の感想だったが、当夜のアン・セット・シスは当然のことながら2台ピアノなので、ほぼ3管編成の原曲の醍醐味を過不足なく置き換えていた。ウィリアムズ本人が指摘しているように、この曲は一種の軍隊行進曲として書かれているのだが、彼らの2台ピアノの演奏を聴いていると、シューベルトの「3つの軍隊行進曲」が自然と思い浮かんできて、自分でもびっくりした。より正確に言えば、彼らの演奏はリスト編曲のシューベルトくらいの難易度だけど。

しかし、それよりも驚いたのは、高橋と山中がそれぞれソロを披露した部分である。ドビュッシーか何かのような色彩豊かで繊細なタッチで弾かれた「ルークとレイア」(高橋)の冒頭は、ほとんど印象派のピアノ音楽の世界である。「アナキンのテーマ」(山中)に至っては、もう完全に後期ブラームスの小品集の世界、つまり曖昧な調性感の中でひたすら内的な世界を綴っていく、滋味と若干の苦々しさを含んだ“晩年の音楽”に仕上がっている。『スター・ウォーズ』の音楽を聴いてそんなことを感じるとは、当夜の会場に足を運ぶまで、夢にも思わなかった。

そして、組曲の最後に「フラッグ・パレード」が2台ピアノで演奏されたが、本編をご覧になった読者ならご存知のように、この楽曲が流れるポッドレースのシーンは『ベン・ハー』の戦車戦のシーンを踏まえているので、ウィリアムズの音楽も『ベン・ハー』のミクロス・ローザの音楽(チルクス・パレード)を強く意識した楽曲(というより完全なオマージュ)として書かれている。パーカッシヴな奏法を多用する彼らの「フラッグ・パレード」の演奏を聴いていると、ローザというより、むしろローザが多大な影響を受けたバルトーク(ふたりともハンガリー人である)が透けて聴こえてきたので、自分でも面食らってしまった。ウィリアムズの曲もローザの曲もさんざん愛聴しているのに、なぜ今まで、気づかなかったのだろう! それを教えてくれた彼らの演奏は、少なくとも僕にとっては啓示であった。

このように、アン・セット・シスのふたりは、敬愛するウィリアムズを愛情込めて編曲・演奏しながらも、その音楽がどこから来たのか、つまりウィリアムズに至る音楽の伝統を強く意識しながら、このプログラムを練り上げ、録音し、実演に漕ぎ着けている。クラシックのピアニストとして、ウィリアムズに対するこれ以上の愛情表現は他にない。ウィリアムズの音楽を無理に“ショパン”にするのではなく、シューベルトでありブラームスでありバルトークであり、あるいはプロコフィエフであるウィリアムズの源流を音楽的にしっかり掬い取った上で、クラシックの文脈でも違和感がない作品として演奏しているのである。終演後、ふたりと直接話してみてわかったが、かつてウィリアムズのシンフォニックな映画音楽が「ポップス」「軽音楽」といった不当なレッテルを貼られていたダークサイドの暗黒時代を、彼らは全く知らずに育ってきている。うらやましい。なんと素晴らしいことだろう! 今後、ウィリアムズの映画音楽をクラシック・レパートリー化していく上で、彼らのような若い世代の演奏家こそ、新たなる希望(A New Hope)ではないかと感じた。
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