前島秀国の音楽日記をイッキ見

シューベルトの“記憶”――マックス・リヒター『戦場でワルツを』


前島秀国 / 更新日:2020年6月9日


作曲家マックス・リヒターが初めて劇場用長編映画音楽を手掛けたアリ・フォルマン監督作『戦場でワルツを』サウンドトラックが、公開から12年を経てドイツ・グラモフォンより再発売。先行デジタル配信が始まった。久方ぶりに聴き直し、さまざまな“記憶”が甦ってきた。8月にはCDリイシュー及び初LP化が予定されている。



まずは、僕自身の“記憶”を辿ってみる。11年前の2009年、映画配給会社の宣伝ウーマンから電話がかかってきた。「『戦場でワルツを』というもの凄いアニメーション映画が公開される。マックス・リヒターというエレクトロニカのアーティストが音楽をやっていて、そのサントラも凄いから、ぜひ見て欲しい」。言われるままに試写室に足を運び、衝撃を受けた。それをきっかけに、僕はリヒターの音楽と本格的に向き合うようになったのだが、今から思えば、非常に幸運な出会いだったと思う。なぜなら、この映画の音楽でも、あるいはサントラ以外の音楽でも、リヒターという人は一貫して“記憶”をテーマにしている作曲家だからである。

アリ・フォルマン監督がイスラエル国防軍の一兵卒として従軍中、レバノンで発生したパレスチナ難民大量虐殺事件(いわゆるサブラー・シャティーラ事件)を目撃し、記憶喪失になった実体験をアニメ映画化した『戦場でワルツを』は、劇中の機銃乱射シーンで流れるショパンのワルツ第7番嬰ハ短調が非常に名高い。しかしながら、サントラを改めて聴き直してみると、リヒターが書いたスコアでは、むしろシューベルトのピアノ・ソナタ第20番の有名な第2楽章「アンダンティーノ」のほうが重要な役割を果たしていることがわかる。いや、シューベルトがこの映画のメインテーマで、リヒターはシューベルトに基づいた変奏曲を書いている、と言ってもいいくらいだ。

サントラの《Andante / Reflection (Reflection)》において、シューベルトはリヒター自身のピアノ演奏で原曲がほぼそのまま弾かれた後、ピアノと弦楽五重奏用に編曲したアレンジ版――リコンポーズ版と言ってもいい――で流れてくる(本編のエンドタイトルにおいては、この音源を加工したヴァージョンが使われている)。つまり、リヒターは映画の最後をシューベルトで締め括っているのだが、それはシューベルトがこの映画の中で重要な役割を果たしているからである。少なくとも作曲者本人は、そのように考えてスコア全体を構成している。

もう1曲、サントラ1曲めに収録された《Boaz and The Dogs》を聴いてみよう。このトラックは本編冒頭、主人公の戦友が2年半も苦しめられている悪夢――街中で26匹の野犬に追われる――のシーンで流れてくるが、驚くべきことに、この楽曲のイントロで聴こえてくるのは、先に触れたシューベルトのリコンポーズである。野犬が走り回るシーンになると、音楽はアップビートのリズムトラックが優勢になるが、それでも背後にはシューベルトのリコンポーズがうっすらと流れ続けている。まるで、悪夢のトラウマの元凶がシューベルトにあると言わんばかりだ。

さらにサントラに収録された《Into the Airport Hallucination》では、シューベルトがチェレスタとピアノで流れてくるが、本編を見てみると、この曲が主人公を苦しめているトラウマの原因、すなわちレバノン内戦に従軍した“記憶”を語る最も重要なシーンで流れてくることがわかる。親イスラエルのレバノン大統領バシール・ジェマイエルが爆死したいう報せを受け、ベイルート国際空港に派遣された主人公がこう語る。「1週間前、彼女にふられたので、腹いせに戦死してしまおうと思った。そうすれば、一生彼女を苦しめることが出来るから」。その記憶が、シューベルトの音楽によって象徴されているのである。

別の言い方をすれば、主人公がレバノン内戦従軍中に失った記憶をたぐるように、リヒターはスコアの中でシューベルトの「アンダンティーノ」を断片的にたぐりよせていく。最終的に“記憶”が取り戻された時、苦々しく悲しみに満ちた風景が目の前に現れる。ちょうど、シューベルトが表現している悲しい音楽のように。

