寺西基之の音楽日記をイッキ見

第9回静岡国際オペラコンクール 本選 レポート


寺西基之 / 更新日:2023年11月12日


コロナ禍を経て6年ぶりの開催  2023年11月5日 アクトシティ浜松 大ホール



 1996年に始まった静岡国際オペラコンクールは3年ごとに開催されてきたが、2020年に予定されていた第9回はコロナのために延期され、今回やっと実現に至った。コロナ禍の当初は、声楽やオペラが従来の形で演奏・上演できるようになるまでは10年くらいかかるのではないかというような見方すらなされていたが、今ではもうオペラはふつうに上演されるようになり、声楽界・オペラ界が思っていたよりも早く正常化したことは喜ばしい。今回のこのコンクールも以前と同様の形で開催され、33の国・地域から271名の応募(前回に比べて80名増という)があったことはまことに祝着である。

 結果的に予備審査で絞られて60名の出場者が決定後、辞退者が出て、第1次予選(10月28~30日)の参加は51名。そのうち16名が第2次予選(11月1~2日)に進み、最終的に本選(11月5日)には6人が残った。私が聴いたのはその本選。6人の内訳が韓国4人、日本2人で、欧米や中国の参加者がひとりも残っていなかったことには少々驚いたが、それについてはあとでまた触れよう。本選では各自がアリア2曲をピットに入ったオーケストラの伴奏で歌うが、そのうちの1曲は自選曲、1曲は第2次予選通過後に審査委員会が指定する選定曲となっている。まずは6人を聴いた感想を登場順に。

 一人目はバリトンのパク・サムエル(韓国)。声がきれいで、伸びがあるのが魅力で、自選曲である『タンホイザー』の「夕星の歌」でその美質が発揮され、柔らかい声による情感を込めた歌いぶりがとてもよかった。選定曲である『ファルスタッフ』の「夢か現か」ではフォードの心の動揺がもっと前面に打ち出されてもよかっただろう。
 二人目のテノールのパク・ジフン(韓国)は明るく輝かしい声の持ち主である。『連隊の娘』のトニオの「ああ、友よ、なんと楽しい日」では豊かなカンタービレが生き、またハイCもうまく決まって自身の持ち味を発揮した。『イル・トロヴァトーレ』のマンリーコのアリアも同様だったが、「恐ろしい炎」ではさらに激しい情熱表現が欲しい気もした。
 続いてはバリトンの伊藤尚人(日本)。自選曲にイーゴリ公のアリアを選んだ点がなかなか渋く、じっくり歌い込んでいたところに好感が持てたが、この曲の場合、もう少し声の強さや太さや重さを求めたい。選定曲の『フィガロの結婚』の第3幕のアルマヴィーヴァ伯爵のアリアではテンポが走って前のめりになってしまったのが残念。
 休憩を挟んで登場したバス・バリトンのチョー・チャニ(韓国)は自選曲の『カルメン』の「闘牛士の歌」がどこか余裕のない歌唱で、エスカミーリョらしい勇ましさに不足。選定曲の『セビリアの理髪師』の「陰口はそよ風のように」は丁寧に歌っていたが、やや慎重すぎてこの曲の面白さが充分に表現できていなかったきらいがある。
 今回紅一点となったメゾソプラノの山下裕賀(日本)は、選定曲の『ウェルテル』の「手紙の歌」でシャルロットのときめく感情をデリケートに歌い上げ、自選曲の『ナクソス島のアリアドネ』での作曲家役の心情を巧みに声に乗せた歌唱もすばらしかった。ただ声量が今一つのため、持ち味の豊かな表現力が客席まで充分に伝わってこないのが惜しい。
 最後はバリトンのキム・ジャングレ・ノア(韓国)。自選曲の『ファウスト』の「門出を前に」では、豊かな声量のうちに包み込むような柔らかい叙情性を発揮、途中のマーチ風の箇所では力強い歌いぶりを見せるなど、表現の幅が広い。『セビリア』の「私は町の何でも屋」での表情の変化も秀逸。両曲とも余裕をもって自ら楽しんで歌っている感があった。

 結果はパク・サムエルが1位、パク・ジフンが2位、キム・ジャングレ・ノアが3位と韓国勢が上位を独占することとなった(残る3人は入選扱い)。個人的には絶対に1位だろうと予想していたキム・ジャングレ・ノアが3位に甘んじたのは少々意外だったが、この3人が上位に選ばれたことにはまったく異論はなく、入選3人に比べて一日の長があったことはたしかだろう。今や欧米のオペラ・ハウスでの韓国の歌手たちの活躍がめざましいが、改めて韓国の声楽のレベルの高さと層の厚さを思い知らされた次第である。日本人2人も健闘し、伊藤尚人の音楽に対する真摯な姿勢や、前述したような山下裕賀の優れた表現能力は高く評価されるが、パフォーマンス力の点では物足りなさを感じた。これは日本の声楽界の問題ともいえるだろう(なお山下裕賀には日本人参加者のみを対象とした三浦環特別賞が与えられた)。

