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びわ湖ホール「神々の黄昏」無観客上演  2020年3月7日、8日 びわ湖ホール


寺西基之 / 更新日:2020年3月16日


新型コロナウィルスの影響で一般公開が中止になったびわ湖ホールの「神々の黄昏」。取材陣と関係者のみのまばらな3階客席から観た上演をリポートする。



 新型コロナウィルスによるコンサート自粛要請のために、3月7日と8日の両日に予定されていた滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールのワーグナーの楽劇「神々の黄昏」が公演中止に追い込まれ、代わりに無観客上演を実施してDVD収録とユーチューブでの無料同時配信を行なったことは大きな話題になった。沼尻竜典芸術監督のもとでびわ湖ホールが4年かけて総力を挙げて取り組んできた『ニーベルングの指環』の最終回であり、特に「神々の黄昏」は時間的規模も長大、編成も最大で、1億6千万円もの製作費をかけて1年にわたって準備し、出演者も1か月以上前からリハーサルを重ねてきただけに、それが無に帰すことが避けられたのはせめてもの救いだったといえよう。しかも同時配信は両日ともに常時1万人以上が視聴し、アクセスした人の延べ数は2日間で36万人に到達、海外からの視聴も少なからずあったという。即日完売だったチケットは全額払い戻しになってしまったので公演中止による経済的な損失は多大なものだったにせよ、ネット配信を実現させたことで“びわ湖リング”を内外にアピールできたことは大きな成果だったといってよい。
 ここまで積み重ねてきたものを何とか形にしたいという沼尻芸術監督をはじめとする関係者の強い思いが今回の配信に結び付いたが、その実現までには、限られた短い期間での山中隆びわ湖ホール館長を中心とするホール・スタッフの大変な奔走があった。上演後の囲み取材での話によると、安倍首相が大規模なコンサートやイベントの中止要請を出した2月26日の後、山中館長は、公演の実施を探りつつも、万一中止せざるを得ない場合は無観客で上演してそれをDVD化する構想を県に伝えた。結局2月28日午前中に県から中止の命が下り、同日午後、山中館長は出演者全員を集めてDVD化を提案する。この提案の話に対しては大きな拍手が起こったが、DVD収録には全出演者の承諾が必要で出演者の中には権利関係上のクリアを要する人もいたため、諾否の返事に一日の猶予を与えたという。翌日全員がDVD化に賛成であることを確認し、無観客上演が決まったのだった。
この時点ではまだDVDのみの企画だったが、その後ホールのスタッフからユーチューブでの生中継という案が出され、急遽同時配信が決定された。その背景には、コロナ禍ゆえに演奏会が次々中止される状況の中で文化庁が、無観客でもネット配信を行なえば当初から決まっていた文化庁からの公演助成をそのまま出すという方針を打ち出したことがあったのかもしれない。いずれにしても、日本ではまだ一般的ではない長大なオペラのストリーミング配信をほとんど準備期間のない状況で行なうことはかなりの冒険であったはずだが(固定カメラによる正面からの映像のみで字幕なしという形になったのもこの状況では致し方なかっただろう)、すでに触れたようにそれは大きな反響を呼ぶこととなった。
中止決定からわずか数日、DVD化とネット配信の実現への山中館長とホール・スタッフそして沼尻芸術監督の奮闘は想像を絶するものがあっただろう。これまで制作に費やしてきた苦労、何よりもこの難しい超大作上演のために万全に準備してきた出演者と舞台関係者の努力を無駄にすべきでないという強い思いが、その原動力になったことは間違いない。