なぜ、シューベルトがそうした“記憶”の象徴なのか、「アンダンティーノ」の引用はフォルマン監督の指示に基づくものなので、本人に訊いてみないとその真意はわからない。しかしながら、ひとつの可能性として、同じ曲がロベール・ブレッソン監督の傑作『バルタザールどこへ行く』で使われていた“映画的記憶”に基づいているのではないかという推測が成り立つ。というのも、ブレッソンの映画では、シューベルトは人間の原罪とその悲しみを象徴する役割を果たしているからだ。仮にフォルマン監督とリヒターがブレッソンの映画を見ていなかったとしても、『戦場でワルツを』で使われたシューベルトは、ほぼ同じ役割を担っていると言えるだろう。

“映画的記憶”で言えばもうひとつ、リヒター自身がピアノ・パートを弾いているバッハのピアノ協奏曲第5番~第2楽章の抜粋にも注目したい。アルバムでは《JSB/RPG》というトラックタイトルになっているが、JSBがバッハのイニシャルということはすぐわかる。RPGは、ロール・プレイング・ゲームではない。たぶん「リヒター・プレイズ・グールド」ではないかと思う。というのも、この楽章はグレン・グールドがスコアを手掛けた映画『スローターハウス5』――第2次世界大戦時のドレスデン爆撃のPTSDを描いている――のメインテーマとして使われているからだ。つまり、リヒターとフォルマン監督は(グールドが弾いた)バッハを引用することで、『戦場でワルツを』と『スローターハウス5』の共通項、すなわち戦争の“記憶”とPTSDを示しているのである。そのことをダメ押し的に強調するように、リヒターは《The Slaughterhouse》と題したアンビエント・トラックをサントラの中に収録している。

『戦場でワルツを』のサントラには、他にもさまざまな種類の音楽が収録されているが、ことクラシックという側面に限定して聴いてみても、上に書いたような重要な点をいくつも伝えている。公開当時、そうした点を指摘した映画評論家や音楽ライターは、僕を含め、少なくとも日本にはひとりも存在しなかったと“記憶”している。世の中にあふれる劇伴は、文字通り単なる伴奏の役目しかしていない音楽が多いのも事実だが、リヒターのように映画が描こうとするテーマや内容をしっかりと把握し、それを音楽という形で表現している作曲家も少なからず存在する(終局的には、そういう作曲家のサントラしか後世に残らないし、聴くに値しないというのが、僕の基本的な考えである)。映画音楽第1作で、これだけのスコアを書き上げたリヒターは、やはり只者ではない。サントラ再発売を機に、ぜひ本編も見直していただきたい。

チェロ奏者カミーユ・トマのチャリティ・ライブストリーミング


前島秀国 / 更新日:2020年6月8日


先日、最新アルバム『ヴォイス・オブ・ホープ』をリリースしたチェロ奏者カミーユ・トマが日本時間6月8日午前1時、ロックダウン解除後初となるリサイタルを配信した。共演はピアノ奏者ジュリアン・ブロカル。出演者の意向により、UNICEFフランスへの寄付を募るチャリティ演奏という形をとっている。



ベルギー人の両親を持つフランス人チェロ奏者カミーユ・トマは、日本ではまだそれほど知られていないかもしれない。実は7月に予定されていた京響の名古屋公演でエルガーのチェロ協奏曲を弾いて日本デビューを飾る予定だったのだが、コロナ禍により公演延期となってしまった。8月に予定されている読響のサントリーホール公演ではドヴォルザークのチェロ協奏曲を弾くことになっているので、そちらでは何とか来日が実現して欲しいところだが、現状ではまだよくわからない。