 審査委員は、三浦安浩(演出家)、チェ・サンホ(テノール;韓国)、ジョスリーヌ・ディエンスト=ブラディン(オペラ・コーチ;フランス)、デイヴィッド・ガウランド(ロイヤル・オペラ、ジェット・パーカー・ヤング・アーティスト・プログラム芸術監督;イギリス)、浜田理恵(ソプラノ)、レノーレ・ローゼンバーグ(元スポレート・フェスティバル音楽監督;アメリカ)。本来は審査委員長であった木村俊光をはじめ、伊原直子、シェリル・ステューダーといった重鎮の声楽家(歌手)も審査委員として発表されていたのだが、この3人は健康上の理由で審査を降板、その穴埋めはせずに上記の残りの審査委員6名のみで審査が行なわれ、結果として歌手以外の審査委員が多数となった(委員長代行は三浦安浩が務めた)。もし当初の顔触れでの審査が行なわれていたら、上位3人の順位もまた違った結果になっていたかもしれない。

 前述のように今回33か国からの応募があったというが、その後の予備審査で残った60名を国別でみると、日本20名、韓国19名、中国10名、モンゴル3名、ロシア2名、あとはイギリス、リトアニア、フィリピン、ウクライナ、イスラエル、クロアチア各1名となっており、ほとんどアジア勢で占められている。そのうち第2次予選に進んだのは日本と韓国が6名ずつ、中国2名、モンゴル2名と、すべてアジアの参加者のみ。日本での開催なのでアジアが多くなるのは理解できるものの、オペラの国際コンクールで欧米からの参加がこれほど少ないのは少々寂しいといわざるを得ない。もともと欧米からの応募者数がそれほど多くなかったのか、あっても審査に通るような優れた人材がいなかったのか、そのあたりはわからないが、将来的には欧米からも優れた強者が多数参加して競い合うような、全世界が注目するコンクールへといっそうの発展をめざしていってほしいものである。

 なお伴奏を務めたのは高橋直史指揮の東京交響楽団。歌手にしっかりと寄り添っていく高橋のタクトは長年にわたるドイツの歌劇場での経験を感じさせた。

大巨匠が伝えるイタリア・オペラの真髄


寺西基之 / 更新日:2023年4月19日


東京・春・音楽祭2023 「リッカルド・ムーティ イタリア・オペラ・アカデミー in 東京vol.3」



 毎年3月中旬から約1か月間、東京・上野で開催される“東京・春・音楽祭”。東京文化会館をはじめとする上野の様々な文化施設を会場として、多数の演奏会が繰り広げられる大規模な音楽祭だが、ここ数年その中心となっているのが、イタリアの大指揮者リッカルド・ムーティによる「イタリア・オペラ・アカデミー」である。若い音楽家にイタリア・オペラの真髄を伝授するためのアカデミーで、毎回ヴェルディのひとつの作品を取り上げながら、オーディションで選ばれた4人の若手指揮者、これからの活躍が期待される歌手たち、日本の若いトップ・プレーヤーで構成された東京春祭オーケストラに対して、ムーティが2週間近くにわたって指導し、演奏を作り上げていく。

 ムーティは、今日のイタリア・オペラの演奏が作品本来のあり方から離れ、歌手の名人芸を披露することを重んじるエンターテインメントに陥ってしまっていることを危惧し、そうした悪しき慣習を正すために(彼自身の言葉によれば)「闘い続けてきた」。このアカデミーもまさにムーティのその「闘い」の一環であり、イタリア・オペラのあるべき姿を後世に伝えることを目的としている。オケのメンバーに聞いたところではその指導はきわめて厳格で、リハーサルは張りつめた緊張感に覆われるということだが、それは伝道者としての揺るぎのない信念の現われといえるだろう。
 とりわけ尊敬するヴェルディの演奏において、作曲者が綿密に記した楽譜の指定を大衆受けするように改変する習慣(例えばアリアのクライマックスで効果を上げるために、楽譜の指定よりも高い音を出したり、ダイナミクスの指示を無視してフォルティッシモで歌ったりなど)は、ムーティにとってまったく許しがたい行為であり、今日のオペラ界において当然のように行なわれているそうした誤った伝統を是正し、ヴェルディの書いた楽譜に基づく作曲者の真の意図に忠実な演奏のあり方を教え込むことを、彼は自分の使命としているという。今回のアカデミーではヴェルディ中期の傑作《仮面舞踏会》を取り上げて、ヴェルディ演奏がいかにあるべきかが掘り下げられた。