幸い筆者は取材陣と関係者のみが入場を許された3階席で2日にわたる上演に接することができたが、両日ともそうしたホール側の熱意に出演者が見事に応えた出来栄えとなった。過去3年にわたってこの“びわ湖リング”を観てきて、その水準の高さは十分認識してきたが、今回の「黄昏」はこれまで積み重ねてきた経験を踏まえた上でそれをさらに高い次元に持っていったようなきわめて充実した上演で、全体を貫く集中度と燃焼度の高さには胸が熱くなるものを感じたものである。
歌手は例年どおりダブルキャストで、昨年までの公演では不調の人が若干混じる場合もあったが、今回は押しなべてハイレベルで粒がそろっていた。興味深かったのは、ダブルキャストのそれぞれの個性の違いが例年以上に際立っていたこと。ジークフリートにしても、ヒロイックなクリスティアン・フランツ(7日)に対して、エリン・ケイヴス(8日)はどこかおおらかさが感じさせる。いかにも悪役ぶりがはまっている妻屋秀和(7日)、精悍な男ぶりを発揮する斉木健詞(8日)といった2人のハーゲンの対照ぶりも面白い。
とりわけコントラストが鮮明だったのがブリュンヒルデで、強靭さ一筋で押す迫力満点のステファニー・ミュター(7日)に対して、池田香織(8日)は強さとともに女の心の揺れを見事に表わし出していた。「ワルキューレ」や「ジークフリート」もそうだったが、この池田のブリュンヒルデの存在感はこの“びわ湖リング”の中でも格別のものがある。グートルーネも、清純な声を生かして結婚を夢見る乙女という面を引き出していた安藤赴美子(7日)、歌と演技ともにより強い気性の女を感じさせた森谷真理(8日)と、この役の違う側面が浮かび上がってきて興味深かった。
 ともにヨーロッパでの経験を感じさせる堂に入った歌唱を聴かせたグンターの石野繁生(7日)と高田智宏(8日)も秀逸。ワルトラウテの谷口睦美(7日)と中島郁子(8日)もそれぞれにブリュンヒルデとの緊張に満ちたやり取りの場をドラマティックに作り上げ、出番はわずかながらアルベリヒの志村文彦(7日)と大山大輔(8日)も見事に場を引き締める。何しろ3人のラインの乙女(7日=𠮷川日奈子、杉山由紀、小林紗季子;8日=砂川涼子、向野由美子、松浦麗)と3人のノルン(7日=竹本節子、金子美香、高橋絵理;8日=八木寿子、齊藤純子、田崎尚美)にも、東京二期会や藤原歌劇団の公演では主役を歌うような大ベテランや気鋭の若手を起用するという贅沢なキャスティングに、びわ湖ホールの本気度が窺われよう。びわ湖ホール声楽アンサンブルに新国立合唱団が加わってのレベルの高い合唱も聴きものだった(合唱指揮=三澤洋史)。

 沼尻竜典は歌手たちの歌に寄り添いつつ、京都市交響楽団を鮮やかな統率力でリードしていく。毎年このシリーズで京響は初日よりも2日目のほうが出来の良い傾向があり、今回も初日は前半ではまだ乗り切れないところがあったが、後半以降次第に調子を上げて、2日目は冒頭から力を全開、6時間に及ぶ長丁場を緊張の糸の切れることなく、見事に乗り切った。これまでワーグナー経験を積み重ねてきた京響の実力がこの「黄昏」ではフルに花開いたといえよう。今回この京響の好調さゆえに、余分な思い入れや過剰なロマン的表現を排して音そのものにドラマを語らせていく沼尻のアプローチがこれまでの3作以上に効果的に生きていた。ワーグナーのオケ・パートの雄弁さが圧倒的な力でもって迫ってきたのは、無観客ゆえに響きの鳴りがよかったからというだけではあるまい。劇の流れを迫真的に音化する沼尻の手腕はめざましいものがあり、またダブルキャストの歌手に合わせて、初日と2日目でテンポや間の取り方など微妙に表現に変化を与えていたことにも、オペラ指揮者としての技量が発揮されていた。

