来日オーケストラ&指揮者特集!2023春夏 
寺西基之の音楽日記をイッキ見

大巨匠が伝えるイタリア・オペラの真髄


寺西基之 / 更新日:2023年4月19日


東京・春・音楽祭2023 「リッカルド・ムーティ イタリア・オペラ・アカデミー in 東京vol.3」



 毎年3月中旬から約1か月間、東京・上野で開催される“東京・春・音楽祭”。東京文化会館をはじめとする上野の様々な文化施設を会場として、多数の演奏会が繰り広げられる大規模な音楽祭だが、ここ数年その中心となっているのが、イタリアの大指揮者リッカルド・ムーティによる「イタリア・オペラ・アカデミー」である。若い音楽家にイタリア・オペラの真髄を伝授するためのアカデミーで、毎回ヴェルディのひとつの作品を取り上げながら、オーディションで選ばれた4人の若手指揮者、これからの活躍が期待される歌手たち、日本の若いトップ・プレーヤーで構成された東京春祭オーケストラに対して、ムーティが2週間近くにわたって指導し、演奏を作り上げていく。

 ムーティは、今日のイタリア・オペラの演奏が作品本来のあり方から離れ、歌手の名人芸を披露することを重んじるエンターテインメントに陥ってしまっていることを危惧し、そうした悪しき慣習を正すために(彼自身の言葉によれば)「闘い続けてきた」。このアカデミーもまさにムーティのその「闘い」の一環であり、イタリア・オペラのあるべき姿を後世に伝えることを目的としている。オケのメンバーに聞いたところではその指導はきわめて厳格で、リハーサルは張りつめた緊張感に覆われるということだが、それは伝道者としての揺るぎのない信念の現われといえるだろう。
 とりわけ尊敬するヴェルディの演奏において、作曲者が綿密に記した楽譜の指定を大衆受けするように改変する習慣(例えばアリアのクライマックスで効果を上げるために、楽譜の指定よりも高い音を出したり、ダイナミクスの指示を無視してフォルティッシモで歌ったりなど)は、ムーティにとってまったく許しがたい行為であり、今日のオペラ界において当然のように行なわれているそうした誤った伝統を是正し、ヴェルディの書いた楽譜に基づく作曲者の真の意図に忠実な演奏のあり方を教え込むことを、彼は自分の使命としているという。今回のアカデミーではヴェルディ中期の傑作《仮面舞踏会》を取り上げて、ヴェルディ演奏がいかにあるべきかが掘り下げられた。

 このアカデミーはリハーサルの段階から公開されている。私も3月24日の東京文化会館大ホールでのリハーサルを見学させてもらい、若い音楽家にヴェルディの音楽の本質を叩き込むムーティの熱い指導ぶりを目の当たりにすることができた。リハーサルは3月19日から始まっていて、この日はすでに仕上がりつつある段階だったこともあってか、事前に聞いていたぴりぴりした雰囲気というまでの感じはなかったが、それでも4人のアカデミー生の指揮者やオケ、歌手たちに何度もダメ出しし、厳しさの中にも時にユーモアを交えながら、曲をいかに解釈し表現するのか、技術的な面のアドバイスを含めながら教え込んでいくその内容は、一切の無駄のない中身の濃いものだった。今年82歳となるムーティだが、こうしたリハーサルを朝から夕方まで連日行なっていたというから恐れ入る。伝道者としての使命感がなければできないことであろう。

