寺西基之の音楽日記をイッキ見

第44回ピティナ・ピアノコンペティション特級ファイナル レポート


寺西基之 / 更新日:2020年10月14日


2020年8月21日サントリーホール



 毎年夏に開催されるピティナ・ピアノコンペティション。今年度はコロナ騒動がまだ収まらない中、開催は難しいのではと思われていたが、部門を大幅に絞り(特級、Pre特級、G級のみ)、予選の審査方法を変え、オン・ラインも活用するなど、様々な工夫を取り入れることで開催された。特に日本のピアニストにとっての登竜門のひとつとなっている“特級”が例年通り、ファイナルでオーケストラを迎えて協奏曲を演奏できた意義は大きなものがある。オーケストラ界はやっと演奏会が再開され始めて間もない現状で、その方法を試行錯誤している段階だ。そうした中でオケ伴奏の協奏曲によるファイナルを実現させたピティナおよび関係者の英断に心から敬意を表したい。

今回その“特級ファイナル”を会場のサントリーホールで聴いた。ファイナリストは演奏順に、谷昂登(桐朋女子高等学校音楽科[共学]2年)、山縣美季(東京藝術大学1年)、尾城杏奈(東京藝術大学大学院1年)、森本隼太(角川ドワンゴ学園N高等学校1年)の4名で、谷、尾城、森本の3人がラフマニノフの協奏曲第3番、山縣がショパンの協奏曲第2番を選曲、数ある課題曲の中でも最も長大なラフマニノフの第3番を3名が選んだことで、長丁場にわたる審査となった。審査員は五十音順に、青柳晋、東誠三、上野真、江崎昌子、岡原慎也、岡本美智子、小林仁、杉本安子(審査員長)、クラウディオ・ソアレス、松本和将、若林顕。入国制限のために例年のように外国から審査員を招聘することができなかったことは致し方ない。オーケストラは東京交響楽団、指揮は岩村力が受け持った。

最初に登場した谷昂登は、とても音楽的な感興が豊かなピアニストだ。例えば両端楽章の叙情的な部分でテンポをかなり落としてたっぷりと歌うなど、緩急の変化や細部の表情の付け方などにラフマニノフへの思い入れが伝わってくる。ただそうしたカンタービレへのこだわりが音楽の流れを滞らせてしまう傾向がある一方、急速なパッセージなどではいくぶん力みが感じられる箇所があったのが惜しい。とはいえ、広がりを感じさせる音楽作りは瞠目すべきものがあり、大器の素質を持った若手として今後が期待出来よう。

ただひとりショパンを選んだ山縣美季は、清楚な美しい音による丁寧な運びの中に、仄かなロマン的な味わいを漂わせて魅力的。自己を強く出そうとするのでなく、むしろ曲の魅力そのものを浮かび上がらせようとする誠実な姿勢にとても好感が持てる。第2楽章中間部などは、一種のレチタティーヴォなのでもう少し自由なテンポで動揺する感情を打ち出したほうがよかったとも思うが、むしろ過剰な感情表現に陥らない点が彼女の美質なのだろう。第3楽章は端正な中にも躍動感が息づいて、彼女の優れたセンスを窺わせた。

尾城杏奈は細部の音までしっかりと弾き込みつつ、明快な生き生きとした音楽を生み出して、洗練されたラフマニノフを披露した。全体のコントロールが行き届き、淀みのないすっきりとした流れの中にも微妙な色合いの変化が織り成され、決して大きな音を叩き出すことはしないのにオケの強奏の中でも音がきちんと客席に届いてくる。オケをよく聴きながら音楽を作り上げていた点も特筆すべきで、そうしたアンサンブルを重視するという点も含めて、今回の4人の中では最も完成度の高い音楽を聴かせてくれたといえよう。