 ミヒャエル・ハンペの演出、ヘニング・フォン・ギールケの美術・衣裳は、ト書きに逐一忠実な写実的な様式美を追求したものゆえに、これまでも古色蒼然とか思想性の欠如という批判が一部から出てもいたが、プロジェクション・マッピングという最新のテクノロジーを駆使してまで写実性に徹するその姿勢は確たる信念に裏付けられており、特に今回の「黄昏」は、プロジェクション・マッピングの使い方と実際の舞台の動きとが今までの中で最も無理なく融合していたと思う。ライン河の流れの動きを映し出したいかにも19世紀ドイツの風景画を思わせる情景を背景とした舞台作りは美しく、また第3幕第1場での、岸に現われて歌う歌手たちのラインの乙女たちと河で泳ぐ映像の乙女たちとの入れ替わりがごく自然で(3年前の「ラインの黄金」の時はその点まだ試行錯誤のあとが顕著だった)、ハンペ&ギールケの演出・美術そのものがこの4年間とおして、技術的な用法を含めた進化を遂げていることが窺える。またジークフリートの葬送の場面では葬列をシルエットで浮かび上がらせたが、そこに遠く離れてその葬列を追うように見守るヴォータンの姿が映し出されたのが印象的だった。ト書きに忠実といいながら、どこかで独自のアイデアをそれとなく盛り込むことのあるハンペだが、この影絵でのヴォータンの思わぬ登場は心に響くものがあった。
 プロジェクション・マッピングの効果が最大限生かされたのはやはり最終場面。ワルハラが炎に包まれて崩れ落ちる様は何とも迫真的で、映像の持つ力が最大限に生かされる一方、ライン河に戻された黄金が大きく浮かび上がって幕となる。この場面の映像効果はやはり劇場で直に観ないと体験できないものであり、その意味で今回公開が出来なかったことは残念でならない。またここでの京響の盛り上がり方もものすごく、その圧倒的な終結は4年にわたるシリーズの最後を飾るにふさわしいものがあった。特に2日目は超大作を2日にわたって弾きとおしたというオケの達成感を表わすかのように、大地を揺るがさんばかりの響きが会場全体を包み込んだのだった。

 今回の無観客上演は沼尻芸術監督が語るように「スタッフと出演者が一丸」となって実現したわけだが、いざというとき一丸となれるのはやはり日常から芸術監督、館長、スタッフの間の信頼関係が築き上げられているからだろう。今は各地にオペラが上演できる優れた機構を持つ劇場がいくつも存在するが、多くが実質上ほとんど貸館としてしか機能しておらず、びわ湖ホールのようにしっかりとしたコンセプトのもとでオペラ公演を自主製作し、高いレベルでの上演を継続しているところはない。志の高い芸術監督、理解のある館長、オペラに精通しているスタッフ陣が一体となってこそ、真に価値あるものが創り出せるという劇場の理想的なあり方をびわ湖ホールは示している。
 特にワーグナーに関しては、今回で完結した『指環』以外に、これまで「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」(さらに単独での「ワルキューレ」)を上演、来年は「ローエングリン」が予定されており、その意味でびわ湖ホールは今や日本におけるワーグナーのメッカといってよい存在だ。地方の劇場がこれだけワーグナー作品を続けて上演していること自体、まさに偉業といって過言ではない。今回の「神々の黄昏」の公演中止による損失は甚大なものだろうが、それを乗り越えて日本のオペラ界を牽引する活動を今後も続けていってほしいものである。


