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最後にして最初のレクイエムーーヨハン・ヨハンソンの遺作(3)


前島秀国 / 更新日:2020年6月14日


CD(またはLP)+ブルーレイの形でリリースされたヨハン・ヨハンソンの遺作『Last and First Men』の評論。この作品と多くの共通点を持つマックス・リヒターの『メモリーハウス』と比較すると、ヨハンソンの意図がより明確に理解出来る。



そもそも、なぜヨハン・ヨハンソンはスポメニックの記念碑に興味を持ち、その映像を延々と流し続ける映画を撮影したのだろうか?

本編のナレーションにおいて、第18世代のメッセンジャーは人類の歴史を次のように説明する。「人間という存在は、巨大な激流というより、めったに早瀬が現れない悠然たる大河のようだ。休眠と停滞の時代、単調な暮らしが延々と続く時代の節目に、きわめて稀な変化が暴発する」。つまりヨハンソンは、気の遠くなるほど遅い移動撮影やズームを駆使しながら、スポメニックを画面に延々と映し出すことで、そうした人類の歴史を表現しているのである。そして、その映像に対応するようにスコアを書き上げている。音楽のテンポが異常なまでに遅いのは、そのためだ。

ただ、そうした悠久の歴史と時間を表現するだけなら、何もスポメニックである必要はない。フィリップ・グラスがスコアを書いたゴッドフリー・レジオ監督の『コヤニスカッツィ』のように、グランド・キャニオンを映したって構わない。

第18世代のメッセンジャーはさらに説明する。「人類は、歴史のいかなる段階においても絶滅の危機に晒されてきた。化学的環境のわずかな変化、悪性微生物、気候の急激な変化、人類自身の愚行がもたらした悪影響、あるいは何らかの天体的事象だ」。この中にある「人類自身の愚行がもたらした悪影響」こそ、実は映像がスポメニックでなければならない最大の理由である。

先に触れたように、スポメニックは対独戦の犠牲者に対する追悼碑であり、ユーゴスラビアの戦勝記念碑であり、社会主義が勝利した(かに見えた)階級闘争の記念碑であったが、同時にチトー大統領の独裁体制のシンボルでもあった。しかも、チトーの死がユーゴスラビア連邦崩壊の引き金となり、その結果、一連のユーゴスラビア紛争が始まったことで、スポメニックにはさらに2つの象徴的意味合いがもたらされることになった。ひとつは、フランシス・フクヤマ的な意味での「歴史の終わり」を象徴する廃墟、もうひとつは度重なる民族紛争によって引き起こされた、いわゆる「民族浄化」の始まりを象徴する廃墟である。

人類の歴史は、“進歩”や“発展”と呼べば聞こえはいいが、視点を変えれば“闘争”や“虐殺”を繰り返してきた悲惨な歴史でもある。「歴史は繰り返す」というより「歴史は悪循環する」と言ったほうがいいかもしれない。おそらくヨハンソンは、そうした「歴史の悪循環」のメタファーをスポメニックの中に見出したのではあるまいか。だからこそ彼は、スポメニックを延々と映し出し、それに音楽を付けたのではあるまいか。「歴史の悪循環」が人間の性(さが)とでも言わんばかりに。

このような観点から『Last and First Men』を再び見直し、聴き直してみると、いわゆるポスト・クラシカルと呼ばれるジャンルに親しんでいるリスナーならば、20世紀ヨーロッパ史を題材にしたマックス・リヒター最大の実験作『メモリーハウス』と、ヨハンソンの映画版『Last and First Men』がいくつもの点で共通していることに気付くだろう。メインテーマを多くの楽章(ヨハンソンは20、リヒターの現行版は18)で変奏していく構成、予め録音された朗読テキストの使用(ヨハンソンでは映画版のみ。CD/LPには含まれていない)、歌詞を伴わないヴォーカルの使用、時間感覚を失わせる重々しいテンポ、通常のオーケストラから逸脱した特異な楽器編成、ワーク・イン・プログレスであること(少なくとも生前のヨハンソンはそのように構想していた。リヒターも『メモリーハウス』の将来的な改訂を構想している)、そして第2次世界大戦から冷戦を経てユーゴスラビア紛争に至る歴史を見つめた作曲者自身の“まなざし”である。