 このアカデミーはリハーサルの段階から公開されている。私も3月24日の東京文化会館大ホールでのリハーサルを見学させてもらい、若い音楽家にヴェルディの音楽の本質を叩き込むムーティの熱い指導ぶりを目の当たりにすることができた。リハーサルは3月19日から始まっていて、この日はすでに仕上がりつつある段階だったこともあってか、事前に聞いていたぴりぴりした雰囲気というまでの感じはなかったが、それでも4人のアカデミー生の指揮者やオケ、歌手たちに何度もダメ出しし、厳しさの中にも時にユーモアを交えながら、曲をいかに解釈し表現するのか、技術的な面のアドバイスを含めながら教え込んでいくその内容は、一切の無駄のない中身の濃いものだった。今年82歳となるムーティだが、こうしたリハーサルを朝から夕方まで連日行なっていたというから恐れ入る。伝道者としての使命感がなければできないことであろう。

 そして3月28日東京文化会館大ホールにおいて、ムーティ自身が指揮する《仮面舞踏会》全曲の演奏会形式によるコンサートが開催された(同内容で30日にも)。配役は主役がムーティの推薦による若い外国人歌手たち、脇役が日本人歌手たちで、アゼル・ザダ(リッカルド)、ジョイス・エル=コーリー(アメーリア)、セルバン・ヴァシレ(レナート)、ユリア・マトーチュキナ(ウルリカ)、ダミアナ・ミッツィ(オスカル)、山下浩司(サムエル)、畠山茂(トム)、大西宇宙(シルヴァーノ)、志田雄二(判事)、塚田堂琉(召使)といったメンバーで、オケは東京春祭オーケストラ、合唱は東京オペラシンガーズである。
 ムーティのタクトから繰り出された音楽はとにかく引き締まっており、イタリア・オペラに連想しがちな歌の饗宴といった要素を排し、ヴェルディの音楽の持つ造型を尊重しながらドラマ性にひたすら迫っていく。一般に耳にしてきた歌手を中心としたカンタービレ重視のヴェルディ演奏を期待すると違和感を覚えるかもしれないが、それこそがムーティの求めるヴェルディ像なのだ。
 何よりオーケストラがすばらしい。コンマスは読響コンマスの長原幸太、フォアシュピーラーはN響コンマスで名ソリストでもある郷古廉をはじめとする様々な楽団の首席奏者を多く擁した若いメンバー中心の東京春祭オーケストラがムーティの意図を余すところなく具現化したといった感があり、その演奏を聴くと、改めてヴェルディの作品においていかにオケが雄弁で重要であり、ヴェルディがそのオケ・パートと歌とを一体的に結び付けることでドラマティックな劇展開を作り上げていることを認識させられる。日本の若手による臨時編成のオケからヴェルディの音楽の持つドラマ性をここまで迫真的に引き出したムーティはただただ凄いとしか言いようがない。
 惜しむらくはリッカルド役のザダとアメーリア役のエル=コーリーの歌唱が聴き劣りしたこと。ザダはこの役に見合う表現の幅がなく、どこか頼りなさを感じさせていたし、エル=コーリーは声域によって声が大きく変わってしまい、特に高音域でのやや無理に声を出しているようなきつい響きは聴いていて少々辛い部分があった。彼女はすでにムーティとシカゴでこの役を共演しており、たしかに役作りの点ではよく考えられていたことが窺えたので、この日は声が不調だったのかもしれない。一方で凄みのある表現でウルリカのキャラクターを描き出したマトーチュキナ、芯の通った声で存在感を示したレナートのヴァシレ、オスカルの喜劇的な狂言回し的役柄を軽妙な歌い回しで表現したミッツィなど、準主役たちはまことに秀逸で、また脇役を務めた日本人歌手たちも好演、特にシルヴァーノ役の大西宇宙の瑞々しい歌唱は魅力的だった。