アンネ=ゾフィー・ムター 公開マスタークラス with サントリーホール室内楽アカデミー 2020年2月21日サントリーホール・ブルーローズ


寺西基之 / 更新日:2020年3月2日


ムターによる公開マスタークラス 彼女の音楽作りと人間性が現われ出た充実のひと時



 去る2月21日、アンネ=ゾフィー・ムターの公開マスタークラスがサントリーホールのブルーローズ(小ホール)で開催された。世界のヴァイオリン界の頂点に立つ大物アーティストのマスタークラスとあってとても興味があったのだが、そうした期待をもはるかに上回る充実した内容で、またムターの人柄も伝わってくるすばらしいひと時となった。
 受講生はサントリーホールの室内楽アカデミーのメンバー。マスタークラスといっても、一般によくあるような、受講生に演奏させて注意を与え、時々お手本を弾いてみせるといった一方通行のレッスン形態とはまったく違って、ヴィヴァルディの『四季』の「春」と「冬」を、ムターが自身ソロ・パートを受け持ちながら受講生たちと一緒にアンサンブルを作っていく中で、音楽的・技術的なアドバイスとサジェスチョンを与えていくという形である。
 このヴィヴァルディの『四季』の演奏にあたってムターは、ストーリーを表現するためのイメージの豊かさが大切であることを説く。作品がソネットの内容を描写した標題音楽なのでそれは当然といえば当然だが、例えば「春」の第1楽章の鳥の歌、第2楽章の犬の吠え声など、どのようにイメージを膨らませ、それをいかに音にしていくか、的確にアドバイスしていく。といっても決して、このようにしろと押し付けるようなことはしない。第2楽章のヴィオラの犬の声にしても、犬の吠え方は一律ではないことを述べ、弓を当てる角度、弓のスピードや量をいろいろ変えて試みることを提案、奏者自らに工夫させるといった具合だ。
 またヴィブラートにしても、バロック音楽なのでヴィブラートは控えめにすることを前提に、その中でどこでどのようにヴィブラートを用いていくのかの判断をそれぞれに考えさせていく。ヴァイオリン・ソロの歌を通奏低音だけが支えるような箇所で、通奏低音のチェロ奏者に対して、ヴァイオリンの旋律を自然に浮き立たせるためにノン・ヴィブラートで弾くことをアドバイスするなど、長年の実践経験で得たと思われるノウハウも伝授する一方、チェンバロ奏者にも即興的に音を加えてみることを提案するなど、生きた音楽表現とそれと結び付く技術的な奏法についての様々な角度からの助言は、とても示唆に富む有益なものだった。
 そうしたムターの提言に敏感に反応して、受講生たちのアンサンブルがまたたく間に豊かな表情を加えていったのが興味深かったが、わずかな時間でのそのような彼らの変化は、ムターのアドバイスが明快かつ具体的だったからであることはもちろんのこと、いわゆるマスタークラスにありがちな先生対生徒といった上から目線で教えるのでなく、受講生の自発性を重んじながら、ともに音楽の表現を探求して曲を作り上げていこうとする彼女の姿勢がもたらしたものといえよう。彼女自身、子育ての経験が演奏家としての自分をさらに成長させたことにも触れていたが、今回のマスタークラスでみせた人間的な度量の広さとそれに発する豊かな音楽表現の追求の姿勢は、そのような彼女の人生体験と結び付いたものであるに違いない。終始にこやかさを絶やさず、最後に設けられたQ&Aコーナーでも、客席から出たやや場違いな質問にも適切に答え、またヴァイオリンの顎当てについて質問した小さな子供にもその理由を丁寧に説明した上に「将来あなたの演奏を聴かせてね」と優しく応じていたのがなんとも印象的だった。