 そして3月28日東京文化会館大ホールにおいて、ムーティ自身が指揮する《仮面舞踏会》全曲の演奏会形式によるコンサートが開催された(同内容で30日にも)。配役は主役がムーティの推薦による若い外国人歌手たち、脇役が日本人歌手たちで、アゼル・ザダ(リッカルド)、ジョイス・エル=コーリー(アメーリア)、セルバン・ヴァシレ(レナート)、ユリア・マトーチュキナ(ウルリカ)、ダミアナ・ミッツィ(オスカル)、山下浩司(サムエル)、畠山茂(トム)、大西宇宙(シルヴァーノ)、志田雄二(判事)、塚田堂琉(召使)といったメンバーで、オケは東京春祭オーケストラ、合唱は東京オペラシンガーズである。
 ムーティのタクトから繰り出された音楽はとにかく引き締まっており、イタリア・オペラに連想しがちな歌の饗宴といった要素を排し、ヴェルディの音楽の持つ造型を尊重しながらドラマ性にひたすら迫っていく。一般に耳にしてきた歌手を中心としたカンタービレ重視のヴェルディ演奏を期待すると違和感を覚えるかもしれないが、それこそがムーティの求めるヴェルディ像なのだ。
 何よりオーケストラがすばらしい。コンマスは読響コンマスの長原幸太、フォアシュピーラーはN響コンマスで名ソリストでもある郷古廉をはじめとする様々な楽団の首席奏者を多く擁した若いメンバー中心の東京春祭オーケストラがムーティの意図を余すところなく具現化したといった感があり、その演奏を聴くと、改めてヴェルディの作品においていかにオケが雄弁で重要であり、ヴェルディがそのオケ・パートと歌とを一体的に結び付けることでドラマティックな劇展開を作り上げていることを認識させられる。日本の若手による臨時編成のオケからヴェルディの音楽の持つドラマ性をここまで迫真的に引き出したムーティはただただ凄いとしか言いようがない。
 惜しむらくはリッカルド役のザダとアメーリア役のエル=コーリーの歌唱が聴き劣りしたこと。ザダはこの役に見合う表現の幅がなく、どこか頼りなさを感じさせていたし、エル=コーリーは声域によって声が大きく変わってしまい、特に高音域でのやや無理に声を出しているようなきつい響きは聴いていて少々辛い部分があった。彼女はすでにムーティとシカゴでこの役を共演しており、たしかに役作りの点ではよく考えられていたことが窺えたので、この日は声が不調だったのかもしれない。一方で凄みのある表現でウルリカのキャラクターを描き出したマトーチュキナ、芯の通った声で存在感を示したレナートのヴァシレ、オスカルの喜劇的な狂言回し的役柄を軽妙な歌い回しで表現したミッツィなど、準主役たちはまことに秀逸で、また脇役を務めた日本人歌手たちも好演、特にシルヴァーノ役の大西宇宙の瑞々しい歌唱は魅力的だった。

 続いて4月1日やはり東京文化会館大ホールにおいて、アカデミーの仕上げの成果発表として、アカデミー受講生の4人の指揮者が全曲を分担して振る演奏会形式による公演が行なわれた。指揮は演奏順に澤村杏太朗、アンドレアス・オッテンザマー、レナート・ウィス、マグダレーナ・クライン。今回の歌手は主役と準主役がすべて日本人に入れ替わって、石井基幾(リッカルド)、吉田珠代(アメーリア)、青山貴(レナート)、中島郁子(ウルリカ)、中畑有美子(オスカル)という顔触れである。その他の脇役陣およびオケと合唱は上述の3月28日と同一。
 歌に関して言えば、28日よりこの日のほうが全体のバランスがよい。若手のみならずすでに中堅といえる青山貴や中島郁子も加わっているだけあってレベルは高く、特に個性が際立つ人がいたわけではない代わりに、アンサンブルという面ではよく揃っており、ムーティの指導に沿った的確な歌いぶりには良い意味での安定感があった。
 指揮の4人の受講生は厳しい選抜の末に選ばれたと聞くが、その中にベルリン・フィルの首席クラリネット奏者アンドレアス・オッテンザマーが名を連ねていたのはちょっとした話題だろう(今回の“東京・春・音楽祭”ではクラリネット奏者としてリサイタルも行なっている)。最近指揮者としての活動も活発化しているという彼だが、やはりベルリン・フィルの奏者として一流の指揮者たちのもとで演奏しているだけあって、今回の受講生の中では最も表現のパレットが豊かだった。特に真夜中の野の場面の緊迫感はなかなかのものだったといえよう。他の3人についていえば、澤村杏太朗は誠実さという美点が時に几帳面さに傾いてしまう面があり、ウィスは歌手とオケをドライヴしながら劇的に音楽を進めたもののもう少し余裕が欲しい箇所も散見され、紅一点のクラインも明確な指揮ぶりで勢いある流れを作り出していたが少々単調さを感じるところがなきにしもあらずであった。とはいえそれぞれに健闘しており、オッテンザマーも含め、今後経験を重ねることによって今回のアカデミーで学んだことが花開いてくることだろう。ムーティのもとで彼らとともにリハーサルを重ねてきた東京春祭オーケストラは、各アカデミー生の棒に忠実に従って4人それぞれの性格をはっきりと浮き彫りにしていた。
 最後にムーティが4人に対して修了証書を授与するセレモニーがあり、そこで改めてムーティはイタリア・オペラがエンターテインメントとして扱われている風潮に対して闘っていることを述べて、今年のアカデミーは終了した。