リヒターの場合、彼の“まなざし”は個人的な思念、つまり曲名の『メモリーハウス』が端的に示唆しているような、記憶の想起に由来している。その記憶には、彼自身が想起した歴史上の出来事だけでなく、音楽史的記憶、政治史的記憶、都市の記憶、あるいは文学的記憶も含まれている。それらを曲名通り「記憶の貯蔵庫(メモリーハウス)」に収める形で作曲された『メモリーハウス』は、結果的に、シェーンベルク、マーラー、スウェーリンク、バッハなどのパスティーシュが断片的に集積された作品に仕上がっている。

これに対し、『Last and First Men』におけるヨハンソンの“まなざし”は、ひとつの物語としての歴史――それが16mmフィルムが映し出すスポメニックの歴史であれ、第18世代のメッセンジャーが語りかける人類の歴史であれ――に対して俯瞰的に向けられている。ヨハンソンの母国語アイスランド語においては、日本人にもおなじみの「サーガ」は「物語」と「歴史」の両方の意味がある。人間の悲しい性(さが)が「歴史の悪循環」を繰り返す「物語」としての「サーガ」。それをヨハンソンは『Last and First Men』という形で表現しようとしたのではないだろうか?(続く)

最後にして最初のレクイエムーーヨハン・ヨハンソンの遺作(2)


前島秀国 / 更新日:2020年6月14日


CD(またはLP)+ブルーレイの形でリリースされた、ヨハン・ヨハンソンの遺作『Last and First Men』レビューの続き。以下、ブルーレイに収録された映画版のストーリーのネタバレと分析を含む。



映画版『Last and First Men』を見た後、僕はこの作品を音楽だけ切り離して聴くのではなく、まずは映画として作品を捉えるべきだという結論に達した。その理由のひとつは、そもそもヨハンソンがこの作品の制作を16mmフィルムの撮影から開始しているからである。

アルバムに収められたアンドリュー・メイルのライナーノーツによれば、映画音楽作曲家として注目を浴び始め、映画製作そのものにも興味を覚え始めていたヨハンソンは2010年、オランダの写真家ヤン・ケンペナースの写真集『スポメニック Spomenik』に出会う。クロアチア語で「記念碑」を意味するスポメニックは、第2次世界大戦中の対独戦で犠牲となった旧ユーゴスラビアの兵士や民間人を追悼すると共に、社会主義の勝利を国内外にアピールすべく、当時のチトー大統領の命令によって強制収容所跡地や(ナチスによる)虐殺現場に建てられた巨大な記念碑のことである。ユーゴスラビアは複数の民族で構成されていたから、特定の宗教にインスパイアされた記念碑を建てることは出来なかった。そのため、制作を依頼されたアーティストたちは、マヤ文明やシュメール文化のような先史時代を思わせる造形と、抽象的な現代美術を組み合わせた斬新なデザインで記念碑を作り上げていったという。ところがユーゴスラビア連邦崩壊後、これらの記念碑は廃墟と化し、さながら異星人が放棄した宇宙船の残骸のような姿を、現在に至るまで晒し続けている。

ヨハンソンは、これらの記念碑を16mmのモノクロフィルムで撮影することで、冷戦時代に量産された低予算SF映画のテイストを持つ映画作品を制作し、そのサントラに自ら作曲したスコアを使おうと考えた。だが、それだけだと現代美術館用の映像インスタレーションと何ら変わらなくなってしまう。そこでヨハンソンは映画の物語にふさわしいSF小説を探し始め、彼が愛読していたスタニスワフ・レム(『ソラリス』の著者として有名)などが多大な影響を受けたイギリスの哲学者/作家、オラフ・ステープルドンの『最後にして最初の人類』がこの作品の物語に最も相応しいと考えた。かくして、女優ティルダ・スウィントンがナレーターとして『最後にして最初の人類』のテキスト(の脚色)を朗読し、彼が作曲したサントラ(と若干の効果音)を加えた16mmフィルムは、1本の長編映画の体裁をとることになった。それが映画版『Last and First Men』である。

以下、映画版のストーリーの大幅なネタバレを含むが、絶版の原作邦訳はとんでもないプレミアがついていたので入手を諦め、ステープルドンの原文の斜め読みとブルーレイの英語字幕に基づいてストーリーを紹介することを予めお許し願いたい。