若き姉弟デュオが奏でた50年前の名演


寺西基之 / 更新日:2020年1月9日


岩崎洸&岩崎淑によるベートーヴェンのチェロ・ソナタ&変奏曲全集



 今年2020年はベートーヴェン生誕250年ということで、様々な形でベートーヴェンが取り上げられる年となるに違いない。個人的には250年と聞くと、1970年の生誕200年から半世紀経ったのかという感慨にとらわれてしまう。当時私はまだ中学生だった。社会状況も音楽を取り巻く環境も今日とはまったく違っていた時代だったが、やはり生誕200年ということでベートーヴェンは一大ブームとなっていた。中学生の時に感じたことなので必ずしもあてにならないかもしれないが、今日以上にそれは熱かったように思われる。演奏会でもサヴァリッシュ指揮N響による交響曲全曲とミサ・ソレムニス(近年CD化された)のツィクルス、ケンプのピアノ協奏曲全曲(これもCDで出されている)とソナタ全曲のツィクルスをはじめ、内外の演奏家がこぞってベートーヴェンを取り上げていた記憶があるし、LPレコードではグラモフォンと東芝EMIからそれぞれにベートーヴェン作品全集が出されて大きな話題となっていた。有り余るほどの録音が出回りCDのボックスセットも廉価で手に入る今日とは違い、LP一枚一枚が貴重だった当時としては破格ともいえる膨大な規模の全集(前者は全12巻78枚、後者は全24巻87枚)だったので、それも当然だろう。もちろん当時中学生の私がこれらの全集に手が出せるわけもなく、両者の広告パンフレットを机に飾って眺めていただけだったのだが、それでも夢があって楽しかった。
 この2つの全集は既存の録音と新録音を併せて構成されたもので、新録音の目玉としてはグラモフォンの全集ではベーム指揮の「フィデリオ」、東芝EMIの全集ではギレリスとセルの共演による5曲のピアノ協奏曲があった。また東芝EMIのほうは音源のない曲を日本人演奏家による新録音で補っていたのが特徴で、記憶違いでなければ内田光子のデビュー盤ともなったピアノ協奏曲第0番や若杉弘によるカンタータも含まれていたように思う。

 その東芝EMIの日本人による新録音として、チェロとピアノのためのソナタおよび変奏曲の全曲の巻を受け持ったのが岩崎洸と岩崎淑の姉弟デュオだった。チェロ・ソナタ全曲といえば全集の中でもメインとなる巻のひとつである。すでにミュンヘン国際コンクールなどで上位入賞を果たしていた実績もあったにせよ、メイン曲は外国の大家による演奏で構成されていたこの全集で、まだ若手だった彼らが起用されたことは、まさに大抜擢だったといってよい。それほどまでにこの姉弟コンビは当時新進気鋭のホープとして注目されていたことがうかがえよう(この録音後、1970年のチャイコフスキー国際コンクールのチェロ部門で岩崎洸は第3位に輝き、その時伴奏を受け持った淑は伴奏者特別賞を受けた)。
 実はこのチェロ・ソナタの巻は、私の父が彼らをよく知っていたこともあって発売と同時に父のもとに届き、おかげで私もそれを手にすることが出来た。暗い焦げ茶色の立派なケースに入ったLPレコード3枚組で、ケースの表には金色でベートーヴェンのサインが刻印され、また盤面中央のレーベル部分も金色で、そこにベートーヴェンの肖像画が描かれていたのがとても気に入ったものだ。
 このレコードをとおして私はベートーヴェンのチェロ作品に初めて触れることになったのだが、最初に聴いたソナタ第1番でもうすっかりその世界の虜となり、5曲のソナタと3曲の変奏曲を全部一気に聴きとおしてしまったことを覚えている。まだこの頃の私は演奏の評価をできるまでの耳は持っていなかったが、岩崎姉弟のこの演奏にはなにか惹かれるものがあり、当セットは当時の私の愛聴盤となったのである。
 やがてCDの時代となってLPレコードを聴くことがなくなっていったことで、このセットも他の多数のレコードとともに書庫の奥のほうに仕舞いこんだままの状態になってしまったのだが、今年ベートーヴェン250年ということで50年前のことに思いを致した時、無性にこのセットを聴きたくなった。そこで元日に書庫の隅からこれを探し出し、本当に久しぶりに針をとおした。蘇ってくるあの懐かしい響き。いや決して懐かしさではない。改めて今の耳で聴いても、この演奏は実にフレッシュな魅力に満ちている。息のぴったり合った2人の奏でる音楽は清楚でストレートながら、決して一本調子になることがなく、表情やテンポの微妙な揺れが生命の宿った瑞々しい音楽を生み出している。伸びやかな淀みのない流れの中で楽興が湧き上がるかのようで、清冽で生き生きとした旋律を紡ぎ出していく洸のチェロと、細やかな美音の動きの中にデリケートな陰影がきらめく淑のピアノが一体化したアンサンブルを作り上げているのがすばらしい。1970年当時はとかく壮大な大ソナタとして演奏されるきらいのあったソナタ第3番も大上段に構えることなく自然体に清新な息吹を吹き込んでいるし、後期の第4番と第5番も同様。第5番のフーガにみられる軽妙さも実に清々しい。とりわけ優れているのがソナタ第1番と第2番、および変奏曲3曲で、初期のベートーヴェンにふさわしく、はじけるような若々しさに満ちた活力ある名演となっている。
 この全集がこれまでCD化されてこなかったのはなぜなのだろう。何らかの理由があるのかもしれないが、これだけの演奏をお蔵入りにしたままにしておくのはあまりにもったいない。ベートーヴェン・イヤーの今年、このアルバムが復活することは望めないのだろうか。