対照的に森本隼太のラフマニノフは型破りな面白さがあった。自分の感性を大切にして自由自在に奏でる思い切りの良さが痛快で、伸縮するテンポの中、弾(はじ)けるようなタッチで溌剌とした音楽を作り出す一方、歌うべきところは存分に歌心を込める。その奔放さゆえに時に破綻をきたす場面もあり、またオケとのズレも生じるが、それもまたスリリングな魅力としてしまうところに彼の才能があるといえるだろう。日本人には稀な個性派ヴィルトゥオーゾで、そのインパクトの強さから聴衆賞で第1位を獲得したことはうなずける。

審査結果は、尾城がグランプリに輝き、銀賞は森本、銅賞は谷、第4位が山懸という順。4名の中で最も年長の尾城は演奏の安定度と成熟度の点でたしかに一日の長があり、彼女のグランプリ獲得は筆者も十分納得できるが、ほかの3人もそれぞれに自分の音楽を持った逸材で、今後その才能をどのように伸ばしていってくれるのか、楽しみである。四者四様の個性の競演を堪能させられた今年の特級ファイナルだった。それだけに指揮者がもう少しそれぞれのピアニストの息遣いを感じ取って、彼らの音楽にしっかりと寄り添うことができる人だったら、さらに良かったとは思ったが…。

小山実稚恵が満を持して挑んだベートーヴェンのソナタ初録音


寺西基之 / 更新日:2020年8月3日


新譜CD《ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101、第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」》小山実稚恵(ピアノ)[ソニークラシカル SICC19050]



ベートーヴェン・イヤーで盛り上がるはずだった今年の音楽界だが、新型コロナウィルスのおかげで演奏会は次々と中止、様々なベートーヴェン企画もほとんどが実現されていない。しかしながらその中でも注目すべきベートーヴェンの新譜CDはいくつも出されている。小山実稚恵のこの一枚も、ベートーヴェン・イヤーを飾るにまさにふさわしいアルバムである。曲目はピアノ・ソナタの第28番イ長調作品101と第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」、後期へと向かう時期のベートーヴェンの新しい境地がはっきりと現われ出た傑作2曲だ。

実はこれは小山実稚恵の初のベートーヴェンのピアノ・ソナタの録音となる。すでに長い演奏歴を持ち、多数のCDを世に送り出してきた彼女だけに、今回がベートーヴェンの初レコーディングとはやや意外な感もするが(正確には昨年、「エリーゼのために」ほか小品2曲を今では珍しい7インチ(17センチ)・45回転のEP盤用に録音している)、演奏会では折に触れていくつかのソナタや協奏曲を取り上げてきたことからもわかるように、彼女はベートーヴェンを決して敬遠してきたわけではない。たしかに外から見れば、例えばショパンやラフマニノフほどには、あまりベートーヴェンには積極的に取り組んでいないように思えることは事実だろう。だがそれはむしろこの大作曲家の偉大さを認識しているからこそであり、その音楽を時間をかけてじっくりと掘り下げたいという姿勢が、ベートーヴェンに取り組むことへの慎重さにつながっていたと思われる。

彼女がこれまでもいかにベートーヴェンの作品を考察し続けてきたかは、最近音楽之友社から刊行された全2巻の《ベートーヴェンとピアノ》(第1巻〈「傑作の森」への道のり〉;第2巻〈限りなく創造の高みへ〉)に現われている。この書籍は小山とベートーヴェン学者の平野昭との対談集で(もともと〈音楽の友〉誌に連載されたものがもとになっている)、全ソナタを中心としたベートーヴェンのピアノ曲(ピアノ協奏曲、ピアノが入る室内楽なども含む)について、作品ごと作曲順に、平野が学問的な見地から、小山が演奏家としての見地から語り合うことをとおして作品の真髄に迫るというもの。読み応え充分でベートーヴェンの音楽に興味のある人ならば一読をお勧めしたいが、これを読んでも、小山がこれまでベートーヴェンの研究を重ねてきたことは明らかだ。ベートーヴェンがとりわけ重要な存在だからこそ、自らのうちに暖めてきたのだろう。