20億年後の未来に生きる人類第18世代のひとりが、20世紀に生きる第1世代(つまり我々)の書き手に、憑依というかテレパシーを通じて(いわゆるチャネリング)語りかけてくる。「辛抱強く聞け。我々の天文学の驚くべき発見によれば、人類の終焉が差し迫っていることが判明した。我々は、君たちを助けることが出来る。我々は、君たちの助けが必要だ」。かくして、第18世代のひとり、すなわちメッセンジャーは、20億年に及ぶ人類の進化の歴史――第1世代から生物学的に大きく変化し、最終的に海王星に住むようになったが、今回の映画版では第1世代から第17世代までの歴史はすべて割愛――を語っていく。人類の完成形態というべき第18世代は、数千年をかけて成長する不老不死の生き物となり、テレパシーによるコミュニケーション能力とグループ・マインドによって、全人類の記憶を各々が共有する存在となった。ところが、暗黒ガスの接近をきっかけに太陽の超新星化が始まり、3万年後には海王星で生存出来なくなると判明。それまで知らなかった感情(ステープルドンは明確に書いていないが、要するに死の恐怖)に囚われた第18世代は、人間のタネ(Human seeds)を太陽系外に飛ばし、外宇宙の新たな環境に人類生存の望みを託すことにした。だが、そんな環境が簡単に見つからないことは、第18世代自身もとっくにわかっている。そこでもうひとつの方法、つまりテレパシーを使って過去にさかのぼり、第1世代に直接語りかけることにした。最終的に滅亡を迎える人類の歴史を第1世代に伝えることで、過去の人類が今まで見過ごしてきた真理に目を向けさせ、過去を最善のものにすることが出来るかもしれないからである――。

以上のような物語が、ステープルドンの原文を抜粋・脚色した形でナレーションによって語られていくのだが、画面には先に触れたスポメニックの記念碑とその周辺の風景以外、人間などは一切登場しない。唯一の例外は、チャネリングを象徴的に表現したオシロスコープの緑の波形と、超新星化が始まった太陽のカラー映像だけである。

表面的にこの映画を見れば、画面に映し出されるスポメニックの異教的・異次元的な廃墟映像から、『猿の惑星』や『未来惑星ザルドス』のようなディストピアSFの要素を強く感じることが出来るだろう(驚くべきことに、いくつかのスポメニックの映像はヨハンソンが作曲降板を余儀なくされた『ブレードランナー2046』を強く連想させる)。そればかりか、メッセンジャーの説明に出てくる人類第18世代の具体的な描写を、廃墟映像の中に見出すことすら可能である。例えば、第18世代の容姿が説明されるシーン(サントラでは《Physical Description of The Last Human Beings》)で登場するスポメニックには、両眼が巨大化したナメクジのような不気味なデザインが描かれている。そのデザインが、第18世代の「グロテスク」な姿形、すなわち「頭頂部から突き出た望遠鏡のような眼」の説明と対応しているのは明らかだ。

また、物語という点から見れば、映画版『Last and First Men』は同じヨハンソンがスコアを手掛けたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画『メッセージ』と酷似していることに気付くだろう(メッセンジャーが人類第18世代か異星人かという違いはあるが)。しかしながら、ヨハンソンが『Last and First Men』のプロジェクトに本格的に着手したのは、ヴィルヌーヴ監督の前作『ボーダーライン』の作曲にヨハンソンが携わる以前、すなわち2015年頃である。したがって、少なくとも物語に関して『メッセージ』からの影響を議論するのは、ほとんどナンセンスだ。それに、ステープルドンの原作『最後にして最初の人類』はSF小説史上最も重要な古典のひとつだから、『メッセージ』の原作である『あなたの人生の物語』を書いたテッド・チャンが、ステープルドンを読んでいないということは考えにくい。その気になれば、ステープルドンから多大な影響を受けたアーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』にも、本作との類似性を見出すことだって可能だ。要するに、地球外からの“メッセージ”は、SFの普遍的な主題のひとつである。

しかしながら、僕が見る限り、ヨハンソンが遺した映画版『Last and First Men』は、もっと深刻かつ重大なテーマを表現しているように思うのだ(続く)。

最後にして最初のレクイエム――ヨハン・ヨハンソンの遺作(1)


前島秀国 / 更新日:2020年6月14日


時間に余裕が出来たので、ヨハン・ヨハンソンが作曲と映像監督を兼ねた遺作『Last and First Men』をようやく鑑賞した。タイトルは、オラフ・ステープルドンのSF小説の古典『最後にして最初の人類』に因む。今回リリースされたアルバムは、ブルーレイとCD(またはLP)で構成されている。