2つの「冬の日の幻想」~聴き比べの楽しみ


寺西基之 / 更新日:2019年12月20日


ヴァレリー・ポリャンスキー指揮九州交響楽団(12月11日アクロス福岡シンフォニーホール)VS.パブロ・エラス・カサド指揮NHK交響楽団(12月12日サントリーホール)



 オーケストラやオペラの公演において同じ曲目や演目が日を接して重なることはよくある。この秋には来日オケによるマーラーの交響曲第5番が続いたし、またティーレマン&ウィーン・フィルとメータ&ベルリン・フィルのブルックナーの第8番対決もあった。たしかにマーラーの第5やブルックナーの第8のような、今や世界的にオケの主要レパートリーになっている曲ならこうした事態も頷けよう。しかしふだんそれほどは取り上げられない作品でもそうした現象が起こる場合がしばしばある。主催団体が意図したわけでないにもかかわらず、ふたを開けてみたらそうなっていたということがなぜか多いようで、例えばこの10月から11月にかけてはショスタコーヴィチの交響曲第11番が井上道義&N響、沼尻竜典&東響、インバル&都響(私は聴きそこなったのだが)と続けざまに演奏されたことは記憶に新しい。
このように同じ曲が他団体と重なることは、主催する側にとっては集客という点であまりありがたくないようで、そのことは充分理解できる。しかしこれは逆にみれば同じ作品を違う演奏で聴き比べるまたとない機会でもある。上述のブルックナーの第8対決も、ウィーン・フィルの艶やかな音を生かしつつ、テンポとダイナミクスの変化と揺れのうちにヴァーグナーの楽劇のようなうねりのあるドラマを作り出したティーレマンに対して、メータはベルリン・フィルからこのオケ本来の厚みと重みのある響きを引き出しながら、イン・テンポを基調としたどっしりとした運びで揺るぎのない壮大な大伽藍を築き上げるというように、まったく対照的なブルックナーの世界を味わうことが出来た。かかる聴き比べの楽しみは、馴染みのない曲ならよりいっそうその作品に親しみが持てるようになるチャンスだろう。たまたま曲が重なったときは、主催者どうしむしろそうした面白さをともにアピールしていくことで集客につなげていくような発想も大切かと思われる。