僕が彼女に注目するようになったのは、ファジル・サイが彼女のために書き下ろしたチェロ協奏曲《ネヴァー・ギブ・アップ》を2年前にパリで初演し、センセーショナルな成功を収めたというニュースを目にしたのがきっかけである。それだけでも、彼女が単に既存の名曲を美しく弾くだけの演奏家ではないということがわかるが、先月まで続いたロックダウン中、彼女はパリの自宅のアパートメントの屋根に上がると、パリの空の下で演奏した動画を定期的にSNSにアップし、反響を巻き起こした。とても面白いことをする人だと思ったので、先月頭、スカイプ・インタビューを申し込み、約1時間にわたっていろいろなことを話した。その時の取材はすでにネット上にアップされているので、そちらをお読みいただきたい。

5月の取材の段階では、トマは公開での次の演奏会がいつになるか全くわからないと言っていた。しかしながら、ベルギーのロックダウン緩和(第3フェーズ、飲食店再開と無観客演奏が可能になる)が6月8日に決まると、彼女はブリュッセル在住のピアノ奏者/作曲家ジュリアン・ブロカルのアトリエ「Jardin Musical」に移動し、『ヴォイス・オブ・ホープ』リリース記念のリサイタルをライブストリーミングで配信した。演奏曲目はラヴェル《カディッシュ》、グルック《精霊の踊り》、ブルッフ《コル・ニドライ》、ブラームス《チェロ・ソナタ第1番》~第1楽章、フランク《ヴァイオリン・ソナタ》(チェロ編曲版)~第2&3楽章、ドニゼッティ《人知れぬ涙》、ドヴォルザーク《我が母の教えたまいし歌》、アンコールとしてペルト《天にまします我らの父を》(ブラームス、フランク、ペルト以外は『ヴォイス・オブ・ホープ』収録曲。今回はアルバム用の新編曲をピアノ伴奏で演奏)。ちなみに終演後のトークとQ&Aによれば、配信用のマイクロフォンはチェロがショップス、ピアノがAKGを使用したとのことである。

1曲めの《カディッシュ》から、すすり泣くような表現と伸びやかな高音で見る者を魅了したトマの演奏は、おそらく彼女がストラディヴァリウス「フォイアマン」を使用していることと無関係ではないだろう。この楽器は昨年秋、日本音楽財団から1年間の期限で彼女に貸与されたものだが、折からのコロナ禍で期限が半年間延長され、来年春まではこの楽器を使用できるということである。その《カディッシュ》をはじめ、今回トマが演奏したアルバム収録曲は、録音段階では別の楽器で演奏していた(ファジルの協奏曲のみ「フォイアマン」を使用)。だが、こうして「フォイアマン」の演奏で聴いてみると、オペラ・アリアを中心とした選曲と、彼女の歌謡的な表現の見事なブレンドが、よりヴィヴィッドに伝わってくる。加えて、ここ数ヶ月の演奏会開催禁止から解放され、ようやくリサイタルを開催できたという素直な喜びが、演奏の端々に感じられた。

しかしながら、今回の演奏で真に感銘を受けたのは、ブラームスとフランクだ。どの音符を弾いても美音を保つ特質はそのままに、ロマンティックな情熱にあふれ、音楽と緊密な一体感を保ちながら、曲の精神的な深みを伝える演奏は舌を巻いた。これを実演で聴けたら、どんなに素晴らしかろう。もし、彼女がリサイタルを日本で開催出来るとしたら、まずはこういう作品で勝負するのがよいのかもしれない。

取材の時、フランクの音楽の中に(トマ自身のルーツでもある)ベルギー的な要素を感じるか、と質問したら、彼女はこんな答えを返してきた。「ええ、ベルギー特有の温かさ、素朴さを感じます。ベルギーというのは、まさにフランスとドイツの中間的な要素を持つ国なんです。フランス音楽が、しばしば五感に訴えかける要素を持つのに対し、フランクの音楽はそうした要素を持ちながら、ドビュッシーやラヴェルにはないパッションも併せ持っています。フランクは同時に信仰心の厚い人でもありました。教会でオルガン弾いてましたしね。そういう意味で、人間の感覚的、官能的な要素と、精神的な要素のふたつ併せ持つ作曲家だと思います」。今回のフランクの演奏は、この彼女の言葉をそのまま体現していたと言ってよいだろう。