 続いて4月1日やはり東京文化会館大ホールにおいて、アカデミーの仕上げの成果発表として、アカデミー受講生の4人の指揮者が全曲を分担して振る演奏会形式による公演が行なわれた。指揮は演奏順に澤村杏太朗、アンドレアス・オッテンザマー、レナート・ウィス、マグダレーナ・クライン。今回の歌手は主役と準主役がすべて日本人に入れ替わって、石井基幾(リッカルド)、吉田珠代(アメーリア)、青山貴(レナート)、中島郁子(ウルリカ)、中畑有美子(オスカル)という顔触れである。その他の脇役陣およびオケと合唱は上述の3月28日と同一。
 歌に関して言えば、28日よりこの日のほうが全体のバランスがよい。若手のみならずすでに中堅といえる青山貴や中島郁子も加わっているだけあってレベルは高く、特に個性が際立つ人がいたわけではない代わりに、アンサンブルという面ではよく揃っており、ムーティの指導に沿った的確な歌いぶりには良い意味での安定感があった。
 指揮の4人の受講生は厳しい選抜の末に選ばれたと聞くが、その中にベルリン・フィルの首席クラリネット奏者アンドレアス・オッテンザマーが名を連ねていたのはちょっとした話題だろう(今回の“東京・春・音楽祭”ではクラリネット奏者としてリサイタルも行なっている)。最近指揮者としての活動も活発化しているという彼だが、やはりベルリン・フィルの奏者として一流の指揮者たちのもとで演奏しているだけあって、今回の受講生の中では最も表現のパレットが豊かだった。特に真夜中の野の場面の緊迫感はなかなかのものだったといえよう。他の3人についていえば、澤村杏太朗は誠実さという美点が時に几帳面さに傾いてしまう面があり、ウィスは歌手とオケをドライヴしながら劇的に音楽を進めたもののもう少し余裕が欲しい箇所も散見され、紅一点のクラインも明確な指揮ぶりで勢いある流れを作り出していたが少々単調さを感じるところがなきにしもあらずであった。とはいえそれぞれに健闘しており、オッテンザマーも含め、今後経験を重ねることによって今回のアカデミーで学んだことが花開いてくることだろう。ムーティのもとで彼らとともにリハーサルを重ねてきた東京春祭オーケストラは、各アカデミー生の棒に忠実に従って4人それぞれの性格をはっきりと浮き彫りにしていた。
 最後にムーティが4人に対して修了証書を授与するセレモニーがあり、そこで改めてムーティはイタリア・オペラがエンターテインメントとして扱われている風潮に対して闘っていることを述べて、今年のアカデミーは終了した。

 ムーティのこのアカデミーがイタリアとともに日本で開催されていることはもっと注目されてしかるべきだろう。公開されているリハーサルにしても、私が観た日は客席がまばらだったが、少し覗いてみるだけでもおおいに勉強になるので、オペラ・ファンはもちろんのこと、特に指揮や歌手を志している音大生などにはぜひとも聴講してもらいたいものだ。来年以降についてはまだ発表されていないが、今後も継続していってほしいアカデミーである。

《レコード芸術》まさかの休刊 


寺西基之 / 更新日:2023年4月6日


70年以上もの歴史に終止符?



 去る4月3日、音楽之友社の《レコード芸術》(以下《レコ芸》)が7月号をもって休刊となることが発表された。あまりにも突然のことで、レギュラーの執筆陣にとっても寝耳に水の発表だったという。それどころか音楽之友社社内にもこのことは知らされておらず、《レコ芸》編集部ですら伝えられたのは直前だったらしい。休刊の理由として、「当該雑誌を取り巻く大きな状況変化、用紙・印刷など原材料費の高騰」が挙げられているが、CD不況の中でレコード会社からの広告が取れなくなったことが大きいだろうし、加えて内容が充実している分、毎号文字数も執筆者の数も非常に多く、原稿料が相当なものになるというところで経営陣が大鉈を振るったということなのだろう。

 しかしそれによって失われてしまうものはあまりにも大きい。1952年に創刊されたこの《レコ芸》は、実に70年以上という長い歴史の中で、レコード文化、CD文化への貢献という面にとどまらず、日本におけるクラシック音楽文化全体の普及と振興にきわめて重要な役割を果たしてきた。レコード評・CD評だけでなく、様々な視点からの多くの論考やエッセイをふんだんに載せることで、多角的に音楽文化を考察し論じてきたこの雑誌が日本の音楽界にもたらしたものは多大なものがあり、一般の愛好家から専門家までの幅広い層を取り込むような内容の広がりは、他の音楽誌にはまったくないものだといってよい。

 休刊がCD業界へもたらす影響も甚大だろう。そうでなくてもCD業界は今苦しい状況にある。それを支えてきたのがほかならぬ《レコ芸》だった。充実したCD評や詳細な新譜情報がなくなってしまったら、CDの情報が入りにくくなり、そうでなくても少なくなっている購入者がさらに減ってしまうに違いない。休刊がCD文化の衰退を加速させ、CD業界をさらに窮地に追い込んでしまうことが危惧される。

 私自身、執筆者としてはこれまでほとんど《レコ芸》には関わってこなかったが(《レコ芸》で“寺西”とあったら、まずは寺西肇さんのことです。時に間違えられるので念のため)、1970年代から《レコ芸》の読者で、音楽誌の中で最も愛読し、多くのことを学ばせてもらったのが《レコ芸》だった。それだけに休刊というのはあまりに忍びない気持ちでいっぱいだ。出版業界は大変な状況にあることは理解できるが、音楽文化の発展を使命としている音楽之友社のこと、例えばWEBのような形で、内容を縮小してでもこれまでの《レコ芸》の精神を受け継ぐような新たな形態を考えていただけないものか。日本を代表する音楽出版社としての矜持を示してほしいと願うのは、私だけではないだろう。
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