 前置きが長くなったが、去る12月11日と12日、2つのオケで聴いたチャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」も、その点で非常に興味深いものがあった。ひとつはアクロス福岡シンフォニーホールでのヴァレリー・ポリャンスキー指揮する九州交響楽団の定期、もうひとつはサントリーホールにおけるパブロ・エラス・カサドが指揮するNHK交響楽団の定期での演奏会である。このチャイコフスキーの第1番は最近でこそ時々取り上げられるようになってはきたものの(この前の週には東京文化会館でゲルギエフもマリインスキー劇場管弦楽団を振ってこの曲を演奏している)、後期の3曲の交響曲に比べれば演奏頻度はまだまだ低い。そうした曲を2日にわたって聴くことができ、しかもその2つの演奏がまったく違う作品であるかのように響いたのがとても印象的だった。
 この作品はチャイコフスキーの交響曲の中でもとりわけロシアの風土を感じさせるもので、第1楽章冒頭からあたかも冬のロシアの風景が広がるかのような、雰囲気豊かな描写性を持っている。そうしたこの作品の魅力を存分に堪能させたのがポリャンスキー&九響の演奏だった。このロシアの指揮者が日本のオケを振るのは初めてのこと、しかもロシア語しか話さないらしくリハーサルも通訳を通してということを事前に耳にしたので、果たして意思疎通がうまくいくのかと心配していたのだが、さすがは老練の名匠、九響からまさにロシア的といってよいどっしりした重々しい響きを引き出しつつ、チャイコフスキーらしいたっぷりとした息の長い歌いまわしによって情感と起伏に満ちた雄大な世界を作り上げたのにはただただ舌を巻いた。第2楽章の後半、主題をホルンが朗々と吹いていく箇所の悲劇的な翳りや、終楽章のコーダで引きずるようなゆっくりとした歩みがじわじわと盛り上がって、地響きがするかのような圧倒的な音圧による終結へと導いていく様など、まさにロシアの大地を思わせるものがあり、ロシアの伝統に根差すポリャンスキーの棒に九響が見事なまでに応えての名演に結実したのである。
 それに対して翌日聴いたカサド&N響の演奏は、冒頭からして実に爽やかで風通しがよい。広大なロシア的雰囲気は希薄で、快速に躍動感あふれる運びで音楽が進んでいく。“陰鬱な地、霧の地”と表記された第2楽章も、その澄んだ響きは清々しさが漂い、ポリャンスキーが強調した後半の悲壮なホルンの箇所もカサドの手にかかると実に明快そのもの。終楽章も颯爽とした前進性が何とも壮快で、エンディングも華やかだ。ロシア情緒のかけらもない演奏といってしまえば身も蓋もないが、むしろそうしたアプローチだからこそ見えてくるものがある。ポリャンスキーのようなロシア的なマッシブな響きを志向する演奏では聴きとれなくなるような、細部の音の動きや重なり具合など、スコアの音符がはっきりと浮かび上がってきて、それが実に面白い。特に第4楽章のフーガ風の箇所は線の絡みが明確に浮き彫りにされ、初めての交響曲でポリフォニックな書法を導入しようというチャイコフスキーのチャレンジングな姿勢が(いまだ必ずしも成熟していない筆遣いとともに)明らかにされて、まことに興味深かった。ことさらロシアという背景にこだわることなく、チャイコフスキーのスコアの音と向き合うことから作品を捉えていくこうした行き方は、もともと近現代の音楽を得意とするとともにピリオド系のアプローチまでも視野に入れているスペイン人指揮者カサドならではといえるだろう。前日に聴いた同じ曲の残像が耳のうちに残っていただけに、なおいっそうカサドのそのような美質が際立って感じられ、新しい発見をもたらしてくれたのであった。
やはり聴き比べは楽しい。