それと特筆しておきたいのは、伴奏を務めたピアノ奏者ジュリアン・ブロカルの素晴らしさ。ブロカルはピリスの愛弟子のひとりで、何度か彼女と共演を重ねている。僕は初めて聴いたが、彼の弾く弱音の美しさに惹かれないリスナーは、おそらくほとんどいないはずだ。特にブラームスやフランクの演奏では先に触れたトマの歌謡的な特質と見事に調和し、素晴らしいデュオを披露していた。チェロとピアノがこれだけ一体となったソナタの演奏は、なかなか聴けるものではない。

今回のライブストリーミングは視聴こそ無料という形をとっているが、日本では「投げ銭」と呼ばれる課金システムを用い、その収益の全額をUNICEFフランスに寄付するという試みも行われている。演奏終了後、トマは「ヨーロッパの状況は良くなっているが、発展途上国などでは依然としてパンデミックが発生する可能性が高いので、そういう国々の難民キャンプに暮らす子供たちに何よりも支援が必要とされる」と語っていた(アルバムの収益の一部もUNICEFに直接寄付されている)。

ライブストリーミング自体は、現在もブロカルのアトリエの公式サイトと、トマのFacebookページで視聴可能である。

ジュリアン・ブロカル「Jardin Musical」公式サイト:
https://en.jardinmusical.org/live

カミーユ・トマ 公式Facebookページ:
https://www.facebook.com/watch/live/?v=298910384599237

ヴァイオリン奏者マリ・サムエルセンの有料無観客演奏を見て


前島秀国 / 更新日:2020年6月1日


5月29日(日本時間30日午前3時)、ノルウェーのヴァイオリン奏者マリ・サムエルセンが有料チケット制による無観客ライヴ「Global Concert Hall: Mari Live」を開催した。配信は、ドイツを拠点とするクラシック音楽のストリーミングサービスIDAGIO(アイダージョ)のプラットフォームを使用。



先週はじめ、友人でもあるマリ・サムエルセンからダイレクトメッセージが届いた。「今週末に無観客ライヴのストリーミングをやるんだけど、日本のファンにも見てもらいたいから、情報をシェアしてもらえないだろうか?」。シェアすること自体は簡単だが、IDAGIOは現時点で日本でのサービスを開始していない。そもそも日本からサイトにアクセスすると、地域制限のメッセージが表示される(日本、中国、香港以外の約190ヶ国では利用できる)。単純にシェアしても、かえって混乱を招くだけだ。そこで「IDAGIOのスタッフに、その無観客ライヴだけでも日本から視聴可能になるか、問い合わせてみてくれないか? 可能になれば、もちろん喜んでシェアする」と返信したら、どうも本当に動いてくれたみたいで、日本からもオンラインチケットが購入出来るようになった。演奏時間は約50分、それに演奏後の質疑応答なども含めて9.99ユーロ、日本円で約1212円(クレジットカードとPaypalが使用可)。世界的に見て、ごく標準的な価格設定だと思う。ちなみにチケット売上は、20%の手数料を除いた残りの80%がそのままアーティストの収益になると明記されていた。チケット購入者ならば、無観客ライヴ開催後24時間は何度でも演奏録画を再生出来るというのも良心的である。

昨年3月、マックス・リヒター作曲《メモリーハウス》日本初演と、お台場チームラボ ボーダーレスで開催されたYellow Lounge出演で初来日を果たしたマリは、多くのヴァイオリニストのように既存の名曲を弾くのではなく、ミニマル・ミュージック以後の新しい音楽の紹介に活動の主眼を置き、場合によっては作曲家に新作を委嘱するなどして、レパートリーを開拓し続けている特異なヴァイオリニストである(一例を挙げると、映画音楽作曲家ジェームズ・ホーナーが初めてクラシックの作曲に挑んだ二重協奏曲《パ・ド・ドゥ》は、マリがホーナーに委嘱を直談判して生まれた作品)。当然のことながら、今回の無観客ライヴでもありきたりのプログラムを演奏しなかった。