2017年7月、アイスランドの作曲家ヨハン・ヨハンソンはマンチェスターでマルチメディア作品『Last and First Men』を世界初演した。彼が監督した16mmフィルムのモノクロ映像を舞台上のスクリーンに映写し、女優ティルダ・スウィントンが事前に録音した朗読テキストを流しながら、ヨハンソンが作曲したスコアをBBCフィルハーモニックが生演奏するというもので、言ってみればシネマ・コンサートの一種である。当然、僕も見に行きたかったのだが、ほぼ同じ時期にマックス・リヒターが《スリープ》全曲をアムステルダムで演奏するというのでそちらを優先し、ヨハンソンのほうは仕方なく諦めた。まさか翌年、彼が48歳の若さで急死するとは夢にも想像していなかったからだ。

彼の死後、『Last and First Men』はロンドンとシドニーで再演されたが、今回リリースされたアルバムに含まれる音楽は、オリジナルのオケ版ではなく、彼が死の直前まで制作に携わっていた改訂版である。アルバムに収められたアンドリュー・メイルのライナーノーツによれば、ヨハンソンは初演の出来に不満を覚え、改訂版制作を決意。特にオーケストレーションに関して、オケ版の編成を縮小しようと考えていた。そこで彼は、コントラバス奏者/作曲家/サウンドエンジニアのヤイル・エラザル・グロットマンに改訂作業の協力を依頼したが、2018年2月にヨハンソンがコカインの過剰摂取で急死。グロットマンは未完のまま残された改訂作業を継続し、補筆・完成した上で、生前のヨハンソンと縁のあった音楽家をソリストに起用し、改訂版を録音した(トレーラーを見る限り、弦五部各4本のみの編成に縮小されたオケに、いくつかのソロ楽器とヴォーカル、それにヨハンソン自身が生前残した音源を加えている)。

これと並行し、16mmフィルムの撮影監督を務めたシュトゥルラ・ブラント・グロヴレンが、オケ版初演に使われた映像を1本の長編映画として構成。グロットマンの改訂版スコアをサントラに用いることで、映画版『Last and First Men』を完成させた。この映画版は、“ヨハンソン最後にして最初の”長編監督作として今年2月のベルリン国際映画祭で初上映された後、今回リリースされたアルバムのブルーレイに本編(2K、DTS-HD Master Audio 5.1ch)が収録されている。

このように、かなり複雑な過程で完成に漕ぎ着けた作品ではあるが、この種の補筆作業が避けて通ることの出来ない問題、つまりヨハンソン本人のアーティスティックなヴィジョンが今回リリースされたヴァージョンにどの程度まで真正に反映されているのか、というデリケートな問題は依然として付き纏っている。ただし、少なくとも全体の構成に関しては、ヨハンソン自身が演奏に加わった2017年のマンチェスター初演が“原テキスト”として存在しているので、そこから大きくは逸脱していないのだろうと推測される。そうした特殊事情を考慮した上で、今回リリースされたアルバムに接してみると、『Last and First Men』はヨハンソンの“白鳥の歌”とか“遺書”といった生易しい言葉で片付けられる作品ではなく、もっと深刻な意義を持った作品であるという確信を得た。

これを作ってしまったら、あとは小品を書いて余生を過ごすか、あるいは割り切った映画音楽の仕事を続けていくしか他に道が残されていない、というくらいのギリギリのところまで、彼のヴィジョンが濃縮して表現されている。いや、こう言ったほうが正確かもしれない。この途方もない作品の完成を阻むために――あるいは促すために――何らかの力が働き、ヨハンソンを冥界に連れて行ってしまったのだと。

この作品は、CDすなわち音楽だけで聴いた場合と、ブルーレイすなわち映画本編として見た場合では、作品の伝える内容が大きく異なってくる。まず、映画として見なければヨハンソンの意図は理解できないし批評もできないというのが、僕の基本的な捉え方である。CDはあくまでもサントラであって、それだけでヨハンソン最後の芸術をトータル的に語ろうなどという不遜な態度は慎むべきだ。