そして機が熟したかのように、彼女は昨年から東京・渋谷のオーチャード・ホールでベートーヴェンの後期作品を中心とするリサイタル・シリーズ「ベートーヴェン、そして…」をスタートさせた。自身の中で熟成させてきたベートーヴェン解釈をシリーズとして世に問おうという意気込みがそこに見て取れる。それと並行する形でベートーヴェンの初レコーディングもなされたのである。

実際このCDに収められた2つのソナタにおいて小山実稚恵は、強靭さと細やかさを併せ持つ自身のピアニズムを後期のベートーヴェンの壮大かつ深遠な音楽性に結び付けて、自らの揺るぎないベートーヴェン像を打ち立てている。芯のある音ですべての音符を明晰かつ画然と弾き込みつつ、その中で響きのグラデーションを生かして濃やかな表情の変化を生み出しているところがいかにも彼女らしく、がっしりとした造型と細部の彫琢された表現が一体化された名演だ。第28番の第2楽章とフィナーレや第29番の第1楽章におけるダイナミックな広がりとその起伏の中に息づく豊かな感興、第28番の第1楽章でのじっくりとした歩みとフレーズの絶妙な間合いの取り方のうちに感じられる深い思索性など、表現の幅が実に多様で、第29番のフィナーレのフーガでは、どの声部も常に明瞭に引き立てて声部間の丁々発止なやり取りを際立たせ、多層的な音の綾が生み出す緊張に満ちたドラマを見事に引き出している。第29番の第3楽章も、遅すぎないテンポをとることによって必要以上にロマンティックな濃厚さに陥ることを避けつつ、しかもディテールに至るまでの考え抜かれた豊かな表情付けで時間的・空間的な広がりを作り出すことによって、後期のベートーヴェンにふさわしい深遠かつ内省的な世界に肉迫していて、まことに感動的。2曲ともにベートーヴェンの偉大さを改めて感じさせる演奏であり、満を持して録音に取り組んだ小山のベートーヴェンに対する思いが結晶化されたアルバムとなっている。

ミューザ川崎シンフォニーホール「キープディスタンス・コンサート」レポート


寺西基之 / 更新日:2020年7月9日


2020年6月16日(火)ミューザ川崎シンフォニーホール



 新型コロナウィルスゆえに日本中で演奏会が聴けなくなってからすでに3カ月以上、やっとここにきてコンサート開催に向けて動きが出始めたが、コロナ感染の脅威はまだまだ続くとあって、開催にあたってはかなり厳しい制約が国のガイドラインとして設けられている。その中でどのように演奏会を再開させていくか、音楽団体や劇場・ホールなどの主催者は模索中で、様々な形での試演が行なわれている。当欄でも先に東京都交響楽団の試演を取り上げて、それ自体が密にならざるを得ないオーケストラの舞台上の問題の検証の様子をレポートしたが、今回取り上げるミューザ川崎シンフォニーホールの「キープディスタンス・コンサート」はそれとは違って、劇場として客席やロビーの感染防止をいかに防ぐかという点に重点を置いた試演会だ。客としてマスコミ、ジャーナリスト、音楽団体、他の劇場など業界関係者のみが参加し、ホール内やロビーでの様々な感染症対策を検証するという試みであり、もともと「MUZAランチタイムコンサート 底抜けに明るいジャズ」として予定されていながら中止になった公演をそのまま試演会としたものである。