オスロの録音スタジオで彼女が演奏したのは、バッハに影響を与えたとされるドイツ・バロックの作曲家ヨハン・パウル・フォン・ヴェストホフの《ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ第3番》~「鐘の模倣」、イタリアの作曲家ルドヴィコ・エイナウディの《I Giorni》、メニューインがフィリップ・グラスに作曲を委嘱した《Echorus》、エイナウディ《Una Mattina》(ヴァイオリン版世界初演。ライヴ開催日にマリはデジタルシングルをリリースした)、グラス《Metamorphosis No.2》、ブライアン・イーノ《By This River》、そしてスウェーデンの映画音楽作曲家ウノ・ヘルメルソン(とマリは発音していた)の《Sounds of Forgiveness》(今回のための新曲)と《Timelapse》。マリの独奏パートに加え、弦五部ひとりずつとピアニストが伴奏を担当していたが、いずれもフリーのミュージシャンということであった。

一見すると、彼女が曲間のトークで語っていたように「好きな曲があれば、それがヴァイオリンのために書かれたものでなくても演奏する」プログラムのように思われるかもしれないが、実のところ、マリの選曲はバロックとミニマリズムの関連という“裏テーマ”に裏打ちされている。作曲年代を知らずに、ヴァイオリンが32分音符の反復音形を延々と弾き続けるヴェストホフの曲を聴けば、ペルトか何かのミニマル作品と錯覚するに違いない。あるいは逆に、エイナウディの《I Giorni》に聴かれる、ヴィヴァルディかと見紛うような地中海的明るさに溢れた伸びやかな旋律は、間違いなくこの作曲家のルーツがイタリア・バロックに根ざしているという事実をはっきり示している(エイナウディ本人も、筆者にそのように語ったことがある)。そして、マリが最も得意とするグラスの音楽。80年代以前からグラスを聴き続けているミニマル・ミュージックの原理主義者ならば、マリのようにカンタービレで歌うアプローチに思わず卒倒するだろう。マリはグラスの音楽を修行僧的な禁欲から解き放ち、そこに純粋な音楽の喜びと美しさを与えることに成功している。こういう演奏は、少なくとも10年前までは全く出てこなかった。

以上の楽曲に加え、アンコールも演奏されたが、チケット購入者に予めアンケートをとってイーノの《Emerald and Stone》かベートーヴェンの《月光》ヴァイオリン版のどちらかを選ばせ、その結果をアンコール直前に演奏者たち本人に伝えるという試みも、ライブ配信というフォーマットを活かした試みで面白いと思った。購入者の過半数が選んだのは《月光》(結果的に、これが世界初演となった)。「予想外の結果だった」と驚きの表情を見せながら弾き始める彼女の姿が印象的だった。

コロナ禍により、観客を入れた実演の可能性が見えにくい中、マリのように有料制の無観客公演を開催するアーティストは、今後どんどん増えてくるだろう(日本でもその動きが始まっている)。その際、ガランとしたホールの演奏をスマホで配信するような、どちらかという安易な作りは、市場競争の原理に従って淘汰されていくと思う。スマホのアプリないしはパソコンのブラウザーなどを通じて配信する以上、映像的な工夫がないものは観客の関心を惹くことが出来ないからだ。今回の「Global Concert Hall: Mari Live」の場合は、スタジオ内にスモークを焚いて照明を入れ、手持ちカメラの一種であるステディカムを使って演奏者の息吹をリアルに伝えるような映像上の工夫が随所に見られた(映像論の話になるので詳しくは触れないが、ズームで被写体に寄るのと、ステディカムで被写体に寄るのとでは、画の迫力が全然違う)。無観客公演の配信は必ずしも実演の完璧な代替とならないが、それなりの良さもあるし、実演では難しい試みも可能になる。「絶対に生演奏でなければいやだ、それまで無観客公演の鑑賞は控える」と頑なに否定するリスナーは、例えば会場入場時の検温にどのくらいの時間と人手が掛かるのか、あるいは休憩時の化粧室に並ぶ聴衆の密対策はどうするのか、といった問題点を想像していただきたい。このままではライヴが開催できず、音楽文化が死に絶えてしまうと泣き言を言っているだけではなく、どうすればアーティストを支援し、音楽文化そのものを支援していくことが出来るのか、現実に即して考えるべき時期が来ていると思う。そして、そのためのツールとプラットフォームは、すでにいくつも利用可能な状態になっている。
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