だが、さしあたってはCDの印象から記す。

CDに収録された20トラック、トータル65分のスコアを聴いてみた時、ヨハンソンの熱心なファンあるいはサントラのファンなら、特にサウンド面において、彼が2017年に手掛けたSF映画『メッセージ』のスコア、それから映画音楽における彼の遺作のひとつになった『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』のスコアと本作との類似性に気付くだろう。例えば、テープループの使用、特殊な発声のヴォーカルなど、多くの要素が『メッセージ』から『Last and First Men』に受け継がれているし、ほとんど全編を通じて流れるドローンは『マンディ』のそれを強く連想させる。実際、ヨハンソンは『メッセージ』の作曲を終えた後に『Last and First Men』オケ版の作曲を完成させ、その後、『マンディ』の作曲依頼を受けているので、これらの作品の間に何らかの影響関係が存在するのではないかと推測したくもなる。

しかしながら、そうした類似性はヨハンソンの作家性に起因するというよりは、『Last and First Men』を補筆することになったグロットマンが生前のヨハンソンから改訂作業の実際を細かく指示されていなかったため、彼が意図的に過去のサントラの音楽語法を参照した結果だと見るべきであろう。ましてや、グロットマンは他ならぬ『マンディ』のスコアを追加作曲する形でヨハンソンとコラボしているので、似てこないほうがむしろ不自然である。より正確に言えば、“似ている”のではなく“似せている”のだ。従って、ヨハンソンがこれらの映画音楽と『Last and First Men』を同じ音楽語法で書こうとした、またはどちらかがどちらかに影響を与えたなどと考えるのは、あまりにも早計である(映画『メッセージ』と映画版『Last and First Men』の類似性については、あとでもう一度触れる)。

そうした類似性を差し引いた上で、改めて『Last and First Men』を聴き直してみると、目の前に現れてくるのは、マーラーよりもショスタコーヴィチよりもグレツキよりもペルトよりもさらに遅く、重く、低く進んでいく音楽だ。曲全体を貫くメインテーマは、わずか2つの和音で構成されるモティーフの繰り返しでしかない。そこに声明のようなヴォーカルが加わり、天から降り注ぐようなソプラノが加わり、古代の擦弦楽器を思わせるチェロやヴィオラ・ダ・ガンバが静かに響く(チェロ・パートは、長年にわたるヨハンソンのコラボレーターで今年『ジョーカー』でアカデミー作曲賞を受賞したヒドゥル・グドナドッティルが演奏している)。ごく一部のトラックをのぞいて、時間を明確に刻むリズム的な要素は存在せず、特定の時代や地域を感じさせる要素もほとんどない。俗に言う「ゾウの墓場」で巨大な象が最期の時を静かに迎えるような、生とも死とも言えぬタルコフスキー的な世界を超絶的な遅さで覆う無時間的な音楽が、約1時間にわたって続いていく。日常生活の中で気軽に聴ける音楽ではない。瞑想体験か、あるいは儀式に近い音楽だ。ほとんど神秘主義としか呼びようのない彼岸の美しさと、現世を静かに諦めるような悲しみを伴った音楽である。ヨハンソン自身は、この作品を「一種のレクイエム」と呼んだと言うが、確かにここには、途方もないほど巨大な悲しみが満ち溢れている。

と同時に、この音楽を聴きながら、僕はヨハンソンと最後にして最初の取材となったスカイプ・インタビューのこと、特に彼がアルバム『オルフェ』について語っていた数々の言葉を思い出した。「基本的にシンプルで力強い要素が、できるだけ少ない手段で最大の効果を発揮するというのが好きなんです」「メランコリックであると同時にオプティミスティックであるような、悲しみと喜びを両方備えたような、幅の広い感情を表現したかったんです。現代は“幸福か絶望か”のように、人間の感情が単純に二分化されることが多いです。でも、かつてメランコリーという言葉には“悲しみの美しい側面”という意味が含まれていました。おそらくそこに、我々が悲劇や悲恋物語を愛する理由のひとつがあるのだと思います」。

これらの説明は、実のところ『Last and First Men』の音楽にもそのまま当てはまる。最小限の手段で最大限の効果を発揮しながら、悲しみと喜びを併せ持つ音楽。その意味においては、これは紛れもないヨハンソンの作品だ。

ところが、ブルーレイに収録された映画版でこの音楽を聴くと――つまりティルダ・スウィントンの朗読と、16mmフィルムの白黒映像と共に鑑賞すると――印象が大きく変わってくる(続く)。
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