藤田真央、恐るべし 2019年12月7日東京文化会館


寺西基之 / 更新日:2019年12月10日


ピアノのホープ藤田真央がゲルギエフ&マリインスキー劇場管弦楽団のチャイコフスキー・フェスティバルにおいて急遽代役で登場、初挑戦の曲で見事な演奏を聴かせてくれた。



 演奏家にとって突然代役を頼まれることは、大きなチャンスであるとともに、大変なプレッシャーでもあるだろう。特にすでに日が迫っていて、しかも今までに演奏した経験のない作品の場合はなおさらであるに違いない。このたびそうした急遽の代演をやってのけた若き俊英がいる。今年のチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で第2位に輝いて注目を浴びている藤田真央だ。彼が代役を務めたのはヴァレリー・ゲルギエフ率いるマリインスキー劇場管弦楽団来日公演のチャイコフスキー・フェスティバルでのピアノ協奏曲第2番のソリストである。予定されていたピアニスト、セルゲイ・ババヤンが降板することになり、藤田の才能を高く評価するゲルギエフの指名で数日前に代役を言いつかったという。藤田にとってまだレパートリーにはしていない難曲であり大作である。わずかの準備期間しかない状況での代役受諾は相当の勇気が要ったはずだ。しかしゲルギエフの指名ということで彼は果敢にもそれを引き受け、見事に演奏会を成功に導いた。しかもそつなく何とかこなしたといったレベルではなく、稀に見る名演を聴かせてくれたのである。
 このチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番は有名な第1番に比べてはるかに演奏される機会が少ない。第2番を弾いた経験のあるピアニストに聞いたところでは、この曲は長大であることはもちろんのこと、第1番以上に技巧的な難所が多く、その割に演奏効果があがらないという。実際は、優れた音楽性を持ったピアニストで聴くと、第1番よりもチャイコフスキーらしい叙情味がふんだんに盛り込まれた魅力的な作品なのだが、全体がまとめにくく、並みの演奏家だとどうしても散漫な印象を与えるような曲になってしまうのだ。しかし藤田真央は濃やかな表情のうちに瑞々しいリリシズムを湛えた演奏でもって、この作品の美質を十二分に表わし出した。第1楽章にしても、十分に力感に富んだ打鍵ながらも決して荒々しくならず、たっぷりとした響きの中に情感の潤いを感じさせ、突如とした雰囲気の変転も鮮やかに描き出す。ヴァイオリンとチェロのソロが前面に出てくる点でピアノ協奏曲としては特異な第2楽章では、やや粗削りの感のあった2人の弦のソロに対して、藤田のピアノがしっとりとした歌を紡ぎ、あたかも一編の叙情劇のよう。第3楽章は筆者の個人的好みからするとややテンポが速すぎる気もしたが(これはゲルギエフのテンポだったのかもしれない)、それでも決してむやみに弾き飛ばすという感じはまったくなく、むしろその快速のうちにリズムや旋律に微妙な変化を施して、感興豊かな躍動感を生み出していたところに優れたセンスを感じさせた。筆者がこれまでに聴いたこの作品の実演でも一二を争うすばらしい演奏であり、ましてこれが急な初挑戦であったことを思うと、驚嘆せざるを得ない。今回の代役での名演は、藤田真央が真の実力の持ち主であることを改めて証明するものだったといえるだろう。

 今年(2019年)は彼の才能の様々な面を見せつけられた一年だった。秋山和慶の指揮する東京交響楽団定期演奏会(4月21日サントリーホール)でのジョリヴェの「赤道コンチェルト」の鋭敏で切れの良い色彩感溢れるピアニズム。東京シティフィルのティアラこうとう定期演奏会(7月6日。結果的にチャイコフスキー国際コンクール快挙後の凱旋公演となった)での飯守泰次郎との共演によるベートーヴェンの「皇帝」で示された正攻法の堂々たるアプローチ。ヴァイオリンの金川真弓とのデュオコンサート(11月7日浜離宮朝日ホール)においての、共演相手に時に親密に寄り添い、時に丁々発止にやり合うアンサンブル・ピアニストとしての秀でた能力。こうした優れた音楽的センス、フレキシブルな感性の豊かさは今後のさらなる可能性の広がりを期待させる。才能のある人だけにそれを無駄に浪費するようなことがないよう留意しつつ、これからもさらにいろいろな挑戦を続けていってほしいものだ。

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