 ムーティのこのアカデミーがイタリアとともに日本で開催されていることはもっと注目されてしかるべきだろう。公開されているリハーサルにしても、私が観た日は客席がまばらだったが、少し覗いてみるだけでもおおいに勉強になるので、オペラ・ファンはもちろんのこと、特に指揮や歌手を志している音大生などにはぜひとも聴講してもらいたいものだ。来年以降についてはまだ発表されていないが、今後も継続していってほしいアカデミーである。

《レコード芸術》まさかの休刊 


寺西基之 / 更新日:2023年4月6日


70年以上もの歴史に終止符?



 去る4月3日、音楽之友社の《レコード芸術》(以下《レコ芸》)が7月号をもって休刊となることが発表された。あまりにも突然のことで、レギュラーの執筆陣にとっても寝耳に水の発表だったという。それどころか音楽之友社社内にもこのことは知らされておらず、《レコ芸》編集部ですら伝えられたのは直前だったらしい。休刊の理由として、「当該雑誌を取り巻く大きな状況変化、用紙・印刷など原材料費の高騰」が挙げられているが、CD不況の中でレコード会社からの広告が取れなくなったことが大きいだろうし、加えて内容が充実している分、毎号文字数も執筆者の数も非常に多く、原稿料が相当なものになるというところで経営陣が大鉈を振るったということなのだろう。

 しかしそれによって失われてしまうものはあまりにも大きい。1952年に創刊されたこの《レコ芸》は、実に70年以上という長い歴史の中で、レコード文化、CD文化への貢献という面にとどまらず、日本におけるクラシック音楽文化全体の普及と振興にきわめて重要な役割を果たしてきた。レコード評・CD評だけでなく、様々な視点からの多くの論考やエッセイをふんだんに載せることで、多角的に音楽文化を考察し論じてきたこの雑誌が日本の音楽界にもたらしたものは多大なものがあり、一般の愛好家から専門家までの幅広い層を取り込むような内容の広がりは、他の音楽誌にはまったくないものだといってよい。

 休刊がCD業界へもたらす影響も甚大だろう。そうでなくてもCD業界は今苦しい状況にある。それを支えてきたのがほかならぬ《レコ芸》だった。充実したCD評や詳細な新譜情報がなくなってしまったら、CDの情報が入りにくくなり、そうでなくても少なくなっている購入者がさらに減ってしまうに違いない。休刊がCD文化の衰退を加速させ、CD業界をさらに窮地に追い込んでしまうことが危惧される。

 私自身、執筆者としてはこれまでほとんど《レコ芸》には関わってこなかったが(《レコ芸》で“寺西”とあったら、まずは寺西肇さんのことです。時に間違えられるので念のため)、1970年代から《レコ芸》の読者で、音楽誌の中で最も愛読し、多くのことを学ばせてもらったのが《レコ芸》だった。それだけに休刊というのはあまりに忍びない気持ちでいっぱいだ。出版業界は大変な状況にあることは理解できるが、音楽文化の発展を使命としている音楽之友社のこと、例えばWEBのような形で、内容を縮小してでもこれまでの《レコ芸》の精神を受け継ぐような新たな形態を考えていただけないものか。日本を代表する音楽出版社としての矜持を示してほしいと願うのは、私だけではないだろう。

クァルテット・エクセルシオの快挙~完結したベートーヴェン弦楽四重奏曲全集録音


寺西基之 / 更新日:2022年1月11日


新譜CD《ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 作品130、大フーガ 変ロ長調作品133》クァルテット・エクセルシオ[ライヴノーツWWCC-7959]