 当然ながら感染防止のために客には様々な注意事項の履行が求められる。今回はまずチケットの引き換えの際に名前と住所を記帳、マスクの着用は言うまでもなく、手指のアルコール消毒も必須、入り口前で他の入場者とのディスタンスを取りつつ並び、入場の際にはサーモグラフィーでの体温検査も行なわれる。また客と係員の手の接触を避けるために、チケットは各自でもぎって半券を箱に入れ、プログラムも自分で取らなければならない。客席(この日は100席限定だったので、1階と2階センター前方のみを使用)は前後左右1席ずつ開ける必要から座れない席には着席禁止の紙が貼られ、舞台すぐ下の1階の1~4列も使用できないようになっていた。ブラボーの声はもちろん、客どうしの会話も極力控えるようにという注意があり、またクローク、喫茶コーナー、ショップも閉鎖、冷水器も使用停止となるなど、これまで当たり前だった演奏会場のあり方からまさに一変した感がある。演奏中にはホールの外ではロビーなどの消毒もスタッフが改めて行なっていたという。

 すでに演奏会開催へ向けて動き出している様々な団体やホールもほぼ同じような方針を打ち出しているので、少なくとも当面しばらくはこうした形が演奏会の「新しい様式」となっていくと思われる。ただ実際に運用していくにあたっては、今後いろいろな問題点も出てくることは避けられまい。今回は100席のみの演奏会だったが、会場の半数(さらに制限が緩められた場合はそれ以上)の席を用いるコンサートの場合、開場の際の行列やトイレを待つ列ではたしてキープディスタンスが可能なのかははなはだ疑問だし、客どうしの会話をまったく規制できるとも思えない。今回もわれわれはロビーで普通に言葉を交わしていたし、ホール内では掲示パネルを持った係員が巡回していたせいか、さすがにほとんどの人が静かに待ってはいたものの、1階真ん中で男性2人が席に座って(マスクはしていたものの)かなり大きな声で会話を開演直前まで続けていた。業界関係者ですらそうなのだから、一般のお客様にそれを守ってもらうのはかなり難しいと思われる。演奏会終了後に行なわれた意見交換会でも、客の立場から参加者のいろいろな意見が出されたが、これから演奏会が実際に再開されてから、いろいろな事例が生じて、ケースバイケースで対応し、注意事項を修正していくことを通じて「新しい様式」は確立されていくことになるのだろう。

 ただ演奏会というのは、生の演奏を聴くことが最大の目的であることはもちろんだとしても、多くの人にとってはそこに集まる人との交流の場でもある。ロビーやドリンクコーナーもそのために生かされるのであり、そうしたことを断ってしまう「新しい様式」は演奏会本来のあり方にはそぐわないものだ。感染防止のためには当面は致し方ないにせよ、これが決して「新しい様式」ではなくあくまで「臨時の様式」であり、新型コロナの完全終息の折には、コロナ前の演奏会のあり方を今回の経験を踏まえて刷新したような、真の意味での「新しい様式」が生まれることを望みたい。

 今回は感染防止対策検証を目的とした試演会ではあったが、トロンボーンの中川英二郎、バンジョーの青木研、ピアノの宮本貴奈によるジャズ・トリオの演奏は実に生き生きとして楽しかった。青木のバンジョー・ソロによる「ラプソディ・イン・ブルー」というサプライズもあり、わずか50分ほどの短い演奏会ながら、とても充実したひと時だった。もともと「ランチタイムコンサート」として公開されるはずだったこの演奏会を楽しみにしていたファンに対しては少々申し訳ない気持ちにもなったのだが…。

 なおミューザ川崎シンフォニーホールによる毎夏恒例の「フェスタサマーミューザ」は今年も開催されることが発表された。もちろん例年通りとはいかず、座席は約600席に限って同ホール友の会会員に優先販売を行なう一方で、有料映像配信(一部は無料)として発信するという形態をとるが、首都圏のほぼすべてのオケが出演するという形は変わらず、7月23日から8月10日までほぼ連日演奏会が開催・配信されるという。配信をとおしてこれまでこの音楽祭に無縁だった地方のファンも首都圏の様々なオーケストラの演奏に触れることが出来ることになるなど、新たな聴衆を獲得するよい機会になるだろうし、長い間演奏会の休止を余儀なくされた各楽団にとっても再スタートへの大きなステップになるに違いない。
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