 結成から四半世紀以上、今や実力・名声ともに日本の弦楽四重奏団の最右翼に位置するクァルテット・エクセルシオだが、当初からレパートリーのひとつの軸となってきたのがベートーヴェンの作品だった。長年にわたってベートーヴェンの演奏に取り組んできた彼らが、その経験を踏まえた上で、満を持して全集のレコーディングに乗り出したのが結成20年を迎えた2014年のこと、そしてそれがついにこのたび「第13番/大フーガ」(2020年9月録音)でもって完結した。オール日本人によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲としては初の全集とのことで、まさに快挙といってよいだろう。

 このCDは全曲録音の最後を飾るにふさわしいすばらしい出来栄えだ。ベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲の中でも第13番はとりわけ内省志向が強く、渋い作品というイメージが持たれがちだが、エクセルシオは濃やかなカンタービレを生かした人間味あふれる音楽を展開している。どのフレーズをとっても歌心が感じられ、その歌の息遣いが4人ぴったりと揃っていて、そこから生まれる情感のこもったふくよかな響きが大きな広がりを作り出している。ユニゾンで始まる第1楽章冒頭など、一般にはいかにも厳粛あるいは神妙な出だしといった印象を与える演奏が多いが、エクセルシオはこの出発点からして、聴く者を包み込むかのようにごく自然にベートーヴェンの世界に引き込んでしまう。この序奏に続く第1楽章主部のダイナミックな起伏に満ちた推進力、躍動を生かした第2楽章とゆったり目のテンポをとって心穏やかな気分を生み出す第4楽章という2つの舞曲楽章のコントラスト、2つの歌謡楽章(第3楽章と第5楽章)における深い叙情など、各楽章の性格付けも的確で、特にこの作品の白眉ともいえる第5楽章カヴァティーナは深い情愛を湛えた潤いあるカンタービレが印象的だ。こうした人間的な温もりを感じさせる表現で楽章どうしの性格を対照付けていく流れからみれば、最後の第6楽章として、初稿の「大フーガ」ではなく、改訂稿である軽快なフィナーレを続けたことは自然でしっくりする。とかく竜頭蛇尾などともいわれる改訂稿フィナーレだが、エクセルシオの演奏では、生き生きとした明澄な躍動のうちにベートーヴェンが最後に達した達観の境地のようなものが感じられ、改めてこの改訂稿の魅力が再認識させられる。本CDでは「大フーガ」はそのあとに、つまり独立した形で収録されているが、これもまた情感に満ちた名演だ。ベートーヴェンの作品の中でもおそらく最も難解で複雑、厳粛で近寄りがたい超然としたこのフーガだが、エクセルシオの演奏では、血の通った4つの声部の絡みが生命感のみなぎる音の流れを形成して、どこか人懐っこさすら感じさせるものとなっているのが興味深い。

 最近の弦楽四重奏の演奏スタイルの傾向として、尖がった表現や独自の解釈などの導入、ノン・ヴィブラートを主体とした古楽的奏法の採用といった新しい潮流がみられるが、エクセルシオはそうした流れに与せず、結成当初から伝統的な正攻法でアプローチする姿勢を重視し続けてきた。活動初期にはそうした姿勢が時にやや几帳面すぎる結果に結び付くこともあったが、決して新しい傾向に流されず、もともとからのオーソドックスな路線をぶれることなく究め続けることで、エクセルシオは自らのスタイルを熟成させ、日本を代表する弦楽四重奏団としての今の地位を築いたといえる。今回完結したベートーヴェン全集はそうした長年の探求のひとつの輝かしい成果だ。足掛け7年におよぶこの全集録音の間には第2ヴァイオリンのメンバー交代があったにもかかわらず、演奏の質にはまったく影響がなかったのも、エクセルシオとしてのスタイルと方向性が真に盤石なものとなっているからに他ならない。まさにこの全集はこれまでのエクセルシオの活動の集大成である。同時に、さらに上をめざしての活動の新たな出発点でもあろう。正統路線の王道を行くクァルテット・エクセルシオが今後どのようにさらなる高みを築いていくのか、おおいに注目したい。
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